仇敵登場
あれは忘れもしない、学生寮で勤務を始めた年の五月の大型連休初日のことだった。
「燈子さん! 燈子さーん! どこですかー?」
バタバタと大きな足音とともに聞こえてきた声に、二階の屋根裏で雨漏りの修繕をしていた私は、手を止めた。
「ここにいる」
「二階ですか? あ、いた!」
「廊下を走るな、穴が空くだろ」
「それどころじゃないんですって! ちょっと来て!」
屋根裏から顔だけを出した私の声に、階段を上がってきた当時の寮長――確か、英文科だった筈――が急かした。
普段は比較的落ち着いた娘だが、これほど取り乱しているのは珍しい。いや、取り乱しているというよりは、色めき立っているというのが正しいだろうか。
「何なんだ、一体」
「玄関前に男の人が来てるんです!」
「それがどうした」
この女子寮は、建物内への男性の侵入は原則禁止だ。だが玄関までなら、宅配業者だって日常的にやってくる。男性だからといって、それほど騒ぐことでもないはずだ。
「変質者か?」
それならば、相応の対応をとる必要がある。だが私の問いに、寮長は首を振った。
「多分、違うと思うんですけど。ただ、あの――」
「なら何が問題なんだ――って、何だよこれ」
不思議に思いながら階段を降りた私の目に映ったのは、人だかりだった。
階段から玄関までの短い廊下に、寮生が集まっている。当時の寮生は全部で40人ほどだったが、大型連休の初日とあって、おそらくその7割は集結していたのではなかろうか。
後ろから見ただけでも、何故だか全員、少し色めき立っているのがわかる。正直に言って、若干怖い。
「あの、実は……めっちゃイケメンなんです!」
「はあぁ?」
寮長が顔を赤らめて告げる。何を言っているんだこいつは。
「……まさか、それでこの人数か?」
「ほんとにめっちゃイケメンなんですってば」
「あーはいはい」
若い娘達――いや、年齢的には私もそう大きくは変わらないが――が色めき立っている理由が分かり、私は頭を掻くと階段を降りて、寮生達を掻き分ける。
「はいはい、お待たせしました」
狭い廊下にひしめく娘らの隙間を縫って、ようやく玄関前に辿り着いた、その時。
「――
耳に飛び込んできたその声に、少し間延びした呼び方に、私は反射的に踵を返しそうになった。
「…………」
咄嗟に逃げ出さなかったのは、ひとえに職業意識のなせる技だろう。一斉にこちらに集中した寮生たちの好奇の視線がいたたまれない。
悪夢だ。これはきっと悪夢に違いない。
呆然とする私の視線の先では、一人の男が軽薄な微笑を浮かべつつ、ヒラヒラとこれまた軽薄に手を振っていた。
市村光紀。
大学時代の知人で、現在は近くにある国立大学の大学院で研究を続ける学者の卵だ。
頭がいいだけじゃない。長身に人並みよりも整った顔立ち。一見、モデルか俳優かかと思うような見た目に騙されることなかれ。これほど食えない男を、私は他に知らない。奴に対する私の印象は、出会った当時から一貫して「宇宙人」だ。
元々、弟の友人だとかいうこの男は、大学時代に出会って以来、何故だか私につきまとっている。そもそも私とは別の大学に在籍しているはずなのに、なぜか頻繁に大学内で遭遇するわ、弟を口実に自宅までやって来るわ。何度追い返しても、邪険にしても、こいつは気分を害した様子すら見せない。それどころか、口を開けば甘ったるい言葉を吐き散らす。正直なところ、こいつにはどう対応するのが正解なのか、もはや分からない。
「何だぁ、燈子さんの知り合いかぁ」
ほっとしたような寮長の声が、唖然としていた私を現実に引き戻した。
深く息を吸い、気を取り直す。
「……寮長、塩取ってこい。なけりゃ、鈍器でいい」
「はい? え?」
「紛う方なき変質者だ。不審者だ、ありゃ」
「相変わらず酷いなあ、燈子ちゃん」
「……げっ」
いつの間に人混みを掻き分けたのか。
すぐ隣から聞こえた声に、私は文字通り飛び上がり、後ずさった。
「折角、会いに来たのに」
「お前には、ここのことも私の仕事も教えた覚えはないんだが」
「そこはそれ」
「どうせ、
私が今、どこで何の仕事をしているか、正確に知っているのは一人だけだ。
「ニュースソースは明かせません」
しれっと断言して、にへらと笑う。それがまた、苛立たしいことこの上ない。浹のヤツ、後で呼び出して締めてやるから覚えとけ。
「とにかく! ここは女子寮だ。親兄弟と言えど、門柱より中には入れないのが規則! 以上、帰れ!」
「――まぁまぁまぁまぁ、燈子さん」
ヒートアップする私と市村の間に割って入ったのは、寮長だった。
「折角来て下さったのに、むげに追い返すのも悪いですよ。ね、みんな」
振り返った寮長に、寮生達がぶんぶんと首肯する。赤べこか。
「お。話わかるね、君。将来有望だなぁ」
「馬鹿言うな。寮監自ら、規則破りなんてできるか」
「でもほら、いつもちょっとくらい大目に見てくれるじゃないですか」
寮長だけでなく、あろうことか、他の寮生までが口々に援護射撃を始めるのを見て、少し気が遠くなりかける。
「あのなあ……家族ならともかく、寮生と何ら関係のない馬鹿を入れてみろ。私を路頭に迷わせる気か」
「あ、それいいなあ。行くとこなくなったら、僕の所においでよ」
これぞKY。
空気をまったく読まないその台詞に、私の中で何かがぶちっと音を立てた。
「お前が帰ればすべて丸く収まるんだ! とっとと帰れ、このすっとこどっこい!」
思わず全力で放った怒声によって、剥がれかけていた玄関の壁の一部が崩れたが、それはまた別の話。
英藍 à la carte きょお @Deep_Blue-plus-
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