貸出履歴

佐伯亮平

貸出履歴

『愛と美について(太宰治)』


「貸し出し、おねがいします」


 私が差し出した本を図書委員の彼女は黙って受け取った。

 私に一瞥すらくれず、本の裏表紙に汚く貼り付けられたバーコードを流れる様に読み取り、何も言わずに私へと突き返す。

 愛想も何もあったものじゃない。

 本を受けとるときに、わざと彼女の指先に触れる。

 ほんの少しだけ、偶然を装って。

 いつも本を読んでいるせいか、油分の少ない彼女の指先は、さらさらと滑るような感触だった。


 彼女に出会ったのは、入学してすぐの頃だった。

 高校生活に胸を踊らせていた私は、けれどクラスに馴染めず、いつも一人で過ごしていた。

 昼休み、教室から逃げるように図書室に入ると、窓から吹き込む春風に前髪を揺らす彼女がいた。

 時折ヒラヒラとなに食わぬ顔で入って来る桜の花びらには目もくれず、彼女はひたすらに本の世界に入り込んでいた。



『夏草(島崎藤村)』


「貸し出し、おねがいします」


 春はほとんど人がいなかった図書室も、夏になると生徒達で少し賑わう。

 冷房が良く効く図書室に涼みに来ているのだ。

 棚に並んだ本には興味を示さずに、小声で、けれど十分に図書室に響く音量でおしゃべりをしている。

 そんな生徒たちに注意もせずに、図書委員の彼女は今日も本を開く。

 うるさくしている生徒に注意をするのが、図書委員の仕事ではないのだろうか。

 職務怠慢に少し苛立ちながら彼女に目を向ける。

 騒がしい生徒にも、私の視線にも気がつかない彼女にいら立ちを覚えた。

 教室だけでなく、図書室にも居づらくなってしまった。

 はやく夏休みがくればいいのに。



『たけくらべ(樋口一葉)』


「貸し出し、おねがいします」


 長いようで短い夏休みが終わり、憂鬱な学校生活が再開する。

 ひと夏の経験でもしたのだろうか。廊下に溢れかえる生徒たちは、夏休み前よりも騒がしい気がする。

 いかに自分が有益な夏休みを送ったのか、いかに自分がクラスのヒエラルキーの上位にいるのか、そんな下らないことを主張するように。声を張り上げて笑い、マウントを取り合う。

