異世界でも君にのぼる月は綺麗だ

本國 ポル虎

第1話 なあ、異世界でも月は綺麗だ




「わたしさ、サ○ジ好きなんだよね」


 本当に馬鹿みたいな話だがその日、俺は生まれて初めて煙草を吸った。






 ――三度、三度じゃぞ。三度続けて血を吐けば、お主は死ぬる。


 師匠がそう言っていた。

 のじゃロリけも耳カンフー美少女魔族という属性欲張りセットみたいな人だったが、師匠には本当に随分と世話になった。


 ――本当は止めたいところじゃ。治療に専念すれば、助かる見込みは少ないかもしれんが、決してゼロではないのじゃ。わしは、本当はお主を打ち据えて手足の二、三本いで半殺しにしてでも止めたい。


 まあ、止めても無駄だという事だ。

 師匠は分かっている。付き合いは長くは無いが、それなりに深い。

 異世界召喚とかいう糞怪奇現象に巻き込まれて、俺たちはこんな糞世界へ召喚された。

 幼馴染は魔王と戦う勇者とかに選ばれて、俺は選ばれずに、別々になって、それでも俺はこの世界でなんとか生きなきゃいけなかった。


 師匠に拾って貰って、お主、天稟があるのう、とか言われて、俺は血反吐を吐きながら体術を身につける事となった。

 師匠はこの世界の伝説的な体術の達人で、熱心に修行をしてくれた。

 おかげで弟子である俺もまあ、それなり程度の腕は身につけたはずだと自負している。


 橋の、欄干の上に腰掛けていた。

 街の中にある高い橋だ。

 先日の大雨で増水し、川の水は濁流となり、地鳴りのような凄い音を立てて激しく流れている。

 仲間たちから情報を得た。勇者を狙う凄腕の暗殺者たちがいまからここを通る。

 待ち伏せということだ。

 ここを通りたきゃ俺を殺してから行きな、ってやつ。

 呼吸がひどく億劫に感じる。

 夏なのに、ひどく肌寒くて、顔を触ると汗に濡れて冷たかった。


 ふと、夜空を見上げるとひどく月が綺麗だった。

 あのも月を、見上げているだろうか。


 寒さに凍えた。

 不意に、陰った。

 雲が月の光を遮っていた。


 来た。

 人影、四人か、歩いてくる。

 気を放った。

 影たちは歩みを止めた。

 欄干から腰を上げる。体が重い。

 顔を触ると冷たかった。

 もう、汗すらも出ないようだ。


「この先いっても、すぐそこに勇者たちが宿泊してるホテルしかないぞ」

「そこに用があるのだ」

「お前らみたいな物騒なのが何の用だ」

「貴様には関係無かろう」

「あるさ。あの娘の敵なら、俺の敵だ」

「小僧、名はなんと?」

「無い。掟でな」

「名誉も栄光も無く死ぬか」

「いらないな」

「ほう」

「あの娘が笑ってりゃ、それでいい」


 刹那、気が弾けた。

 同時に跳んだ。蹴りが交差する。空中で身体が入れ替わった。

 地面に立った。と同時、影がいた、凄まじい拳圧。気が付くと身体がすれ違っていた。


 月光。雲が晴れた。


 拳に痺れの様な手応えがあった。

 白い月に照らされ、一人の男が血を吐いて崩れ落ちた。

 億劫な呼吸。身体が冷たく、衣服を濡らした汗がまるで氷のようだった。

 三人が俺ひとりを取り囲むように展開する。

 不意に、何かが込み上げた。来た、と思った。


 吐血。激しく咳き込んだ。


 虚を突かれたように、本当に一瞬だけ時間が止まった。

 視界の端、跳躍する影を捉えた。高く跳んだ。蹴りを躱し同時に膝を叩き込んだ。

 男は頭から落ちた。既に絶命している。

 着地と同時、拳がきた、連打、風を打ち付ける音。ほとんど目では捉えられず、だが見るともなく身体は躱していた。

 痺れる様な凄まじい上段突き。左手で躱し、同時に半歩踏み込んでいた。右拳が胴を撃ち抜く。拳の先、柔らかいものが砕け散る様な手応えがあった。

 男は痙攣しながら数歩、腹を抑えたたらを踏みながら後ずさった。

 飛び出しそうなほど見開いた目と鼻、木のうろみたいに開けた唇から、ごぼごぼと血をこぼしながら膝からゆっくりと崩れ斃れた。


 数度、小さな咳の残骸が口から漏れた。

