たった三百

のいげる

俺たちが狂っているだって? それがどうした。


 固い土を鋤で耕すのと、しぶとい雑草を素手で引き抜くのとどちらが辛いかと言われれば、俺は雑草取りの方が辛いと思う。小麦の間に生えるこいつらは、相当な力を込めないと抜けないし、何よりも抜いたときに手の平に細かな切り傷をつけてくれる。血が出るほどではないが、後が痒くて堪らなくなるのが嫌だ。

 スパルタ人である限り傷を恐れる奴はいない。それが背中についた卑怯者の傷で無ければ。

 だがそもそも農作業なんてまともなスパルタ人のやる仕事じゃない。昨日やった集団戦闘訓練で負けたことに対する罰として与えられた仕事だ。本来こういった仕事はすべて農奴民がやるのだから言ってみれば屈辱的な作業なわけだ。

 しまったな。あそこで俺が敵側にもう一撃を食らわせていれば、この作業は奴らのチームに与えられていたのに。


「例の話はどうなったんだ?」

 額の汗を拭きながらエウノモスが言った。背筋を伸ばしながら腰を叩いている。奴は巨漢だ。腰を屈めて行う草むしりは人一倍辛いに違い無い。

 答えたのはこれも汗まみれのテレクロスだ。

「三日後に市民集会をやるとお触れが出ていたろう。それにペルシャの使節が押しかけて来るって話だぞ」

 テレクロスと言っても小のつく方だ。奴の親父さんが大テレクロスでスパルタの街の首脳陣の一人。もちろん、お偉いさんの息子だからと言って罰の農作業を逃れられるものじゃない。それでも普通じゃ手に入らない話を奴は知ることができる。何と言っても奴の母親も女たちのまとめ役で、彼女は戦争の間は街の居残り部隊の指揮を一手に取っているぐらいだ。狭い家の中なら、どんなに隠しても色んな話を耳にするってもんだ。

「ペルシャか」エウノモスが青空を見つめた。

「大部隊って聞いたぞ」

「大部隊だよ。向こうの言い分だと百万人の部隊らしい」とはテレクロス。

 お喋りをしている間は多少は草取りの手も休めることができる。周囲の皆も面白い話ならサボっていようが咎めはしない。どのみち決められた畑の分を片付けないと街へ帰ることはできないのだが。

 皆の作業が止まったのを見てペタリトスが隠しから干し肉を取り出した。惜しげもなく皆に一かけらづつ渡す。皆がペタリトスの肩を叩いて感謝の意を示す。

 ペタリトスは食い物泥棒の名人だ。スパルタには店というものはない。旨いものが食いたければ街の食堂から盗むようにと言われている。公認とは言え盗みは盗みだから見つかったら棒で叩かれる決まりだ。いわばこれも相手の隙をつくという軍事訓練の一部なわけだ。

 ペタリトスはそれが抜群に上手い。食堂側も盗まれないプロだからそうとうに警戒しているはずなのに、いつでも何か盗んでくる。そして一番素敵なのはそれを惜しげもなくチーム全員に分けることだ。

 全員で干し肉に嚙みついた。これで酒でもあれば言うことはないのだが、酒は戦さと祭りのとき以外は禁止されている。

 しかし、ペルシャも百万とは大きく出たものだ。いかに大国でもそんな大軍勢は動かせはしない。俺たちはみな戦場に出るので良く知っている。遠征軍を維持するには大変な努力がいる。食料に水はもちろん必要だが、それ以外にも多くのものがいる。たとえ国にそれだけの軍隊を養う力があっても、大軍勢となると戦場に行き着くのさえ、難しいだろう。

 以前に遠くのポリスに遠征に行ったときはひどかった。道を間違えて途中で三日余計な行程がかかったお陰で、一週間は飯抜きで走り回る羽目になった。水場に行き当たったから良いようなものの、そうでなければ全滅していた。

「まあ、実際には十万人と言うところだろうな」

 テレクロスが断言する。彼がこういう言い方をするときは大概正しい。

「でももうすぐカルネイアの祭りだぜ。今まで祭りの間に出陣したことは無いはず」

 今まで黙っていたユロスが口を挟んだ。喋りながらも手の中の雑草を背中に背負ったカゴに放り込む。抜いた雑草は後でまとめて焼くことにしている。どういうわけか家畜もこの草は食べたがらない。ええい、厄介な草め。ギリシア全土で恐れられている我がスパルタ軍の兵士がてこずるのはこの草ぐらいのものだ。

