九十秒後に夢の終わり

早水一乃

九十秒後に夢の終わり

 レアな光景を見ている。自分の母親が父親を喰っている光景だ。


 正確に言うと「喰い合っている」という表現の方が近いかもしれない。母親は父親の頼りない首筋に犬歯を突き刺し鮮血を顔面に浴びていて、対する父親はうーともあーともつかない声を上げながら母親の右目に指を突っこんでほじくり出そうとしている。その何とも不器用で覚束ない動作が妙に生々しい一方、俺は何だかマグロの解体ショーでも見物するような感覚でしばらく二人の様子を見守ってしまった。

 母親の眼球がぶちっと引き抜かれてフローリングに転がった粘着質な音で我に返り、俺はリビングのドアを恐る恐る閉じた。閉じてもドアに嵌めこまれた磨りガラスから何となく二人のシルエットが見えるので、じりじりと後ずさって後ろ足に階段を探りあて、背後を気にしながら降りてきたばかりのそれを再び上り始める。

 いつものアラームでしゃっきり目覚めたつもりでいたが、どうやらまだ夢の中らしい。遅れて吐き気がせり上がってきた。酸っぱい胃液を何とか押し戻しながら、俺は出てきたばかりの自室によろよろと転がりこんだ。埃の舞うフローリングをしばらくぼんやりと眺めていたが、少し我に返って部屋のドアを閉める。鍵もかけた。

 やけにリアルな夢だ。現実だと錯覚してしまいそうになるくらい。どっ、どっ、と心臓が重たげに跳ねている。できれば両親がこっちにやって来てしまう前に目が覚めて欲しい。いくらゾンビっぽくなったとしても、親を物理的に攻撃する度胸は俺にはない。そう願いたい。ゾンビものの映画やゲームだと、家族や恋人がゾンビになってしまい主人公が涙ながらに殺すシーンがあったりするが、あれはなかなかの精神力を必要とする行為だったのだなあと気付く。人生においてこんな気付きに遭遇する機会があるなんて思わなかった。例え夢の中だとしても。

 ベッドの脇に置いてあるデジタル時計に目をやる。朝の七時を少し過ぎたところだ。小学生の頃はあの目覚まし時計で目を覚ましていたが、スマホを買い与えられてからはスマホのアラームしか使わなくなってしまった。充電していたスマホからコードを抜き、半分無意識の動作でツイッターを開く。

「…………」

 何かが妙だなと思いながらタイムラインを何度か更新してみるが、変化がない。俺のタイムラインには昨日までのツイートしか表示されていなかった。夜の十一時五十七分にクラスメイトがソシャゲの事を呟いている投稿を最後に、ぷっつりと途絶えている。自分のタイムラインを離れ、トレンドやニュースの画面を見てみても同じだった。見ず知らずの誰かたちがあれこれと呟いているが、全て昨日までの投稿だ。朝の七時にもなれば、そこかしこでツイートが飛び交いつつあるはずなのに。

 俺は嫌な緊張感に息を詰めながら、ブラウザでニュースサイトを開いてみた。新着のニュースは昨日の晩が最後だ。カレンダーは確かに今日そうあるべき日付を指している。時計も正常に動いている。インターネットがおかしいのだろうか。大規模な障害とか? テレビを確かめられれば一番良かったが、あいにく両親が絶賛バトル中のリビングにしか存在しない。

 夢の中だというのに、次第に本気で焦っている自分に気付く。いや、でもこれは本当に、マジで嫌な夢だ。俺は部屋で唯一の窓に近付いた。我が家はファミリー世帯の多い住宅街に立地しているので、この時間帯はいつも通りなら学生や社会人が駅に向かう姿が見えるはずだ。いつも通りなら、という枕詞を思い浮かべる時点で結果は分かりきっているようなものだったが、他に選択肢もないので俺はレースカーテンを開けて外を覗きこんだ。

