03

「未加、これはどういうことだ?」

 厚く垂れこめた雲の向こうにうっすら朝日が昇ったころ、未加は玄関の鍵を慎重に差し込んだ。こっそり開けたドアの先には博嗣ひろつぐが待ち構えていた。直立不動で腕を組み、射抜くような厳しい目を向けていた。外は大雨の予感がした。

 テーブルには妊娠検査キット。

 背筋がざわめいた。

 クローゼットの奥に隠しておいたはずだ。スキンを求めた夫が偶然見つけてしまったのだと察した。

「なぜこんなものが? 説明しなさい」

 彼にもだいたい予想はついているだろう。連日の外泊、セックスレス、今日に至っては朝帰りだ。

「そのことで私も話があるの」

 ちょうどいい、と思った。一から説明して激怒されるよりずっと楽だ。

「――男か?」

 即答できなかった未加に彼は盛大に顔をしかめた。

「妊娠してるのか?」

「してるよ」

 知らず身体は委縮いしゅくする。上場企業の縦社会で何年も生き抜いてきた経験が、博嗣への恐怖を加速させる。それでも小刻みに震える手に気づかれないよう、懸命に彼を見据えた。

「どこの若造だ⁉」

 粉砕するほどの勢いで夫の手がテーブルに落ちた。恐ろしさに後じさった。この人がこんなに怒った姿は会社でも見たことがない。

 本質的には女の扱いに慣れたスマートな紳士だった。仕事で大きなミスをしたときはカバーに入ってくれて、ときには真剣にしかってくれて、悩みを相談しているうちに親しくなった。

 もちろん欠点はある。

 ケンカすると決して折れない。自分勝手で、相手を自分の思い通りに操ろうとする節がある。

 それでも全部ひっくるめてこの人を愛していた。ただ――

「他に好きな人ができました。別れてほしい」

 それだけのこと。

「なんだと」

 威厳たっぷりな昼の顔とは裏腹に、膝枕ひざまくらをねだったり、上に乗るとあっという間にイッってしまって申し訳なさそうにする夫が、今は未加を仇敵とばかりに睨みつけている。

 恐ろしかった。

 いつその太腕が振り下ろされるかと。

 幼少期に植えつけられたトラウマが。

 男性への根源的な恐怖。

 ――ばぁば、力を貸して。

 大丈夫。未加。ヒーローがついてる。大丈夫。

 今度こそ幸せに。

 誰の意思でもなく自分自身の力で。

「博嗣さん。あなたがのことが好き」

「だったら」

「世界で2番目に」

 博嗣はメガネの奥の目をカッと見開いた。

「あなたがもしも私と出会う前に他の人と結婚してたら? 後で私と出会ったら?」

 そう。最初に運命の人と出会うとは限らない。順番の問題に過ぎない。"その人"を見つけてしまったら、外面そとづらは装えても心にウソはつけないんだ。

 幸か不幸か二人に子どもはない。

「神様の天罰が下ってもあなたを傷つけても、私は自分の幸せをあきらめたくない」

 母親のようには決してならない。

 不幸を神様のせいにする人間に。

「ふざけるなよ」怒りで拳を振り上げた。

「離婚の話をしよう」

「離婚はしない」

「もうムリだよ。ナイショで男作った女をまだ抱きたいと思えるの? 子どもの親になれる?」

「おまえの思い通りにはさせんぞ! 絶対に」

「わかった。じゃあ訴訟だね」

「訴訟だって? ハハッ、バカなやつだ。勝ち目があるとでも?」

「戦う。覚悟はできてる」

「そんなことして会社にいられると思うなよ」

「会社? これは私たち夫婦の問題でしょ!」

「部下である妻に離婚訴訟を起こされた。一方的なおまえの不貞でだ! 私は本部長という立場上、社のコンプライアンスを守らねばなぁ?」

 勝ち誇った笑みだ。完全に夫の言にがあった。二人の務める会社は誰もが知る外食国内シェアトップの大手。社会への影響を考えれば課長クラスの処分など妥当と思えた。

「……覚悟の上だよ」

「今すぐ出ていきなさい」

「離婚は」

「離婚には応じない。反省して私に土下座する気になったら戻っていい。許しを請えよ。二度とあなたには逆らいませんと」

「さよなら」


 逃げだすようにドアを飛びだした。心臓がバクバク跳ねていた。遠く雨がアスファルトを叩く音がする。アルファロメオのシートに身を預けてもなかなか動悸どうきは収まってくれなかった。胸に手を当てたまま目を閉じた。