 くだらない。馬鹿馬鹿しい。

 騒がしい生徒達の間を抜けて、陰鬱な気分のまま図書室へと向かう。


 どこか物悲しく感じる秋の図書室に、彼女は夏休み前と変わったようすもなく、同じように貸出カウンターの席に座り、同じように本にかじりついていた。

 どんどん変わっていく生徒たちの中、変わらない図書室と変わらない彼女に、少しだけ安堵を覚えた。

 本を片手に彼女が見える席に座り、私も本を開く。

 彼女と二人だけの図書室が、少しだけ心地よく感じた。



『野麦の唄(林芙美子)』


「貸し出し、おねがいします」


 秋が終わり、空に小雪がちらつき始めた。

 夏の冷房は強いのに、図書室の冬の暖房は弱い。

 彼女の座る貸出カウンター付近の窓は、換気のためか年中少しだけ開いているようで、時折ごうと冷たい風が吹いてくる。

 厚手のマフラーに首を埋めている彼女は、時々寒さに震えながらも本に目を落とす。

 夏より少しだけ長くなった髪がマフラーに巻き込まれ、ふわりと弧を描いている。

 私もマフラーを首に巻いたまま、本を片手にいつもの席に腰かける。

 彼女の見える席に。

 少しずつ、本を読む時間が減り、読書に没頭する彼女を眺める時間が増えていく。

 またごうと強い風が吹き、彼女の頬を冷たく撫でた。



『心(小泉八雲)』


「貸し出し、おねがいします」


 校庭の桜が散り始めた。

 クラス替え後の教室にも馴染めず、馴染む気もなく、私は今日も図書室へと通う。

 三年生になった彼女は、相変わらず図書委員となったようで、今日も貸出カウンターで本に目を向ける。

 変わっていく季節の中で、変わっていく環境の中で、彼女と図書室だけがかわらずにそこにある。

 去年の春となにも変わらない景色の中に、そっと私の姿も混ぜ混んでみる。

 図書室と彼女と私。世界がこの3つだけで構成されていたらどんなに幸せだろう。

 他のものは何も要らない、誰も要らない。

 桜がいつまでも散らずにいてくれればいいのに。

 少しずつ進む世界で、彼女の長い前髪から覗くまっすぐな瞳を、何度も何度も盗み見た。



『扉(川端康成)』


「貸し出し、おねがいします」


 学校の老朽化したエアコンが一新され、去年よりも快適な夏が来た。

 教室が快適な温度なら、生徒たちから図書室に足を向ける理由は無くなる。

 押し寄せるようなセミの声がガラス窓を割れそうなほど叩く。

 大音量の合唱を意に介さずに今日も彼女は本を捲る。

 去年はあんなにも居づらかった図書室が、今年はこんなにも居心地がいい。

 今日も彼女が見える私専用になった席に腰を掛ける。

 どこか外の世界の喧騒から切り離されたような図書室で、彼女と私がペラリペラリと小さな音を奏でる。

 彼女を視界の端に納めながら、本の世界に入り込む。

 夏休みが来たら、しばらく彼女を見ることもできない。

 夏休みなんてなければいいのに。

 何時ものようにちらりと彼女を盗み見る。夏服の短い袖から伸びる白く細い腕が眩しい。

 そっと触れたい衝動を抑えて、私は今日も本を借りる。

 彼女の指先に、少しだけ触れるために。



『学問のすすめ(福沢諭吉)』


「貸し出し、おねがいします」


 いつからか、私はその横顔の虜になっていた。

 放課後は彼女の見える席に座り、視界の隅に彼女を置いて、私は読書をする。

 誰にも言えない、誰にも邪魔されない、私の幸せな一時。

 窓から吹いてくる秋の風が彼女の真っ黒な髪を揺らす。

 さらさら、さらさら。

 細く柔らかな黒い髪が、砂時計のようにさらさらと流れる。

 このまま時が止まってしまえばいいのに。

 私の願いは届かずに、秋の寂しげな太陽は少しずつ沈んでゆく。

 二人だけの図書室を真っ赤に染めながら、ゆっくりゆっくりと沈んでゆく。

 夏休みが終わってから、彼女が図書室にくる頻度が少なくなった。

 高校三年の秋。受験に向けて勉強しているのだろう。

 彼女と会える日が1日1日と消費されていく。

 彼女に会えないまま消費されていく。



『捨てられる迄(谷崎潤一郎)』


 受験は順調なのだろうか。志望校はどこなのだろうか。

 彼女のいない図書室で、彼女のいない貸出カウンターを眺める。

 目をつむると彼女が本を開いている姿が鮮明に浮かんでくる。

 春、夏、秋、冬。

 どの季節の彼女の姿も、はっきりと思い出せる。

 もうこのまま、彼女に会うことのできないまま、彼女は卒業してしまうのだろうか。

 誰もいない図書室で、いつも彼女がいる席に座ってみる。

 パソコンの電源ボタンを押すと、セキュリティ意識など微塵もないそれはパスワードの必要もなく画面を開いた。

 ぽつんと表示される貸出システムのアイコンをクリックする。

 その日私は九冊の本を借りた。

 彼女への想いを、誰にも言えない私の気持ちを、そっと貸出履歴に残すために。



『金閣寺(三島由紀夫)』


 卒業式が終わり、私の高校生活から彼女の存在はいなくなった。

 高校三年生になり、図書委員となった私は、彼女に置いていかれた図書室で彼女のいた席に座る。

 図書室の窓から見える、彼女が見ていただろう景色を眺める。

 桜は去年と同じように咲き誇る。

 彼女に置いていかれた私を見下ろしながら、白々しく咲き誇る。

 彼女の前髪を揺らしていた春風に私も吹かれながら、貸出システムを起動する。


 司書教諭に聞いた彼女の名前を、貸出システムに打ち込んでみると、意外なことに貸出履歴はほとんど無かった。

 履歴に残っているのは、何故か卒業式の日に借りられた、たった五冊の本だけ。

 その本のタイトルを見て、私の心が少し跳ねる。

 伝わっていたのだろうか。気が付いてしまったのだろうか。

 誰にも言えなかった、私の気持ちに。


 もしまた会うことが出来たら、今度は話しかけてみよう。


 「貸し出し、お願いします」


 それ以外の言葉で。



【貸出履歴】

3月24日16時10分 著書 『アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス)』

3月24日16時16分 著書 『リップスティックジャングル(キャンディス・ブシュネル)』

3月24日16時22分 著書 『ガラスの街(ポール・オースター)』

3月24日16時26分 著書 『トリスラム・シャンディ(ローレンス・スターン)』

3月24日16時29分 著書 『うたかたの日々(ボリス・ヴィアン)』

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