 まあ、しかし、ユロスの言うことは正しい。カルネイアの祭りは大事な祭りだ。アポロンとカルネウスに捧げられるこの祭りの間は一切の戦いは禁止される。だが敵が責めてくるならそうも言ってはいられない。問題は神の怒りを買って出陣するのだから、出撃した兵士は神の加護が得られずにすべて死ぬということだ。

 もちろんスパルタには死を恐れる兵士は一人もいない。俺たちは戦場で死ぬことは恐れない、むしろ戦場で死ねないことを恐れる。だがそれでも神の怒りを買って死ぬことはまた別格なことだ。

 だからカルネイアの祭りの間にスパルタが軍を出すなんてありえない。

 神を怒らせると色々と怖いことが起こる。疫病は怖い。飢饉も怖い。冥界の化け物どもが解き放たれるのも怖い。だから何があろうとも祭りは行わなくてはいけない。そして祭りの間は戦うことはできない。

「まあ、ペルシャの奴らもその辺は判っているさ。だからこの時期に喧嘩を仕掛けてくる。そこでだ」

 テレクロスが間をおいた。作業の手を休めて皆が耳をそばだてる。

「カルネイアの祭りの前に、出られる野郎どもだけを集めてペルシャ軍と戦うらしい。祭りの準備もあるしな、収穫の前だから、出せるのはせいぜい三百人。相手は十万人。ということは一人当たりにつき敵が三百人という計算になる」

 周囲がしんと静まり返った。

「さ、三百人が相手か」

 ユロスが地面に腰をついて小さく泣き始めた。やがて鳴き声が抑えきれない笑い声に変わる。

「そんなに殺していいのか」

 エウノモスの顔に満面の笑みが広がった。

「殺し放題だ。天国だ」

 戦の敵は多いほど良い。相手が少ないと、最初のファランクスの突撃で戦争が終わってしまう。ファランクスは密集隊形で戦うスパルタの伝統芸だ。戦いを楽しめるのは先頭に位置した兵だけで、下手すると残りは皆の後をついて行っただけになってしまう。

 一番楽しめるのは散兵戦だ。全員でバラバラに突撃し、手当たり次第に殺す。だがそれでも一人で敵の三人も殺せればいい方だ。だいたいそれぐらいで敵はいなくなる。すべての敵が死ぬか、あるいは降伏するかだ。

 スパルタでは朝から晩まで殺しの訓練をする。個人での殺しから集団での殺しまで。それを毎日繰り返す。ところがようやく戦争にありつけても、せいぜいが一人につき三人殺したところで戦争は終わる。残りの楽しみはまた来年。実に欲求不満だ。

 俺たちはもっと殺したい。もっともっと殺したい。朝から晩まで殺したい。でも敵はいない。敵はほんの僅かしかいない。

 だが、今度の戦は違う。一人当たり敵は三百。殺しても殺しても、敵は尽きない。誰もが獲物にありつける。

 血だ。血だ。血だ。弾ける肉。噴き出す血。苦痛に悲鳴をあげる敵の歪んだ顔。切って、突いて、叩き潰す。それが延々と続く。それを好きなだけ続けていい。自分が死ぬまで殺し続けていいのだ。

 これが天国でなくていったい何だというのだ?

 楽しい戦いになるだろう。殺戮の期待に皆の顔が緩んでいる。

「街を襲いに行くんじゃないから戦利品は無いがな」

 一人冷静なテレクロスが指摘した。もっともここにいる誰も戦利品なんか期待していない。元々戦利品は記念になる品、つまり敵の大将の兜のようなもの以外はすべて国のものになる。

「ペルシャは大国なんだろう? 食い物も飲み物もどっちゃりと持って来るさ」

 ユロスが断言した。頬についた涙の痕は土をこすりつけて隠してある。

「ペルシャ王は贅沢好きだと聞いたぞ。戦争に行くのに綺麗な女も連れて行くと」

 これには、全員の顔が緩んだ。みな若いのだ。この衝動は止められない。というよりスパルタの兵士はみな若い。歳を取った者は戦場で死ぬから。

 街の女性たちの規律は厳格だ。付き合うには親の許しがいる。もちろん、スパルタには表向き他の街のような娼婦はいない。それに一番近いのは夫を戦争で失った未亡人たちだが、下手に未亡人との間に子供でもできようものなら、強制的に結婚させられることになる。できればそれだけはごめん被りたい。相手が妙齢の美女というなら話は別だが。

