読書欲

一縷 望

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 パラパラと風に何かがなびく音を、少年の旺盛な耳は決して逃さなかった。

壁にゴムボールを打ち付ける手を思わず止め、耳を風に任せる。


 彼が音の方を見やると、そこには開きっぱなしの窓があり、机の上で仰向けに開いたままの本が1冊、窓から侵入した夏風と戯れているのが見えた。


 ページがじれったく進んでは戻りを繰り返すその様は、情熱的なダンスに揺れる踊り子の衣装さながら、純粋な少年の心を誘惑する。


 いつの間にか手を離れたボールがどこかへ転げてゆくのに構いもせず、目は本を捕捉したまま、彼は木製の窓枠へと吸い込まれるように近づいた。


 体重と心拍とその他、彼の生命の全てを脆い窓枠に預けて──


彼は本へ手を伸ばした。


 不意に、ページのはためきが止まる。

空気が、透明な樹脂に満たされたかのように固まった。


 それは、警戒するような張り詰めた雰囲気というよりは、少年からの接吻キスを待つ少女のごとく、本が彼の全てを受け入れんとしている意志のように感じられた。


そしてついに、彼は本を掴んだ。


 そのままの体勢でページを繰る。紙に触れる喜びが指先から電気のようにほとばしる。

彼は、本を読んだことがなかった。


 このクリーム色の記録機は、ずっとずっと、活字たちを抱いてこの時を待っていたかのように、少年の眼へ持てる限りの知恵を流し込んだ。


好奇の輝きを増す彼の虹彩のなんと美しいことか!!


 心は激しくうち震えながらも、その大洋に波は1つも無く。


 自然のタイムカプセルと称された琥珀も、この上なく精密に風景を写した写真も。

どれ1つとして、この薄く儚い紙の保存する活字が脳裏に呼び起こす感情の渦を納めておくことなどできぬ。


 そうしてついに、西日がページを染める頃合いになっても、本は彼を離さなかった。彼も本に顔を埋めるかのように読み続けた。



 そのため。少年は、部屋へ戻ってきた老婆にも気づかなかった。


 彼女の目は、窓から乗り出すようにして本を読む少年を捉えるなり、老いてめったに動かなくなった瞼を一瞬だけ見開いた。しかし、彼を怒鳴ったり、追い払おうとはしなかった。


 何故ならば、少年の目が、かつて本に恋い焦がれていた老婆の目と同じ色を湛えていたから。


今にもチカチカと火花を噴きそうなその瞳孔どうこう

熱に浮かされたかのような、朦朧としたまぶた

名前の通り、虹の輝きを秘めた虹彩こうさい


「彼に読んでもらった方が、本にとっても幸せなのではないか」そんな考えが彼女の頭をかすめた。


 そして、しばしの思考の後、老婆は、彼の邪魔にならぬよう、静かに部屋を後にした。本へ、心の中で別れを告げながら。




 窓辺の本のページに、とろけた銀のような月光がメッキを施すころ。


 老婆は、部屋を訪れて、その瞼を見開いた。今度の出来事は、彼女を心底驚かせた。


本が、あるのだ。

机の上に、あるのだ。


 少年は、あそこまでのめり込んでいたにもかかわらず、本を盗らなかった。


 本が「彼、意外と真面目でしょ?」と少し誇るように、ページを堂々と開いている。


 それが、老婆の決心をより強くした。

彼女は、素早く引き返し、今までにないほどに力強く階段を上がると、書斎の机へ向かった。


 手元には、用意できる中で一番いい紙と、使い馴れたペン、インク壺。


 一呼吸おくと、彼女は美しい文字でこう綴った。


『この紙を見つけた、本が大好きな少年へ。あなたに、この本をさしあげます。ことわりを入れる必要はありません。この先のあなたの人生が、本の彩りに満ち満ちていることを願っています。持ち主より。』


 インクのふわりと香る紙を窓辺の本に挟むと、老婆は本にウインクした。本もウインクし返したのが、彼女には見えた……気がした。



 本が少年との甘い蜜月を空想するかのように、桃色の朝日にページを染め、今日も窓辺の1日は始まった。



 昼、やってきた少年が紙を見つけ、この上なく喜んだことはここで語るまでもないだろう。

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