 無人だった。

 というか、何もなかった。

「…………、は?」

 いや、夢なんだから荒唐無稽でも全然おかしくない。むしろ夢っぽさが増していいじゃないか。そうは思いながらも、俺は目の前の光景に急激に心拍数が上がるのを感じていた。

 窓の外には、まるでそこには最初から何もなかったように真っ白な空間が広がっていた。正確には、うちの敷地だけが存在している。我が家と隣家との間には本来、人ひとりがかろうじて通れるような狭い隙間があった。しかし隣家が忽然と姿を消しているので、雑草が中途半端に生えた奇妙に細い道が家にへばりつくようにして伸びているように見える。敷地と何もない空間の境目がどうなっているのかもっとよく確かめたかったが、二階からだといまいちよく見えない。

 空はといえば、これもまた真っ白だった。曇天の有機的な白さではない、圧倒的に人工的な、ペイントソフトで塗りつぶしたような白さだ。見ていると何だか気分が悪くなってきそうで、俺は窓から目を逸らした。

 一体どういう夢なんだ、これは。

 薄情だと言われるかもしれないが、そこで俺はようやくもう一人の家族の存在を思い出した。妹だ。あいつもこの夢の中の家にいるだろうか。一応何か武器になるものがないかと部屋を見回し、ペン立てからハサミを抜き取って利き手に構えてみる。リーチがあまりに短すぎて頼りないが、ないよりましだ。深呼吸をしつつ、ハサミを胸の前で構えながら、俺はそっと部屋のドアを開けた。

 廊下は静まり返っていた。階下の両親はまだぐちゃぐちゃとやり合っているのだろうか。息を殺してフローリングをすり足で進む。隣のはずの妹の部屋が随分遠くに感じ、背中に嫌な汗が滲んでくる。ようやくそこにたどり着くと、俺は耳をドアにくっつけて中の様子を窺った。……何も聞こえない。いつもはノックせずに入ろうとすると烈火の如く怒り散らかしてくる妹だが、音を立てたくないのでそっとドアノブをひねってみた。鍵はかかっていないようだ。そのままゆっくりと押し開ける。

 部屋の中に頭を突っこんだ瞬間に妹の姿が目に入ったので、驚いてうっと息が詰まった。ベッドの上でぺたんと座りこみ、こちらに背を向けている。少し茶色がかった髪に、キャラクター柄のパジャマ。間違いなく妹なのだが、声をかけるのを躊躇してしまう。

 それでもこうやって妹の後姿を息を殺して見つめているのも不審すぎるので、「おい、」と声をかけてみる。緊張で声が喉に引っかかり、無様に掠れてしまった。

 果たして妹は、ごくごく自然に振り返った。

 青白い肌、光を反射しない虚ろな瞳。こちらを見ているのか見ていないのかまるで分からない。明らかに普通ではないその様子に、心配するよりも怯えが先に立ってしまい、俺は無意識に一歩引いていた。

「うあ、あ、」

 小さな唇が開いて、そんな呻き声が発せられた。見ている間に目の端から赤黒い血が溢れ出し、つう、と頬を伝って顎の先で一瞬止まる。

 それが皮膚から離れるのを見る前に、俺は妹の部屋のドアを閉めていた。

 薄情な兄だと全世界から罵られても仕方がないが、俺は完全にビビっていた。頭が真っ白になりながら、元来た自分の部屋に戻って再び施錠する。全身に響く自分の鼓動を感じながら、俺はしばらく閉めたドアの前で立ち尽くしていた。

 こんな夢、早く覚めてくれ。

 床に座りこみ、唯一の望みであるスマホをもう一度手に取る。ふと友人にメッセージを送ろうと思いつき、クラスで一番仲が良い(と思っている)奴とのトーク画面を立ち上げた。

『家族がなんか変なんだけど。ネットもおかしい』

 送信。しかし、画面上にぽこっと表示されたそのメッセージの横に、相手に送信されていない事を示す矢印のマークがくっついている。何度か同じメッセージを送ろうとしてみるが、全て上手くいかない。画面上に自分の未送信のメッセージが並んでいるのを見ていると気が滅入り、アプリを閉じて再びツイッターやらブラウザやらを開いてみるが、やはり変化はない。

