8枚のハム

星空ゆめ

8枚のハム

 私の家では度々、食卓にチャーハンが並んだ。貧しい家ではあったが、息子を3人もこしらえた親の責務までは欠如していなかったと見える。母親は律儀にも、弁当や惣菜といった安直な類に逃避することなく、献立を検討し、また一家5人の好き嫌いまで加味して調理にかかっていた。今思うとこれは超人的と言う他ない。というのも、私においてはこの超人の才能を受け継ぐことはなく、弁当に半額と記されたシールが貼られる機を伺っては、同じ味をルーチンで受容することに徹していた。

 とりわけ、チャーハンに思い入れがあるわけではない。お袋の味、と問われれば、チャーハンよりもまず、クリームシチューのほうが頭と同時に脳を介して舌の上にも思い起こされる。それは、単に私の好みの問題であり、クリームシチューに比べてチャーハンは味が劣っているだとか、手間暇を惜しんでいるだとか、そういうことではないのだが、いやしかし、クリームシチューの魅力を語るようにして、そして別の道をもってして、チャーハンを語ることも可能なのだ。

 私は、ある1つの明確な楽しみをもってチャーハンを食していた。というのも、私の中で、チャーハンには主役が存在した。いちごのショートケーキの主役をいちごだと説かれたなら、さしもの私も苦言を呈さざるを得ないが、殊にチャーハンに関して言えば、もう全く、どうして、そこにはハムという王が恭しくも凛々しく鎮座しているのであった。ここで、チャーハンといえばチャーシューやベーコンであり、ハムを使うなど聞いたことがないなどと茶々を入れることの無用さはご理解いただけるだろう。ともかく言って、私においてチャーハンの主役はハムであり、その他の卵やネギといった具材は王のための引き立て役でしかあり得なかった。あぁ、ハムの塩っけと言ったら!チャーハンを一掬いし、口に運んだ時、僅かな領域ではあるが確かな刺激を感じた時、私の全神経はその一点へと収斂する。

 食事とは、ほとんど戦いなのだ。食卓に着いた私は、いつもあるイメージに支配された。ご飯と、魚と、味噌汁が現れた時、それらは魔王に仕える敵であり、さしずめ私はそれらを駆逐する勇者なのだ。まずは魚に手をつけ、手早く倒したら、次はご飯の討伐にかかる。手強いご飯をなんとかして打ち負かし、最後に味噌汁をずずっと啜ることで戦闘は終わる。三角食べなどもってのほか、戦いの鉄則は、1つ1つ、順に倒していくことであり、勇者に備わる智慧と確かな決断をもってばっかり食べの作戦が採択された。

 そうなるとチャーハンとは、まるで巨大なボス戦である。満腹感に比例して目の前の米の山が小さくなることを望むが、実際はそうはならず、先に満足が押し寄せ戦闘は終わりを告げる。三角食べを無視し、ばっかり食べに徹した英断も、魔王の献立軍が実に多彩な人材で構成されていたからこそできた妙であり、いうならばチャーハンは、チャーハンAとチャーハンBとチャーハンCが徒党を組んで現れたようなものだった。こうなるともはや、三角食べも、ばっかり食べも意味を成さない。それは、作戦の変更の余地がないことを意味していた。

 そんな中で、たった一つの勝機こそが、チャーハンに潜むハムである。ハムの塩味は、勝利の風を感じさせた。有象無象の米の中から、僅かな塩味を求めて繰り出される咀嚼は、私からハムへの求愛であり、ハムを、チャーハンにおける王の玉座まで押し上げた。


「……」

「つまり……」

「なにが言いたいわけ?」

 目の前の女は意味がわからないといった感じでつまらなそうにチャーハンをつついていた。

「いやだから……」

「献立がチャーハンの日はチャーハンしか食卓に並ばないのよ、チャーハンをひたすら食べ続けるのは酷く退屈な戦いに相違ないが、そんな中でハムの塩味だけが私の友となり、味方としてともに戦って」

「あーそれはもう聞いた。私が訊きたいのはだからなに、その先は?チャーハンをハムを目的として食べます。はいわかりました。だからといってなに?それに…」

 女はスプーンを置いて、チャーハンから私に視線を移した。私は相変わらずチャーハンをもそもそと食べ続けている。

「普通、食事を“戦い”だなんて思わないわ。今私はこうしてチャーハンを食べているけど、それは私がそうしたいと望んだからで、決して戦いを強制されているからではないもの。あなたゲームのやりすぎなのよ。今だって食事をしながらスマートフォンでゲームをしているじゃない。そんなのだから食事を戦いだなんて取り違えるんだわ」

