あとがき
あとがき
「将棋倫理学」というジャンルに関して私は、成立してほしいと思っているわけではない。そもそも応用倫理学はジャンルを乱立しぎている、と考えている。しかしながら、将棋をはじめとしたさまざまな競技に対して、現状倫理学は積極的にかかわれる状況にないのではないか、とも感じる。スポーツ倫理学が確立されている中で、将棋倫理学やボードゲーム倫理学がほとんど書かれることがないのはなぜなのか。
「eスポーツ倫理学研究会」があるように、ゲームに関しても倫理学はかかわっていこうとしている。しかし将棋のみならず、囲碁や麻雀にも、倫理学がかかわっていこうとする様子は現在確認できていない。プロもアマも多くの人々がプレーし、多くの人々が観戦しているにもかかわらず、である。
今後どうなっていくかはわからないが、やはりスポーツに比べてそれほど分厚く検証されていくジャンルにはならないだろう、と思っている。私たちは学校でもスポーツを学び、人生において不可欠なものとして理解している(させられている)と言えないか。医療・環境・ビジネスなど、応用倫理学の柱となるのは「誰もがかかわるもの」であった。情報・宇宙・スポーツなども、人生と切り離せないものであるからこそ、応用倫理学において新しいジャンルになりえたのかもしれない。
しかしゲームは、「したい人がするもの」、つまり「かかわらない人もいるもの」と理解されていないか。それが将棋ともなれば、かかわらない人々の方が多い。eスポーツ倫理学研究会も、今後その点で苦労していくかもしれない。対象そのものに興味のない人にとっては、対象の倫理問題についてもあまり興味がないだろう。
eスポーツににしろボードゲームにしろ将棋にしろ、「誰もがかかわっていく可能性がある」という点では十分に検証の意味があると私は考えている。逆に関係ない人がいるという意味で検証の意義が薄れるならば、スポーツもそうなのではないかと疑わなければならない。スポーツ倫理学が今後ジャンルとして成長していくとすれば、「スポーツが特別視されていないか?」と問われなければならないだろう。スポーツを楽しむようにゲームを楽しむ人々、スポーツ鑑賞を楽しむようにゲームを楽しむ人々は「確かに存在している」のである。それはおそらく、かなり多くの人々である。
本稿で検証したように、将棋の諸問題を考えることにより、ルールやマナーの倫理的問題について考えることになった。「将棋から」考えることで、新しいものが生まれるかもしれない。また将棋について考えることにより、スポーツ倫理学で考えられていたことがスポーツ特有なものではないと判明するかもしれない。
「将棋倫理学」という言葉は私の冗談であり、重要な概念だとは少しも思わない。しかし将棋には、多くの考えさせる材料があった。ここから新たな課題が見つかり、新たな倫理の可能性が見いだせるかもしれない。
私が本格的に将棋についての論文を書く日が来るかはわからないが、今後も考えることはやめずにいたい。再びこのような形で発表することはあるかもしれないので、その時は読んでいただければ幸いである。
清水らくは
将棋倫理学概論 清水らくは @shimizurakuha
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