世界で2番目にきみがすき

サン シカ

01

 ――信念に従って生きろ


 未加みかの一日は仏壇に手を合わせるところからスタートする。地上66メートルの夜景とか白で統一したインテリアに合わないと夫はぼやいたが、「これだけは譲れない」と持ち込んだものだ。

 今時仏壇一式揃えている家庭は珍しいかもしれない。

「ばぁば。今日も見守ってて」

 ウールフランネルがつややかなキャメルのパンツスーツはクリスチャン・ディオールのもので、どちらかといえば夫の趣味だった。

 玄関から夫の呼ぶ声がする。

 それでもたっぷり遺影の祖母に語りかけてから、ボッテガのバッグを取り上げて靴棚からローヒールを選び、肩を並べてエレベーターに乗り込んだ。

 彼は会社の上司でもある。

「未加、今日は何時上がりだ? 待ち合わせて食事でも行こうか」

「ごめん。四条河原店勤務。あっちに泊まりかも」

「京都か。君があの店を任されてるのか」

「本部長様は出張もない本社勤務でうらやましいよねー」

「まあまあ。戻ったら寿司でも食おう。泊まりなら一時間ごとに連絡するんだよ。酒も飲まないように」

「心配?」

「そりゃあな。君に声をかけない男は目が見えてない」

 地下駐車場のドアが開きキスをして別れた。運転手付きの彼の車を見送った後、未加はアルファロメオの運転席に背をもたせ、スマホのメッセージを開いた。

 昨夜「おやすみ」のスタンプをつけた後、一件未読の返信が来ていた。

『四条河原ホテル。なんとスイート! 待ってるねみーちゃん』

『OK』と返しお気に入りのスタンプを投げて、その画面にちゅっと口づけた。

 アイコンの名前は『VDK1』。

 歳下のナイショ彼氏である。


 セックスのあと放心状態になる私をいつも背中から抱き締めてくれる。キングサイズのベッドに四本の足が絡まり合っていた。19歳の瑞々しい唇が背中から首元に流れ、吐息で「もう一回する?」とささやく。

 脱がされる前のキスで感情は上限を振りきれてしまって、夫の博嗣ひろつぐとの熱を失って久しいキスとはなにもかもが違った。

 一本のタバコを二人で吸った。

 博嗣は未加の喫煙を嫌がる。手入れの行き届いた長い髪、家の中でもオシャレで、料理や家事をてきぱきこなし、49歳の男の性欲を完璧に満たしてくれる若く美しい妻を求めていた。

「生きてるってかんじ」

「うん?」

「すき。けーちゃん」

 吐いた煙がふわっと天井に立ち昇る。

「みーちゃん吸う人なの、意外だった」

「嫌?」

「全然。しっかりした人に見えるから」

「高校のころからやめられなくて」

「ギャル時代だ」

「そうそう! 前髪だけ金髪に染めたりしてね」

 懐かしくてくすくす身体を揺らしていると、K1ケーイチの長い腕が股の間に滑り込んできた。「ここが落ち着く」と。二人でベッドに入るとき彼はいつもそうした。

「みーちゃんがギャルなんて信じられない」

「両親がいなくて祖母に育てられたの。毎日遊び歩いてたなあ」

「それ初耳。……亡くなったの?」

「違う違う。二人とも生きてる。10歳が最後だったから……もう19年顔見てないね」

「どういうこと?」

「つまんない昔話だよ」

「聞きたい」K1は未加の身体を自分の方へ向けた。95万人の視聴者をとりこにする整った顔が見つめていた。「みーちゃんのこと、全部知りたい」

「んー。かんたんに言うとさ、父親がDV野郎だったわけ。あ、VDヴィーディーじゃなくね」

 K1がメンバーを務める男子五人のグループ"VD"を引っ掛けてみたが、K1はにこりともしなかった。未加をただ見つめていた。

「暴力を……」

「うん。クソみたいな父親だった。親は選べない。運が悪かったんだね」

「お母さんに助けを?」

「何度もね。でもママは父に逆らえなかったから。ほら、女を家政婦かなんかと思ってるクズ野郎いるじゃない? 俺は必死に働いて食わせてやってるんだから、家事も子育てもおまえがやってありたりまえー的な。私たちを支配してた。父が私を殴り始めるとね、ママはごはんの準備を始めて見て見ぬ振りするの」