 どうやら女には食事に一家言あるようだった。話しぶりや、先程からの食事の所作に育ちの良さが窺えた。しかしここまでキツく当たる必要が果たして存在しようか。

 私も食事の手を止め、嫌に大きな身振り手振りを交えて話すことにした。そう、ここに切って落とされたのだ。戦いの火蓋が。

「あぁそうだ。君の言う通りだ。普通、人は食事を戦いだなんて思わないだろうね。そんなことは、君に指摘されるまでもなく承知しているよ。それに私は、ゲームのやりすぎだ。それも認めよう。あぁゲーム!それはなんて素敵なんだろう!戦いの後には褒美が用意されなければならない。でなければ、戦う意味がないからね。モチベーションというやつだよ。ゲームの主人公たちがどうして戦うか知っているかい?君はゲームをしないから知らないだろうけど、彼らは攫われたお姫様を助けるためだったり、祖国を守るためだったり、復讐のために戦うんだ。私にとってはそれがゲームそのものなのさ。私は起きている限りほとんどの時間をゲームに使ってきた。ゲームのことを語るには、間違いなく私自身のことを語らなければならない。ゲームと私はそれだけ、密接につながり合っているんだ。ゲームと比べると、他の全ては戦いさ。学校も、勉強も、部活も、風呂もトイレも食事も、全てが消化すべきタスクで、1つ1つのタスクは戦いの様相を呈している。ゲームをすることだけが意義と呼ぶに相応しく、癒しが齎されるんだ。」

 私が饒舌に捲し立てている間も、女は変わらずつまらなそうに空の皿を見つめていた。私が知る限り、女は常につまらなそうにしていた。

「話にならないわ」

 女はそう言い残し、カフェテリアを後にした。

 情緒の無い女!彼女は、私が感じる神聖に想いを馳せることはなかった。彼女にとって、彼女の両手に収まる事物だけが世界であり、他は語り得ぬもの──つまりは“話にならない”ものに違いないのだろう。世界の拡大は、全く自然に委ねられており、彼女の内なる自発は期待できない。彼女は私に対して沈黙を選んだ。彼女の世界においてそれは英断であっただろうが、私に言わせれば、彼女は全く、遅いのだ。2歩も、3歩も。

 しかし思えば、久々にこんなにも熱くゲームを語った。ゲームを中心に取り巻く環境は、最も熱中していた当時と比較して随分と様変わりしてしまった。端的に換言すると、ゲームを語る相手など、この世界には既に存在していなかった。


 彼女にはなんたら研究所で研究員として働くという目標があるらしく、また目標に相応しい道を選び、大学院に進学した。一方はと言うと、私は進学も就職も定かでないまま卒業し、今日まで続く空白期間が得られた。

 季節は巡り、何度目かの4月を迎え、念願叶った彼女はなんたら研究所に就職し、晴れてなんたら研究員として活躍の場を与えられたらしい。今の私にとっては、縁もゆかりもない話だ。大学などという空間に働いていた弱い力で繋がった弱い関係など、卒業してしまえば跡形もなく崩れ去る。

 当時の学友はみな思い思いの進路を選び取り、いくらかの者は念願叶い、いくらかの者は妥協を余儀無くされたが、念願を持つことも妥協を味わうこともなくただ時の流れに身を委ねた者は私をおいて他には見当たらなかった。そして私には、件の弱い力しか働いていなかったらしく、私を中心に取り巻く関係は、私から私に向かって伸びる関係を除いては、全て霧消した。

 私はこの数年間を「空白期間」という言葉にこれでもかと相応しく過ごした。いくら辿っても、なにか一つでも物事を為した記憶がない。そこには、戦闘も、癒しもなく、ただ時が過ぎた事実の累積だけが鎮座していた。意義も、へったくれもない、物語の後書きすらもない。ただ空白のページが何枚にもわたって綴られている。無味乾燥に過ごした。人生で何度か味わった激情は一度たりとも再燃しなかった。私は、刺激に飢えていた。

 “無味”、という言葉は、比喩に止まらない。耐え難い人生への刺激の欲求を、私は舌で感じた。

 その時思い起こされた!チャーハンに混ざったハムのことを!彼らは、まごうことなくチャーハンの主役であった。戦いの中に確かな刺激を与えてくれた。今こそ再び、剣を取る時ではないか!

 子供の時分は、与えられた環境で世界が決する。与えられた家に住み、与えられた男女を両親と呼び、与えられた飯を食う。しかし、今や私は自由なのだ!私の世界は、私の決定に委ねられた。生まれて初めての引っ越しを決行したあの日、私は人生で味わったことがないほどの自由を感じた。両親の居ない空間に24時間身を置くことに、新鮮を感じた。今こそ、自由を行使する時!両手に余る自由を謳歌するのだ!

 私はコンビニまで歩き、8枚入りのハムを購入した。開封し、ハムの束を掴み、そして食らった。しょっぱく、もそもそしていて、ハムの束には私の歯型がついた。

 ハムは、思ったほど減ってはいなかった。


 家に帰り、空になったハムの容器を捨て、ふと思い立って、ゲームがしまってある棚を開けた。ゲームは、埃を被っていた。

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8枚のハム 星空ゆめ @hoshizorayume

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