第拾伍章 恋慕地獄道①
二年前、『弥三郎』様が弥三郎様であった頃のお話。
私は姉様と桜花に新しい着物を作ろうと反物を求めて反物屋さんを数件巡っていました。
しかし二人に似合う良い柄と色に恵まれず落胆して下を向いて歩いていた時、背に衝撃を受けて転びそうになってしまいました。
でも、咄嗟に腕を掴まれて転倒だけは避けられたのは幸いでした。
見れば背に大きな風呂敷包みをいくつも背負った青年がバツの悪そうな顔をしていました。
「すまねぇ。オラァ東京さ初めてで、見る物全てが珍じぐっでつい余所見じて歩いでただ」
それが私と弥三郎様との出会いだったのです。
彼は月代こそ剃ってはいませんでしたが、未だに髷を結っている垢抜けない青年でした。
当時十七歳だったと云う年齢にしては顔立ちが幼く、初めは同い年か年下に見えたものです。
「いえ、私こそ下を向いてましたので……こちらこそ失礼しました」
「いや、ぶつがったのはオラァだし娘さんは悪がね!」
彼はそう云って頭を深々と下げたのでしたが、背の荷物がそのまま彼を押し潰しそうで怖かったので頭を上げさせました。
「いえ、それに転びそうになったところを助けて頂きましたし、感謝しています」
私がお礼を述べて頭を下げると今度は彼が首を横に振って私の頭を上げてくれました。
「いやいや、元はど云えばオラァがぶつがんながっだら転ばずに済んだで、礼を云われるこっちゃね!」
そう云って彼は再び頭を下げてしまいました。
その後、私達は互いに頭を下げては相手に恐縮する事を繰り返していました。
しかし私はここが天下の往来ということを失念していました。
気がつけば私達は周りから好奇の目で見られていました。
「あ……こちらに」
私は彼の手を取って人だかりを抜けて、馴染みの茶店に落ち着きました。
思えば私はあの時、何故彼の手を取ったのでしょうか? 私だけ逃げても良かったのに……
まあ、済んだ事は仕方ないとして、そのまま別れるのも薄情な気がして互いに自己紹介をする事になりました。
聞けば彼は青森から絵の勉強をするために単身東京へとやって来たそうです。
なんでも彼の故郷の近くで西洋画の個展が開かれて、そこで西洋画の魅力に取り憑かれて一念発起をして東京に出てきたとか。
そして高名な画家が来日していて東京に滞在していたそうで、この機会に弟子入りすべく上京してきたのだそうです。
「オラァの実家は恐山にあっで、おっ母はイタコやっでて、そんで生活しでるだ」
彼の兄弟は皆小作人になって母親を手助けしていたそうですが、彼は生まれつき病弱で農作業に耐えられなかったそうです。
腕力こそ強かったそうですが、すぐに熱を出して寝込む事が少なくないそうで、いつも兄弟に負い目を感じていたとか。
でも、彼は絵の才能がずば抜けていて、イタコをしている母親の傍らで似顔絵描きとして糊口をしのいでいたそうです。
特にイタコに“口寄せ”を依頼しにきた家族から特徴を聞き出しただけで故人そっくりの絵を描く特殊な技能を持っているそうで、それが評判だったようです。
「オラァ、偉い画家先生になっでおっ母と兄弟を助げてぇ。今まで不甲斐無がった分、家族に楽させでぇンだ!」
私は彼の手を取って、何度も頷いていました。彼の情熱に打たれたのかも知れません。
私達はその場で別れましたが、その別れ際、私は明日もこの茶店で会いましょうと約束を交わしていました。
勿論、東京に不案内な彼を案内するためです。
思えば私はその時、既に彼に惹かれていたのでしょう。
その後、私達は暇を見つけては、示し合わせて一緒に芝居見物や神社参拝に出かけるようになっていました。
その事を私は姉様や桜花には内緒にしていました。私は姉妹といえども彼との逢瀬を知られたくなかったのです。
逢瀬……そう、私達は惹かれ合っていつしか恋愛感情が芽生えていたのです。
出会ってたったの
そんなある日、私は弥三郎様に呼び出されて夕方、洒落た洋食屋で落ち合う事になりました。
大事な話があるという彼の真剣な目に私はただ頷くしかありませんでした。
「お呼びだてして申し訳ありません。月夜殿」
待ち合わせのお店に着くと弥三郎様が出迎えて下さいました。
彼は洋装にザンギリ頭という垢抜けた姿で私の手を取って席へと案内して下さいます。
弥三郎様は幸運な事に上京してすぐ目的の画家に弟子入りを許され、お師匠の身の回りをお世話しながら絵の勉強をしていました。
同時にお師匠に指摘されて、まず髷を落とし、必死に標準語と英語、伊太利亜(イタリア)語を身につけて、今では下手な東京の人間よりも垢抜けた近代的な美青年へと変貌を遂げていました。
「あ、いえ、ご招待ありがたく思います」
私は糊の利いたシャツにスーツという姿の弥三郎様にドギマギしてしまい、そう答えるのがやっとでした。
こんな事なら以前知人に勧められるまま作ったドレスを着てくれば良かったと後悔をしたものですが、後の祭りです。
その後、一緒にお食事をしたはずでしたが、その時の私は相当に舞い上がっていて料理を味わうどころではありませんでした。
「月夜殿……今日、お呼びしたのは他でもありません」
食事を終えて食後のお茶を楽しんでいると、弥三郎様は居住まいを正して私の顔を見つめました。
「は、はい! 何でしょう?」
私はこの時ばかりは自分に呆れてしまいました。「何でしょう?」は無いでしょうに……
「実は……師匠が国に、伊太利亜に帰る事になりました」
「そうですか……」
私は話の先が見えず、そのまま先を促します。
「そこで私も師匠に付いて伊太利亜に渡ろうと思っています」
「え……」
私は目の前が真っ暗になったような錯覚を覚えました。
すると、もう弥三郎様に会えなくなる?
「三年です」
「はい?」
弥三郎様は私の手を取ってそう云われましたが、私は頭が回らず呆けた返事しかできません。
「三年後、私は再びこの日ノ本に帰ってきます。その時までには絵で生活できるようになっています。だから……」
弥三郎様は私の顔を真っ直ぐに見つめて私に赤い水晶玉のような物を握らせてから、言葉を続けます。
その言葉に私は涙を止めることができませんでした。
「三年後、月夜殿には私の妻になって頂きたい!」
「え……」
今度は目の前が真っ白になったような錯覚を覚えました。
そして不意に唇に何かを押しつけられた感触・・・・
「好きです。愛しています。月夜殿、私の妻になって下さい」
「私のような者で良ければ喜んで!!」
私は胸に溢れる歓喜に流され、はしたなくも弥三郎様に抱きついて今度は私の方から唇を重ねました。
「私も弥三郎様が好きです! 愛しています!! どうか私を妻にしてください!!」
彼も若かった。私も十四の小娘だったけど、感情の高まりを抑えることができませんでした。
これが私と弥三郎様の出会い、そして馴れ初めです。
この幸福がいつまでも続くと思っていましたが運命とは残酷なもので破局は既に私達の背後まで迫っていたのでした。
私の恋慕の行く末が如何なる結末を迎えるのか、暫くお付き合い願います。
私達がどのように地獄に落ちるのかは次回の講釈にて。
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