 思えばあのころの反動で高校時代荒れたのかもしれない。

 自由を望んでた。

 束縛が嫌だった。

「けーちゃんは親と仲良い?」

「うん」

「よかった。それがいちばん」

「みーちゃん、それで?」

「そんな顔しないの。終わったことなんだから」

「教えて」

「ヒーローが現れたの」

「えっ」

 不意をつかれた彼の表情がかわいくて、両手でほっぺたを包んだ。

「ある日突然祖母ばぁばが家に乗り込んできて、"この子はあたしが育てる!"って10歳の私を地獄から連れだしたの」

「へえ! お祖母ばあさんが」

「だから心配することない。私は両親から解放されたから」

 ヒーローが救ってくれたから。


 よく夢に見るのは友人でも両親でも夫でもなく、最期さいごの日のばぁばだった。

 夢の中で再会できた嬉しさより、いまだ苦しさが濃い。鉛のような黒いかたまりがずっと身体の中心に居座っている感覚。

 だから朝は憂鬱だ。

 なにもしたくない。

 その日も夫の腕からそっと抜けだしシャワーを浴びると、少しだけ視界がクリアになった。化粧水、乳液、エクソソーム配合のクリーム。そこまで来ればもう平気。

 朝日がブラインドをとおってフローリングにしま模様を落としている。ガラス張りのリビングから大都会の景色を望み、ぐーっと伸びをした。

 博嗣が起床するまで1時間とちょっと。それまでにメイクと服装を整え朝食の準備をしなくては。寝起きが悪い彼は、すぐに中挽ちゅうびきのコーヒーが出でこないと不機嫌になる。


 ベッドサイドの避妊具スキンはもう半年使われていない。毎晩未加の顔色をうかがっては求めてくる夫を、「仕事で疲れてる」の一点張りでしのいでいた。

 まったく実用的じゃない高級下着姿でたまに擦って、、、やれば、いくぶんかはおとなしくなった。いっそ外に女を作ってくれれば楽なのにと思うが、いくら大企業の本部長といえど、彼好みの若い女が寄りつく歳でもない。

 愛情がないわけじゃない。

 それなりにこの人を愛してる。

 20も年齢の離れた夫はときに、あのクソ父親を連想させることだってある。でも少なくとも、この人は女に手を上げない。有能でスマートだし清潔だ(やや過度に)。ただ独占欲が強いってだけ。


 夫が求める理想的な女性像を完璧にこなしている。

 外では外食チェーン大手の上司と部下。

 金銭的に満たされた余裕のある生活だ。

 父親に怯えていたころからは想像できなかっただろうこの暮らしを、未加は自分の手で掴み取った。

 ろくに登校せず社会生活から外れた友達と遊び歩いた高校時代があった。そんな彼女が現在の自分を手に入れたのは、間違いなく祖母ばぁばの存在がでかかった。

 祖母を看取みとった最期さいごの日。

 泣きじゃくって「ごめんなさい!」をくり返す孫娘に、祖母が遺した言葉がある。


 ――今度こそ幸せになれ。信念に従って生きろ

 

 あの日、誓ったのだ。

 祖母ヒーローに。自分自身に。

 両親――とりわけ母のようには絶対ならないと。

「夫がいても好きな人はできる。この世でいちばん好きな人と最初に出会えるわけがないもん」

 夫の寝顔。

 使われないスキン。

『お母さんに助けを?』とK1は聞いた。

 もちろん訴えた。

 助けて。あんなやつと別れて。他にいいお父さんを見つけてって。

 そしたら母は隠していた0点のテストを見つけたときのように怒り狂った。

『夫を裏切るなんて絶対に許されないわ! 神様が見てるの。別の男性とつきあうなんて……地獄に堕ちるわ!』

 ここ、、がその地獄でしょ?

 毎日殴られ、逃げ場所もない。

 なぜわからない?

 父よりも母を憎んだ。

「地球上に男と女がどれだけいると思ってんの――」

 父と結婚して、本心を偽った。

 毎日娘を殴る夫に反感と恐怖を抱きながら、倫理観を言い訳にして表面上は安定した日常を取った。

「私はあんたのようにはならない」

 寝室に戻りスキンの箱をさっと取り上げた。こんなもの、夫の目につくとろくなことがない。単調で独善的なセックス。

「幸せになってやる。絶対に」


 スキンを隠そうとクローゼットの収納棚を開いた。

「あれ」

 そこには使いかけの薬箱が転がっていた。

 そういえば忘れていた。

 この棚を最近開かなかったから。

 シルクのナイティーから覗いたお腹に手を当てた。

 生理痛ケアの薬。

 どうしてこれを忘れていた?

 必要がなかったから。

 痛みがなかったから。

「――もう3カ月、来てない」






 

 

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