 つまる所、俺たちは若者に在らざる不自由さを押し付けられているのだ。スパルタの女たちはみんな一致団結していて男たちが好き勝手にやる権利はない。

 しかし、戦争だけは別だ。戦が終わった後の大騒ぎだけは大目に見られている。被害に遭うのは所詮は他国の民だからだ。

「俺は女はいらない」ユロスが夢みるように言った。

「代わりに大将首が欲しい。ペルシャ王の首だ。そしたら俺は大ユロス様だ。英雄の歌に永遠に名前が残る」

 ユロスは背が低いが力が強い。戦士としては他の男にも引けは取らない。だがそれでも『大』ユロスと他人に呼ばれることは彼の憧れのようだ。

「待て、待て。まだ戦に行けると決まったわけじゃないんだ。行けるのはたったの三百人だけなんだぞ」

 テレクロスが慌てて言った。このままでは皆が騒ぎ始めて農作業どころではなくなる。

「誰に頼めばいいんだ?」とは当然の質問。

「リーダーはレオニダス王になるらしい。だから今度の市民集会では最前列に陣取るんだぞ。出陣の話が決まったらすぐに志願するんだ」

 テレクロスは話の終わりの合図にそこで手を振った。

「今の話は誰にも言うな。志願者が一杯で参加できないなんてなったら、目も当てられない」

 俺たちは辛い農作業に戻った。この苦しみも後少しかと思うと、それほど苦にはならなかった。


 日が落ちれば農作業は終わりだ。貴重な水で体を洗い、街の共同食堂へと向かう。食事の前に体を洗うのは最低限の礼儀というものだが、それでも臭いは完全には落ちきらない。

 鉄の臭いを撒き散らしているのは鍛冶組のやつらだ。牛の糞の臭いがするのは牧畜組。鍛冶組は尊敬されている者がやるが、牧畜組は俺たちと同じ罰としてやらされている。

 小麦を作ると畑は荒れる。だからある場所で一年小麦をやると、次の年は牧草を撒いて牛を放す。牛の糞を鋤きこんで来年はまた小麦を植える。それの繰返しだ。それでも段々と畑は痩せて来る。そうすると近くの森を焼いて、そうしてできた灰と土を運んで来て、畑を作り直す。

 牛の世話も、糞の鋤きこみも、土を運んで来るのも、どれも辛い作業だ。だがそれが真に辛いのは本来こういった仕事は農奴部族の仕事ということだ。つまりこの仕事をしているということは弱い兵士と烙印を押されるに等しい。くそう、あそこで俺の一撃が決まってさえいれば、こんな屈辱は味わわずに済んだのに。

 じゃあ、鍛冶の方はどうかというと、これも辛い。何よりも火のそばで作業する分、暑い夏が辛い。それでも剣や鎧に囲まれて過ごせる分、立派な仕事と言える。


 食堂につくと自ずから、同じ組の連中が固まる。誰の体も臭うが、それでも同じ臭いなら少しは耐えられるからだ。

 炊事係りの女性から、固いパンと野菜を煮込んだスープを受け取る。ここ数日、パンは枚数が少ないし、チーズも出なくなったのは収穫前で街の食料の蓄えが尽きかけているのかと思っていたが、今ではその理由が判る。ペルシャへの先遣隊の食料へ回されているのに違い無い。

 戦の良いところは、とにかく腹一杯食わしてくれることだ。


 テーブルの向こうに固まっているのは今年初めて軍に配属された新人たちだ。上気した顔で何かを興奮して話し合っている。たぶん今日、彼らは『皆殺し』をやったのだろう。

 『皆殺し』はその年一番収穫が悪かった農奴部族の村に対して行われる。村をいきなり封鎖して三日後に皆殺しを行うと宣言するのだ。攻撃側はその年の新人たちで、いわばスパルタの大人になった通過儀礼である。宣言された村はその三日間で武器を作りバリケードを作り防御作戦を立てる。皆殺しは女子供老人を区別せずに行われるので生き残りたければ村人全員で攻撃側を全滅させるしかない。

 この命がけの戦いを経てスパルタの子供はスパルタの男になる。もちろん新人スパルタ兵にも被害は出る。村人を殺すのを躊躇う者は訓練教官に殺されるからだ。人を殺せない者はスパルタには要らない。

