将棋の本質

 「将棋とは何か」は、「スポーツとは何か」と同様に難解な問いである。将棋にはゲームという側面があり、対局者と楽しい時間を過ごすためのものである。しかし同時にそこには勝負が存在し、競争的な側面も存在する。

 しばしば学生スポーツにおいて議論になるように、勝負だからと言って勝負論にこだわりすぎることは良しとされない。スポーツにおけるのと同様に、将棋においても「楽しむ」「成長する」という点が強調されることがある。

 競争ではないスポーツは「オルタナティブ・スポーツ」と呼ばれる。エアロビクスや登山などが例として挙げられる。これらは主に、健康になることや、良い景色を見ることなど「非-競争的」な目的が主となる。(ただし、競技的なエアロビクスや登山も存在する)

 将棋もマナー向上や脳の成長など、非-競争的なところに目的が置かれることがある。しかし将棋そのものが勝利を目的とするゲームであるため、競争と完全に切り離して考えるのは無理があるだろう。例えば詰将棋を解くだけならば、一人で楽しめ勝負が決着するとは言えない。しかし将棋をする中で、「詰将棋だけを楽しむ」者は少ないだろう。また、詰将棋回答選手権があるように、それ自体が競技化もしている。「これが解ければ何段」という問題も、「相対的に他者より難しい問題が解ける」ことにより段の力が認められる。他者との競争が皆無の世界とは言い切れないだろう。

 しかし、スポーツがそうであるように、将棋においても、競争の影響度は人によって異なる。世界で一番強くなりたい人もいれば、プロレベルに到達したい人もいる。有段者認定されたい人もいれば、父親になんとか勝ちたい人もいる。求めている強さは人それぞれ、行われている競争も様々なのである。

 そしてここで重要なのは、競争性の与える影響は人それぞれでも、将棋から競争性を排除することはできないということである。登山やエアロビクスは、競争をなくしても成立する余地がある。しかし競争性のない将棋は、存在意義を失ってしまうだろう。競争性のない楽しみ方があることと、競争性が本質に含まれないことは異なる。

 


 将棋にかかわらず本質と切り離せないのが、プロの存在である。ゲームを楽しむうえでは、その場で決められたルールで十分な場合が多い。しかしプロ競技が存在する場合、プロのルールやマナーが強く参照されることになる。例えば私の経験で言えば、プロのサッカーでゴールキーパーへのバックパスが禁止されて以降、学校の体育でするサッカーでも同様に禁止された。そのことについての説明すらなかった。学校教育の場において、プロと同じルールでやる必要はない。だがバックパス禁止は当然のようにルールとなり、遊びでサッカーをするときでさえ適用されていった。

 将棋においても、現在アマの大会においても千日手の規定は「同一局面4回」となっていることがほとんどだろう。しかし以前は「同一手順4回」であった。アマの大会において、プロの規定に合わせなければならないということはないはずだ。例えば「千日手が続くと後手が勝ち」というルールはプロではありえない。しかし、基本的なところではできるだけプロのルールに合わせようとしている。

 私たちが「単に」将棋を楽しむうえでは、プロのルールは絶対的な拘束力を持つわけではない。私たちはプロ組織と完全に切り離されても、将棋を楽しむことができるのである。しかし実際には、プロのルールは拘束力のようなものを持つ。

 また、プロの競技者は、アマに対して審判になることもある。「プロのルールの代弁者」となるのである。プロ棋士が言うことに対して、アマが反論するのは難しい。たとえ記載されていない裁定であっても、従わなければいけない気持ちになるのである。

 この力関係自体に不満のある人はいないように思われる。私たちは自然とプロに対して将棋界の「治安を任せている」のである。しかし、そこに決定的な根拠はない。例えばアマは、プロとは全く無関係の将棋大会を開くことができる。そしてそこにたまたまいたプロの言葉を無視することができる。しかし想定上はそうでも、実際には従うことになるのではないかと思う。そのような「力関係」から私たちは逃れられない。

 このような力関係が存在するとすれば、プロの側には信頼に足る、「強制力があるにふさわしい」正しさが求められていると言えるだろう。そして本稿のテーマに照らして言えば、プロにはその世界の本質を決定する力がある。

 力関係があるということは、プロは監視される対象でもあるということである。そうでなければ、プロの選択が誤りそうな時にそれを止めることはできないし、実際に誤っている者に対して修正させることもできないだろう。しかしゲームにおいては、誰がプレイヤーかというのは非常にあいまいである。もしもアマにプロを監視する責任があるとすれば、そのような責任から逃れるために「私はそこまでのものを背負ったプレイヤーではない」と主張する人が多いのではないか。

 これまでも見てきたように、将棋には様々なルールやモラルがあり得る。それぞれに対してプロは、本質的な影響を与えながらも、決定的な拘束力は持っていない(が、与えないということもほぼない)ものと言える。



参照文献

川谷茂樹(2005)『スポーツ倫理学講義』ナカニシヤ出版

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