 吐いたのはどす黒くておかしな臭いのする血の塊だった。

 浅い息を吐きながら腕で口元を拭う。腐った血のついた自分の手が驚くほど白い事に気付いた。

 まるでホラー映画のお化けの様な白さだ。手でこれなら、顔は紙よりも白いだろう。

 身体は冷たかった。

 不思議と寒くはなく、ただ冷たかった。


「小僧、死相が出ておるぞ」

「そうだろうな」


 自分でも不思議なほど技が冴えていた。怖いほどだ。

 燃えていた。俺の命が、激しく燃えているのを感じた。

 燃え尽きるなら燃え尽きればいい。

 今だけでいい、燃えろ。人生の中で一番強く、激しく燃えろ。


 一瞬で燃え上がり、全力で駆け抜け、ただ激しく燃え尽きていく超新星の様に。


 血が、込み上げて来た。視界が急激に狭まる。

 不意に、沈み込むように影がすれ違っていた。

 腹を打たれ、だが半身になり直撃は免れていた。

 胸の中で何かが弾け、逆流する。だが指先は喉を捉え、引き千切っていた。

 蹴り、そう思った。同時に右足で蹴りを放っていた。

 蹴り同士が月を背に激しく打ち合う。

 同時に飛び退り、俺は咳き込んだ。

 喉の無い男がぐらりと斃れた。

 激しく咳き込む。抗いようがないほど咳き込み、吐き出した。

 腐ったような奇妙な臭いの、黒い血の塊。

 視界が赤と黒に激しく明滅し、やがて収まった。

 一度、ゆっくりとため息を吐いた。


 ――三度、三度じゃぞ。三度続けて血を吐けば、お主は死ぬる。


 あと一回だ。

 瞼を瞑る。

 面影が浮かぶ。

 何も問題は無かった。

 俺は静かに構えをとった。

 呼吸がしにくい。

 終わりは近いだろう。

 あと一人。


「小僧、強き男。名を何という」

「俺の名より、—―――、って名を憶えとけ。世界一可愛いぞ」

「それは、なんだ?」

「俺にとって、この世で一番、聖なる名前だ」


 駆けた。


 誰も追いつけないほど、激しく燃え尽きる、超新星のように。


「――――」


 叫んだ。誰にも聞こえないように。あのこの名前は胸の奥で溶けていった。


 誰もいない月明かりの下で、少年と男が激しく打ち合っている。

 男が打った稲妻のような拳を少年が掌で受け、同時に少年が放った蹴りを男は躱していた。

 少年、流れるような蹴りが月下を舞った。鮮やかなほどだ。男は下がりながら紙一重で躱し飛び退った。

 男は小さく肩で息をしている。

 少年は白い顔でただ静かに立っていた。


 不意に、少年が口元を抑えた。

 激しく咳き込む。何かを吐いたようだ。

 無理矢理抑え込もうとしているかのような、指の隙間から飛沫が噴き出した。

 赤い。それは赤い血液だ。

 止まらない。血を吐き続ける。

 吐き続け、吐き続け、どす黒い血の塊のようなものを吐いた。


 少年はふっと、膝を折りかけた。

 男が間合いを詰めかけ、なにかに打たれたように止まった。

 少年は小さな、ほとんど分からないような浅い息をしていた。

 ゆっくりと顔を上げた。

 気が、痛いほどに張り詰めて空間に揺らぐ。

 口を拭い、小さく少年は息をついた。

 蒼白の顔。唇も色を失い青い。それはまるで死人のかおだった。

 不思議な、穏やかな目をしていた。

 少年の目は、月明かりの中でただ静かに、微かに光っている。

 ゆっくりと構えをとった。

 色を失った真っ白い顔が、どこか小さく微笑んですらいるように見える。


 月が照らす赤い血だまりに、少年の姿が移り込んでいる。

 風でも吹いたか、それとも何か水滴がひとしずく落ちたのかもしれない。

 血だまりにささやかな波紋が広がり、少年の姿が儚げに少し揺れた。


 少年の放つ気が、細く糸の様に研ぎ澄まされ、静かに夜に揺蕩たゆたった。


「ねえ、彼女、つくらないの?」


 不意に、耳の奥で。少し、女の子にしては少し低めの声かもしれない。聞いてると、眠れそうな、ずっと囁いていて欲しいような、あの娘の声。

 俺は、たぶん笑っていたな。


 無造作に踏み込んだ。蹴り、交錯した。痺れるような風が頬を撫でた。もう半歩踏み込む。男は躱した。