 幸せを掴み取るためだ。

 他に選択肢はなかった。

 自分に言い聞かせ、ばぁばの言葉を幾度となくくり返した。

「信念に従って生きるの、未加」

 落ち着け。

 これでよかった。

「私は間違ってない。大丈夫……大丈夫」

 目を開けると時計のデジタル表示が8時を示していた。

「やばっ、会社!」

 言ってはたと気づく。もう出社しなくていいのだ。彼の気が済むように……それこそ土下座して懇願でもしない限り、本部長の権限で自分を排除するはずだ。

 いくつもの連絡がとどこおるだろう。人知れずカバーしていた仕事が回らなくなるだろう。直属の部下たちはいずれ私のしでかしたことを知り、驚き、困惑し、失望するだろう。

 タブレット端末から、取引先と、受け持っているいくつかの店舗へ最低限の連絡をし、端末をシートの裏側へ放った。

 そしてスマホから彼の番号へコールした。

 会いたい。

 今すぐ。

 ぎゅうっと抱き締めてほしい。

 安心させてほしい。

 なにもかも忘れさせて。


 雨粒がアルファロメオの真っ赤な車体を滑って落ちた。通勤ラッシュが落ち着いたこの時間に運転していると、考えたくもない現実が頭を支配し始める。

 今頃会社はどうなっているか。

 これから先どうすればいいのか。

 繋がらなかったK1への電話を最後にスマホの電源はOFFにした。矢のような連絡が来ると思うと怖くて。遅刻も無断欠勤もなかったから。

 もう自由なのだ。

 夫からも会社からも解放されたはずだ。

 それでもギャル時代のように素直に笑えないのは、守ってくれるばぁばがいないから。どんなバカをやっても帰る家がある――それって幸せなことだ。ばぁばが居場所を与えてくれた。こんなにも不安なのは今の私に"帰る場所"がないからだ。

「この辺、かな」

 いや、一つだけある。居場所。

 カーナビが目的地を告げた。

『俺がみーちゃんの味方だから』

 彼の言葉が乾ききった心に暖かく染み渡る。


 カフェや服飾雑貨の店が連なるメインストリート。若者で賑わうここも雨のせいか人影はまばらだ。

 未加が用意した"秘密の場所"以外でK1と会うことはない。彼は人気者だしマスコミの目も怖い。少なくとも離婚が成立するまでは堂々と会えない。

 ひと目会いたくて来てしまった。

 居場所がほしい。

 誰かが「おかえり」と言ってくれる場所が。

 あなたの子どもがお腹にいるかもしれないと打ち明け、検査のことをお願いし、夫とは話をつけてきたと伝えて、彼にその身を委ねたい。

 不安で埋め尽くされる。

 19歳の彼には重過ぎる。

 10も年上の既婚者が子どもを産みたいと懇願してくるわけだ。私だったら引く。恋が冷めてもおかしくない。

 "会いたい"と"会いたくない"が未加のなかでせめぎ合う。


 ここでYouTubeの撮影があると言っていた。あるいは雨で中止になった可能性もある。駐車場に車を駐めて雨もいとわず外へ飛び出した。これ以上孤独に耐えられそうもなかった。

 すると何軒目かのカフェに特徴的な大型バイクを見つけた。身体の奥から涙がせりあがってくる。

 ――けーちゃん。

 一度だけ後ろに乗せてもらったことがある。「海に行こうよ」とK1が連れだしてくれたのだ。バレたらまずいのに。自分のリスクより私を選んでくれたことが強烈に嬉しかった。あのバイクを間違えようがない。

 ――ここにけーちゃんがいる!

 仕事から帰宅した父親に殴られた日々、両親から解放されてやりたい放題やった高校生活、祖母の死、人生を変えようと必死に踏ん張り手に入れた大手企業の管理職、そして結婚。

 それでも毎朝ベッドから身を起こすたび、言いようもない不安が未加のまんなか、、、、をギュッと絞め上げた。黒い鉄のかたまりがずっと身体の中にある感覚。それは祖母を死なせてしまった罪悪感か、ナイショ彼氏を作ったからか、それともこの先一生博嗣と生きることへの拒絶心なのか。正体は知れない。

 でも絶望と隣り合わせのこの"綱渡り"を正しい行いと信じて、自分を幸せにするという信念と信じて、彼の胸に飛び込んでいくだけだ。

 この不安の重りから解放されるただ一つの方法と覚悟を決めて。

 勢いのままカフェのガラス戸を開けた。


「けーちゃん」

 奥の席にいた彼がゆっくり顔を上げた。驚くかな。驚くだろうな。

 バイクのヘルメットが二つ並んでいる。

 K1のものと、もう一つ、赤色の。

「――え」

 未加が好きな色だからとK1が買ってくれたものだ。澄み渡った一面の空と潮風の思い出。

 女がいた。

 肩をくっつけて座っていた。

 言葉が出てこない。

 未加とは全然タイプが違う、栗毛の髪がまっすぐ落ちた可憐な少女。オーバーサイズのパーカをまくったそでからは北国の雪のような白肌が飛びだしていて、29歳の未加には到底真似できないカラフルなマニキュアが並ぶ指が、K1のひざの上にちょこんと乗っていた。

 彼は唖然と呟いた。

「みーちゃん……?」

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