 そうやって立派なスパルタの男になれば、スパルタの誇りである料理を食堂で食べることが許される。メラス・ゾーモス、通称ブラックスープ。豚の足を豚の血で煮込んだ料理だ。

 もちろんこいつは恐ろしくまずい。そのまずさに対する怒りをスパルタの男は敵にぶつけるのだ。食えば食うほど強くなる。それがスパルタの伝統料理。


 食堂の奥のテーブルには街のお偉いさん方が集まって何かをひそひそと話している。中心にいるのはレオニダス王だ。テーブルに並んでいるのは俺たちと同じ食い物だが、水で薄めたワインが木鉢一杯分だけついているのが異なる。年老いた老人にはこういう余禄がある。度重なる戦を最後まで生き延びることができたなら、の話ではあるが。

 お偉いさんのテーブルの横には、ペルシャが賄賂として贈って来た金貨が山積みにされている。もちろん、街の皆に対してペルシャがいかに間抜けな国かを示すために晒しているのだ。

 金なんて金属が何の役に立つ?

 柔らかくてピカピカするだけ。盾に貼り付けたら飾りになるかも知れないが、普通のスパルタンならそんな重い盾は欲しがらない。重さに負けて盾を落としたりでもしたら、隣にいる大事な戦友が死んでしまうではないか。

 それに比べて鉄は役に立つ。どんな時でも折れない丈夫な剣を想像してみろ。うっとりするじゃないか。頑丈なカブトもそうだし、大盾にも使える。ペルシャもどうせなら鉄を贈ってくれればいいのに。

 銅も役に立つ。シチューを作る鍋にもなるし、皮鎧の鋲にも使える。

 金貨だって?

 確かにアテネにでも行けば何かと交換してくれる物好きもいるかも知れないが、ここじゃ無理だ。

 腹が減れば共同食堂で食えばいいし、鎧が欲しければ鍛冶場に行って貰えばいい。剣を磨いて欲しければご婦人方のたむろす広場に行って頼めばいいし、それ以外何が要るっていうんだ?

 パンを食い終えて、俺はちょっとした異変に気が付いた。

 他のテーブルの奴らも仲間内で何かひそひそと話をしている。そして時折ちらちらとレオニダス王を盗み見している。

 テレクロスの野郎。何が秘密だって? もう皆が知っているじゃないか。

 選別は厳しいものになりそうだ。明日、剣を研ぎに出しておこう。鎧もきちんと手入れをしておこう。見た目だけでも良くしておかねば。



 やっと俺たちの組の罰の期間が終わった。

 朝は教練の時間だ。日が昇ると共に起き、練兵場に集合する。

 各隊ごとに集まり、ただひたすらに走る。汗だくになりながら走る。喘ぎながら走る。叫びながら走る。脱落すると、隊長の拳が飛んで来る。容赦なく飛んでくる。それで死んだとしても、戦場でみじめに動けなくなり仲間を巻き込んで死ぬよりも、百倍もマシだと考えられている。

 当然ながら俺もそう思う。自分の命より戦友の命が優先だ。そして皆の命よりスパルタが戦に勝つことが一番優先される。俺たちはスパルタあっての命。俺たちはスパルタンだ。

 昼飯を食ったら、軽く武装して、街の周辺の農場を巡る。めぐる。巡る。農奴たちにきらびやかな槍や兜を見せびらかして、反乱しようという気を削ぐのも大事だ。農奴は武器を持つことを禁じられているが、農作業用の三叉戟なんかを持っているから油断はできない。特に飢饉の年は、麦の上がりを徴収されると村の半分が餓死するというような状況では反乱の危険が多くなる。どこでどんな風に襲われるかわからないので、注意が必要だ。

 見回りから帰ったらすぐに、集合教練だ。百人隊を組み、他の百人隊と模擬訓練を行う。密集隊形を組むときは、見回りのときよりももっと重い甲冑や武器を持って行う。前進し、長槍で殴り合い、また前進する。弓矢の攻撃を防ぐためには、金属の盾を頭の上に上げ、そのままの姿勢で固まる。腕が痺れようと、暑さで頭がぼうっとしようと、そのままだ。下手に動けば隊長に怒鳴られる。もっと悪いのは、隊列から外されることだ。そんなことになればもう戦には出ることが出来ない。歳を取って死ぬまでずうっと女たちに混じって城壁の警備を務めることになる。そうなった男は大概が自殺する。