「くそ……」

 俺は傍らに置いたハサミを睨みつけた。その鈍く光る切っ先に、さっきの両親の様子を思い出してしまう。二人はどうなったんだろうか、まだ生きているのか、それとも……。考えこんでいると、ふいにとん、とん、という足音が耳に届く。一瞬で体が緊張した。誰かが階段を上っている。それも音の重なりからして、一人ではない。両親が俺を探しに来たのだろうか。冷えきった指でハサミを掴み、立ち上がってドアの方へその先を向ける。

足音が次第に近付いてくる。心臓が口から飛び出しそうだった。もし親だったらどうすればいい? もし襲ってきたら……生きながら食べられる度胸もないが、親を刺し殺す度胸もまた俺にはない。パニック真っ最中で思考力のぶっ飛んだ今、ただ足音が近付いてくるのを待ち構えるしかできない。

 とん、とん、とん、

 足音がドアの前で、止まった。そのままドアノブががちゃりとひねられ、あまりの恐怖と驚きに俺は飛び上がりかけた。何度かドアノブががちゃがちゃと動かされるが、鍵がかかっているので当然ながらドアは開かない。しばらく沈黙が下りた。

 ふと、耳慣れない機械音のようなものがドアの向こうから響く。時計の秒針が立てる音のような、歯医者が使う器具の音のような、どうにも形容しにくい耳障りな響きだ。息をひそめて耳を澄ましていると、唐突にドアが大きく開け放たれた。


「だいせいこーう!」


 静寂を盛大に破ったその声に、緊張が許容量をオーバーしていた俺は思わず漏らしかけた。頭の中がパニックで真っ白になる。俺の脳は今度こそ思考を放棄しようとしていた。

ドアを開けたのは両親ではなく見知らぬ男女だった。女はひらひらとしたワンピースにカールした茶髪、男の方はカジュアルな雰囲気のスーツを身に着け、二人ともいやにニコニコと輝くような笑顔を浮かべている。

「山田啓太さん、おめでとうございまーす! そして安心してください、ぜーんぶドッキリですよお!」

 『大成功!』と書かれた妙に古臭い印象の看板を掲げながら、女の方が二歩ほど近付いてきてそう声をかけてきた。自分の名前を呼ばれた事で少し正気を取り戻したのか、脳が何とか聞こえてきた単語を拾う。

「ど……ドッキリ? 全部?」

 それは全てを回収してくれる魔法の言葉のように思えた。つまり、家族があんな事になっていたのは全て仕込み、ヤラセ、嘘っぱちだったって事か? どうやら知らぬ間に何かの番組の企画に巻き込まれていた、とそういう事らしい。

 俺はずるずると床にへたりこんだ。気付けば頭上にドローンのようなものが浮かんでいる。どうやらあれがカメラらしく、二人は時折そちらに目線をやって笑顔を作っている。

「あ、安心した? アハハ、確かにショッキングだったよね! お母さんとお父さんがあーんな……ぐちょぐちょになってたら俺もビビるよ!」

 お笑い芸人のようなテンションで男が大げさに笑ってみせる。だよねー! と横の女が大きく頷く。何一つ笑えなかったが、つられて俺もはは、と声を漏らした。

「じゃあここで、山田啓太さんご本人に中継を繋いでみましょう! スタジオの山田さーん!」

「――……あ、ハーイ」

 ……うん?