「すきな、いないの?」


 首を刈り取る様な凄まじい蹴りが飛んできた。


「わたしは、いるけど、ね。なかなか……ね?」


 俺は髪が地に掠りそうなほど頭を下げ、躱しながら独楽のように背面から回し蹴った。


「あ、それ新発売のだよね。ひとくち、ひとくちだけ、だめ?」


 男は血を撒き散らしながら歯を食い縛り踏み込んできた。


「ねえ、先輩に告られたんだけど、どう思う……?」


 擦れ違う。膝蹴り、同時だった。


「……そ……じゃ、付き合おっかなあ……」


 胸は火が付いたように熱く、どろりとした血が白い口から溢れ出した。


「……うん……そうだね、試しに、付き合ってみる、ね……」


 俺は、とりとめもない会話をどうしようもなく思い出していた。

 闘いながら少し笑ったと思う。懐かしい記憶。

 今じゃ遠い、遠すぎて悲しい尊い想い出。

 何が悲しくて女子高生が異世界で魔王退治に旅の空だ。

 自分の身体が冷たいのをふと感じた。


 打ち合う。終わらない拳。俺は踊る様に蹴った。位置が入れ替わる。

 視界が白黒映画のように明滅した。


 胸の中で、何かが壊れたのを感じていた。

 それがどす黒い血の塊になって出てきた。

 取り返しのつかない決定的な何かが。


 ――自分でも怖いほど技が冴える。


 男の蹴りを蹴りで打ち落とした。跳躍した。爪先が男の顎を掠り、そのまま中空で回った。二撃三撃と着地までに俺は蹴り踊り狂う。

 男はカンフー映画みたく吹っ飛んで血を吐いた。

 俺は眠りかけた。


「……先輩? ああ、なんか三日で別れちゃった」


 いっしょに、隠れるようにして屋上階段の踊り場で弁当を食ったよな。

 あなたの卵焼き、とても美味しゅうございました。大変光栄でござりました。

 えらいよ、自分で作るなんて。なにより本当にありがとうございました。

 あのとき俺は世界一の幸せ者でした。


 交錯した。すれ違うと右目が見えなくなっていた。


 一緒に帰った。夕暮れで、君は笑ってた。

 俺はそんな君を見て、どうしようもなく眩しくて目を細めてた。

 どうでもいいような話をして、でもそれがなんだか楽しくて。

 わざわざ遠回りをして帰ったよな。

 そのくらい楽しかった。あの時間、終わってなんか欲しくなかった。


 視界は赤黒く、ひどく狭く遠く、何もかもが朧気だ。


「……やっぱ、好きでもない人とつきあうのって、ぜったい、なんか、違うとおもう」


 ずっと一緒にいたかった。

 ずっと一緒に歩いていたかった。

 いや、見ていたかったんだろうな。

 いいさ。いいんだ。

 君が幸せなら、隣にいるのは俺じゃなくたって、そんなのどうだっていい。


 同時。高く跳躍していた。


 一つだけ、後悔している事があるんだ。

 たぶん君は困りながら、

 それでも笑って許してくれただろうと思う。

 でも勇気が無かった。

 俺、一度だけでいいからさ。

 君の手を握って、

 一度くらいは帰ってみたかったんだ。


 ――ねえ、いま、外見れる? 見てみて、すごく月が綺麗。


 眩い月光を背に、蹴りの影が交錯した。


 俺はもうすぐ終わる。

 願いは一つだけだ。

 どうか君は、


 少年は体勢を崩しよろめきながら降り立った。

 痙攣するように激しくたたらを踏み数歩よろめき歩いていた。


 どんな女の子よりも、幸せになってくれ。


 男が、ゆっくりと少年を振り返った。

 少年は糸を切られた人形のようにゆっくりと膝をついた。

 顔は白くて、とても眠そうにしていた。


「見事」


 にやりと笑い、月明りのなか、絶息し男は崩れ落ちた。




 ――ほんとだ、信じられないくらい、月が綺麗だ。




 背後、ずっと下で激流が地鳴りのような音をたてて流れている。

 気が付くと、知らない通りの欄干に座らされていた。

 身体は冷たいが、不思議と寒くは無かった。

 明るい月光が、俺の影を煤けるように薄く作っていた。

 俺は目の前に立っている男に億劫ながらなんとか顔を上げた。