 夕方になるとやっとお楽しみの時間だ。全員ばらけての乱闘訓練だ。お互いに気に入った相手を見つけて殴り合い、蹴り合い、投げ合う。

 剣に刃がついていなければ、意外と死人は出ないものだ。

 半裸の体はアザだらけになるが、一日の内で一番面白い時間だから俺は好きだ。

 ここで強い所を見せれば、密集陣を組んだときに前の列に入れて貰える。もしかしたら誉れ高い最前列右端ということもある。もっともそれに選ばれるのは百人に一人だけだが。

 街の共同食堂で夕飯を食い終わったら、今度は街の鍛冶場へと向かって手伝いだ。鉄の塊を運び、炭を運び、一日中ハンマーを振り続けている鍛冶屋の手伝いをする。体は疲れているが、それでも頑張って手伝うのは、そうすれば最高の剣の一振りが手に入るかも知れないからだ。

 それにぴかぴかに研がれた剣や磨かれた鎧を見ていると、何とも言えず気分が良くなる。この剣で敵の肉体を切り裂くのだ。

 最後に体の汗を流してさっぱりすると、街の集会場に行く。そこではすでに現役を引退した歴戦の勇士たちが、今までやった武勇談や過去の戦争について夜毎に話をしている。それを聞いているとかあっと体が熱くなり、俺たちもいつか戦場で素晴らしい栄光を手に入れるのだという夢気分になる。


 市民会議の日、随分早く家を出たにも関わらず、会議場はすでに人で一杯だった。それらがすべて戦に出たがっている若者たちかと思って心が折れかけたが、気を取り直して人の海の中に飛び込んだ。

 エウノモスの巨体は人ゴミの中でも目立つ。テレクロスも一緒だ。背の低いユロスはエウノモスの首にしがみつくようにして人波に攫われまいとしている。俺はすぐに仲間たちと合流して、力を合わせて会議場の前へと進んだ。前のやつを押しのけ強引に体をねじ込む。あちらこちらで怒号が響いたが、市民会議では喧嘩はご法度だ。もしここで拳を振り上げようものなら、街の清掃係りに回されて、一年間の間他人の糞の臭いを嗅ぐ羽目になる。

 俺たちは汗まみれになりながらも、なんとか会議が始まる前に最前列に位置取ることができた。その過程で随分と敵を作ってしまったが、何、後の事は後の事だ。

 いつもなら退屈な市民会議なんか、何か用を見つけて逃げるか、一番後ろの列に陣取るのだが。今日だけは別だ。

 議長に続いて、大テレクロスが登場した。レオニダス王も一緒だ。どれも共同食堂で見かける顔なので、良く知っている。それに続いて女性たちも。テレクロスの母親も混じっている。戦争が起きれば街の防備は市民女性軍が行う。スパルタでは女性の意思を無視して戦争はできない。

 評議会の議長が何かの演説を始めた。誰も内容なんか聞いちゃいない。皆の関心の先はレオニダス王だ。もう先遣隊のメンバーは決めたのか。ここで募集するのか。すぐに出発するのか。興味は尽きない。

 議長の演説が終わると、大テレクロスが内容を補足した。これからペルシャの使節が来ること、彼らの降伏勧告を聞かされること、そしてスパルタが戦争を選ぶか降伏を選ぶかを今ここで決めること。

「降伏だと? 降伏なんかするものか!」

 誰かが叫んだ。一斉に全員が唱和した。

「当たり前だ!」レオニダス王が叫んだ。議場が沸いた。

「血だ! 戦だ! 我が領土を侵す者に死を!」

 どおっと声にならない叫びが轟いた。

 血だ、戦だ、生贄だ。勝利だ、殺戮だ、殲滅だ。声なき声が唱和する。

 レオニダス王が手を上げると、一斉に静かになった。ここにいる皆は兵士だ。いつまでも無暗に騒いだりはしない。

「三百だ。祭りの前に三百人を送り出す。俺が率いる。今ここでその遠征隊に入る人間を決める。敵はペルシャ兵百万。生きては帰れないぞ!」

 レオニダス王が宣言した。

 前席にいた老人が立ち上がった。

「レオニダス。王よ。ワシらを行かせてくれ」

 パトラン老だ。周囲を固めているのはいずれも老兵だ。

 スパルタでは老人は珍しい。みな若いうちに戦場で死ぬからだ。だがそれでも例外はある。あまりにも強すぎるため、戦場で死ねなかった者たちだ。自分を殺せるだけの相手に出会えないまま歳を取り、ある日いきなり部隊から外された連中だ。