 女がいつの間にか取り出したタブレット端末には、俺が映し出されていた。どこか知らない場所にいて、少し照れたように引きつった笑顔を浮かべている。

 俺の脳は再びフリーズした。油ものを食べすぎて胸焼けしている時のように胃が気持ち悪い。

 蒼白になっている俺を無視して、画面の中の俺と男女が会話を続けている。

「これでドッキリ無事終了なわけですが、実際に見てみて、いかがでしたか?」

「や、マジで俺そのものなんで、最初はぶっちゃけちょっと気持ち悪かったっすね。家もそのまんまだし、家族も……」

「そうですよねぇ! 私も何度見てもリアルすぎてびっくりしちゃいます。あ、ここで視聴者さんと、一応コピーの山田啓太さんにも改めて説明しておきましょう」

 女が急にこちらに顔を向ける。

「当番組『サプライズ☆パラレル』では、超最先端技術である局地的並行空間の複製技術により、抽選で当たった方のまるまる一世帯分を複製し、『当選者がご本人にサプライズを行う』という未だかつてない企画を行っています! 今回の当選者である山田啓太さんが選んだのは、番組でも人気の高い『ゾンビドッキリ』! 自分以外の家族に特殊な薬物を投与して、いわゆるホラー映画の人食いゾンビに変化させてしまうというやつですね!」

「過去には家族にご本人が美味しく頂かれちゃった事もありましたからねー。啓太さんは自分が食べられちゃわずに済んでラッキーでした!」

 アハハハ、と男女と画面の中の俺が笑う。何を説明されたのか、俺には全く理解できていない。「あっ」と突然男が背後を振り向いた。「ご両親が来ちゃいましたね~!」と言いながら笑う二人の後ろ、ずるずると脚を引きずって呻き声を上げる母親と父親の姿がちらっと垣間見えた。

「あ、」

 と俺は声を漏らした。

 言葉らしい言葉を発する前に、男がするりと腰ポケットから何かを取り出して両親に向けた。ぱぁん、ぱぁん、と乾いた音が二回立て続けに炸裂し、重たい物が崩れ落ちる鈍い振動がこちらにまで響いた。

 俺は喉を詰まらせたまま、半開きの口を閉じる事もできずにいる。

「ヘッドショットだあ!」

 女が楽しそうに手を叩いて跳ねた。

「えー、視聴者の皆さんにお断りしておきます。この辺にもテロップ出てると思いますが、被複製人格は単なるレプリカであり人権は認められておりませんので、今僕は山田啓太さんのご両親を華麗なヘッドショットで倒してしまった訳ですが、罪には問われませんのでご安心ください。まあ正当防衛だけどね! この場合はね!」

 女の持つタブレット端末の向こうから、俺や他の誰かの笑い声がどっと上がった。薄っぺらい画面上で馬鹿みたいに爆笑している自分自身を、俺はぼうっと眺めているしかなかった。手足の感覚がまるでない。滅茶苦茶に飛び跳ねている心臓だけが、俺がかろうじて生きている事を教えてくれた。

「ではでは! このあたりで今晩の『サプライズ☆パラレル』はおしまいとなりまーす! 最強のドッキリを味わいたい方は、ぜひ番組に応募してくださいねー!」

「じゃあ山田啓太さん、今夜はお疲れさまでした! 我々が撤収してから約九十秒後にこの並行世界は消滅しますのでご安心くださいね!」

 また来週~、と男女はドローンカメラに向かって手を振った。そのまま床に倒れる両親だったものをまたいで出ていこうとするので、俺は「あの、」と掠れた声で引き留めた。引き留めたところでどうしたかったのかは分からない。ただ、この場で今の状況を理解しているのがこの二人だけなのは辛うじて理解していた。

 だが、女は興味無さげに一瞬こちらに目をやっただけで、男の方は振り向きもしなかった。二人とも、さっきの眩いような笑顔は見事に拭い去られている。俺が何も言えないでいると、二人は現れた時と同じような唐突さで立ち去っていった。

 俺は、床に転がる母親と父親の残骸に視線を移した。土気色の肌。母親の片目は失われていて、父親の首筋からは骨が覗いていた。それでも、それは紛れもなく俺の両親だった。今はもう、呻き声を上げるどころかぴくりとも動かないが。

 目尻からほの温かい涙がこぼれるのを感じながら、俺は固く目を瞑った。

 こんな夢、早く覚めてくれ。

 目を閉じながら、俺は九十秒を数え始める。

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