「……後片付けは、俺らがやった。だから、何も心配するな」


 幼馴染の腐れ縁。

 こいつが言うんだ。

 死体も、争闘の痕跡も、跡形も無いだろう。

 俺は笑った。

 思い残すことが無さ過ぎて心から笑った。

 ちゃんと笑えたのかはわからなかった。

 身体が冷たい。不思議と寒くはない。

 目が、あまり見えない。

 燃え尽きる寸前の蝋燭だ。


「ここは?」

「あいつらが泊ってるホテルの前。いまお前は川沿いの欄干に座ってる。七階の明かりがついてる部屋、あそこだ、大きな張り出しのある、スイートルーム。わかるか?」


 目を細めてもほとんど見えなかった。

 暗闇に朧気に光が見えた。

 光だ。それは俺の光だった。

 理屈じゃなくわかった。その光の中にいる。

 間違いなく、遠く眩い、光の中にいる。


「ああ、見えたよ。悪いな、連れて来てもらって」


 本当に、お前には苦労を押し付けてしまっている。

 すまないな、お前に押し付けて、俺は先に逝く。


「……水臭いぜ」


 一瞬、唇が戦慄いたのがぼんやりと見えた。

 笑おうとして、何度か口角が引き攣る様に痙攣したのだろう。

 俺たち、いったい何人の仲間の死を見送ってきただろうな。

 いつ自分の番が回ってきてくれるのかって、話してたよな。


「……南のとある農村の、可愛い子と出来て、作物を作って、猟をして、そのうち子供が産まれた。お前、本当は子煩悩そうだから、きっと、もの凄く親ばかになるんだろうな」


 死んだときの物語だ。

 あらかじめ決めておく。

 俺は土と語らい土に還る。この異世界のどこにでもいる男になって、この異世界のどこにでもある人生を送り、この異世界の人波の中で暮らして消える。

 俺たちの掟だ。

 俺の死なんて、あの娘は知らなくていい。

 笑っていてくれれば、ただそれだけでいい。


「……後のこと、何一つ心配、しなくていいからな」


 すまない。そう、心で詫びる。

 思えば、お前には背負わせてばかりだった。


「さ……て、もう行くわ。俺、忙しいしな」


 生き残った者の背は、死んだ仲間たちを背負う。

 それでも歩き続ける。

 くずおれ、倒れてでも這ってでも前へ進む。

 それは地獄だった。


「じゃあな」


 また明日。

 そんな感じで互いに言葉を交わした。

 男同士だ。別れの言葉なんていらない。

 だから俺たちの物語に別れの場面なんて無いのだ。


 俺はラスいち・・・・の煙草に火を点けた。

 吐き出した煙が白い月光に煙る。

 ひどく眠い。うとうとと寝落ちしそうになる。

 鉛のように重い左手を持ち上げ、煙を吸い込んだ。

 俺はその部屋の灯をぼんやりと見つめていた。

 今夜の月は綺麗だから、見せてやりたかった。

 違うな。ただ君に見て欲しかった。

 なあ、異世界でも月は綺麗だよ。


 欄干に座る影は、ぼんやりと見つめていた。

 月明かりが逆光になってよく見えないが、両手は力なく降ろされ、その姿は弱々しく、消えてしまいそうだ。

 輪郭の先、煙草だろうか。蛍のような小さな灯りが時折、青く細い煙を上げて弱々しく明滅する。

 不意に、影が震える顔を上げた。

 貸し切りの立派なホテル七階、突き出しのベランダに少女が二人、可愛らしくはしゃぎながら出てきた。

 咥えた煙草の火が小刻みに震えた。


「月がすごく綺麗—―!」


 影から一滴だけ涙が落ちていった。

 影は少女を見つめた。

 ほとんど見えない目に焼き付けるように。

 もう満足だ。

 影はそう言っているようだった。

 少女の声を聞きながらその時を待った。

 一瞬、静かに痙攣して、咥えていた煙草が地面に落ちた。


 影はゆっくりと後ろに頽れていき、


 瞼の裏、少女の面影を抱いて、


 微笑みながら月光のなかへと消えていった。






 ――異世界でも君にのぼる月は綺麗だ。






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