 パトランは千の傷と異名を持つ男だ。敵から受けた傷が全身に千あるというのがその名がついた原因だ。そして彼の背中にはたった一つの傷もないというのが自慢でもある。

 その横のランズは逆に卑怯傷のランズと呼ばれている。彼の背中には驚くほど深い切り傷がある。乱戦の中でその負傷を受けたとき、彼が大勢の敵に囲まれていたという証言が無ければ、恥のあまりに自死していただろうと言われている。彼自身はその通り名を恥じており、戦場で無茶に無茶を重ねた挙句、とうとう最後には彼の名前を聞けば敵の軍勢がまるごと逃げ出すようになってしまったという曰くがついている。

 パトラン老は話始めた。

「未来を紡ぐ若い者たちをむざむざ死なせてはいけない。ここはワシら老人たちが犠牲になろう。お願いだ、ワシらを連れていっておくれ」

「ずるいぞ! お前たちだけで楽しみたいんだろう!」

 ヤジが飛んだ。

 パトラン老を取り巻く老人たちの顔に凄い笑みが浮かんだ。

「やっと戦場で死ねる機会が来たのじゃ。誰かが止めるものか」

「ワシの最高記録は一日で四十人じゃ。今度はどこまで行くかのう」

「ひひひひ。生い先短い命、こんな楽しい事を若い者に譲るなんてできるものか」

 その言葉と共に老人たちが楽しそうに笑った。

 体のでかい男がたまらず立ちあがった。スパルタ軍の中核を成す百人隊長だ。

「お前たちだけに楽しませはしないぞ。レオニダス王。俺たちも連れて行ってくれ。百万ものご馳走、見逃すつもりはないぞ」

 反対側の席で立ちあがったのは別の百人隊長だ。

「王よ。この戦は出た者が必ず死ぬ戦。王の代わりに私が軍を率います」

 レオニダス王が叫んだ。

「馬鹿をいうな。これは俺の戦だ。俺は絶対に参加するぞ!」

 テレクロスも慌てて立ち上がった。

「我々にも機会を。いまこそ街のために立ち上がるとき」

 食堂でみた新人たちが一斉に立ち上がった。

「ボクたちも行きます。この中で一番元気なのがボクたちです」

 議場の入り口から女たちがなだれ込んできた。

「街の女防衛隊から三百人を選別しました。私たちにも戦わせてください。街を守る義務は私たちにもあります」

「馬鹿を言え。こんな絶好の機会、他人に渡せるものか。レオニダス。ワシらを選べ」

「俺をつまはじきにしようたってそうはいかないぞ」

「最強の部隊を連れていけ。ペルシャ軍に舐められるぞ」

「ボクたちの可能性に賭けてください」

 議場は興奮の坩堝と化した。

 血だ。誰かが叫びだした。

 血だ。

 血だ。

 血が欲しい。

 死だ。

 死だ。

 神にささげる死が欲しい。

 俺たちは。ワシたちは。あたしたちは。死神の使いスパルタン。


 レオニダス王が立ち上がると両手を上げて言った。

「ペルシャの使節をここへ」


 それ以上は何の合図も無かったが、大会場が静かになった。誰もが次に起こることを待ち構えている。

 煌びやかな衣装を着たペルシャの使節団が議場に入って来た。役にも立たない金の色に彩られて、優雅ではあるが軟弱な痩せた体を誇りながら、根拠の無い自分たちの勝利を確信して。

 朗々たる声で彼は宣言した。

「諸君。偉大なるペルシャ王の使節として私は君たちに降伏を勧告に来た。ペルシャの軍は百万を数える。君たちに勝利はない。だが、私の言葉を受け入れて降伏するものは、その代わりに素晴らしき栄華を極めることとなろう」

 俺と、俺の周囲にいる仲間たちと、俺の背後にいる獰猛なスパルタ人すべての顔に笑みが浮かんだ。答えはすでに決まっている。こいつは自分が飢えた獰猛な獣の巣の中にいることを知らない。


 それもすぐに知れる。

 ついに祭りが始まったのだ。

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たった三百 のいげる @noigel

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