四. 気持ちを綴った少女

四.気持ちを綴った少女


 朝早く目覚めると、背伸びをして早速英単語の復習をした。端末のアプリケーション上で、流れて来る英単語が画面端に抜けるまでに選択肢から日本語訳を選ぶ、というものだ。牧村さんが抜き打ちで小テストをしてくれるようになったので、いつも気が抜けない。頑張らなくっちゃ。


 水族館に行くまであと一週間と少し。今日もやることをやってから藤沢に行こっと。


「春菜、目が覚めているなら自分で食事を用意しなさい。私たちはもう少ししたら出勤だから」


「わかったー、二人とも行ってらっしゃーい」


 うわ、よそ見してたら知ってる単語を一個落としちゃった。わかってたのに!


 結果、昨日覚えたと思った単語の二割が抜けていた。記憶の忘却曲線は私の中では思い切り急勾配みたい。うへえ、と声を上げながら冷蔵庫に向かった。今日もお昼を真田家でご馳走になる予定だったので、ひとまずバナナを掴んでから朝餉の献立を考えた。


「うむ、納豆ご飯と豆腐のお味噌汁でいこう。後は何かタンパク質あったかな。あー、お浸しそろそろ食べちゃわないと冬でも痛むよね」


 我が家は私以外みんな変化人で、地方に移住したお兄ちゃんもそうだったから、さすがに独り言が増える。文学少女は紙面以外でも言葉を食べているというのに、なかなか返ってこない投げっぱなしのキャッチボールは少し辛いんだよなあ。これだと昔の文化を勉強して、単になぞるだけになっちゃう。まあ、それでも私? 強いですし? 元気ですし? 最高の文芸作品で世界再建に貢献しちゃいますけど?


「……いやあ、そのためにはまず目下の懸案事項を果たさないと」


 私は今、文字を扱うのにすごく苦難を感じてる。今まで溜めてきた言葉のストックでは足りない。しかもそれ、自分の言葉じゃないんだもの。自分の文章を組むのがこんなに難しいとは思ってなかった。昔の文豪たちは本当の本当に天才だったんだろうなあ。


 内容が内容なだけに、誰かに相談するわけにもいかないし、かと言って一人で書き上げることも相当難航していて、ああ待って、とりあえず考えるのはお腹満たしてからだ。お腹空いた。


「さて、まだ準備するだけの時間はあるよね」


 食後の洗い物を済ませてから、自分の服と下着を洗濯機で回し、少し鏡で髪を整えてから、机に向かった。ようしよしよし、また少し書き始めてみますか。ええと、拝啓……カタイな。やっぱりカタイ。時節の挨拶も入れてるとなると、ガッチガチですよねもう。


 便箋にペン先を付けると、思いがけない言葉が出てくる。その上でめくるめく誤字脱字の乱舞。そうなるともう修正が利かなくなっていって、私の部屋にくしゃくしゃに丸めた紙が積み上がった。次の一枚で決める、と思って挑んでも、足元にまた一個のゴミが増えるだけだ。


「し、下書きをしよう。端末でまずはまとめよう」


 便箋束が一つおじゃんになったところで、私は限界を知った。いや、本当に無理だこれ。原稿用紙で小説書いてた文豪たちは何を考えてたんだろう。頭おかしかったんじゃないのかな。うん。


 で、端末を開いたために、私はさらなる限界と向き合うことになってしまう。どうしても言葉を連ねると頭に血が昇って、クラクラしてしまうのだ。心臓が早鐘を打って、喉元までせりあがる気がした。耳に触れると、もう見なくても分かる。真っ赤っかだよ。あっついもん。かといって、これを直接、かつ誤解なく伝えられる気もしない。それでこの手段を選んだのだから、もう後戻りはできない。タイムリミットは一週間と少し。動き続けないと。


「お疲れさまです」


 真冬の寒風にビシバシ当てられつつ、ヘロヘロの状態で真田医院の待合室にたどり着くと、牧村さんが目線だけを送ってそう言った。今は完全に無表情。


「牧村さん、牧村さん、聞いてください……。私は馬鹿です……。頭がおかしいのです……」


「当院は脳外科を専門としてはいないので、その件は承りかねます。MRIのある大学病院に紹介することもできますが」


 もう思いっきり真剣に心配されているので、両手を振って、違う違う、と言った。そして、背後に気配。


「おや、三上さん。今日も勉強をしに?」


「せんせッ。はいッ」


 背後からの不意打ちは武士道に反すると思います。きっと騎士道にもです。秘境に点在したどの部族の掟にも。どうして診察室にいらっしゃらないのですか。


「ふむ。少し顔が赤いですね。乾燥もしているので、肌の状態が心配です。診ましょうか」


 診察室に向かって歩き出した先生の体から真田家の匂いがする。でも一義さんとは少し違う。青さの代わりに、大人の深みがある。それが鼻をくすぐると、いくらか安心感が出た。深呼吸をしてから、いつものように笑みを浮かべて見せる。


「大丈夫です。今日もすっごく元気ですから。お昼、ご馳走になりますね」


「それならいいのですが」


 ああ、この声色。ほんの一握りの陰りがある笑顔が漂う。もう素敵としか言いようがない。至上の音が耳をくすぐってくる。自分には、その空気の震えを正確に書き留める技能がないことを恨みながら、真田家へと脚を向けた。


 お宅にお邪魔することになってしばらく経つけど、やっぱりこの家は生活感があまりない。一義さんは結構散らかすのではと思っていたけど、彼は自室もある程度整理していて、全体的に綺麗だ。洗濯物も丁寧に畳まれて収納されているから、つけ入る隙がない、と感じちゃう。押しかけ女房未遂事件、未発覚あるいはそのまま迷宮入り。


「ふああ、春菜ちゃん、おはよう。違うや、こんにちは、いらっしゃい」


 階段を降りてきた一義さんは頭をかきながら挨拶をしてきた。


「お邪魔してます。ね、ね、一義さん。先生って夏目漱石読んでますかね」


「父さんはもっぱらドストエフスキーとトルストイだよ。結局あんまり理解はできないようだけど、とりあえず全部通読してる。で、それがどうしたの? なんで?」


 いや、短い決め台詞が通用しないのなら私は深追いしません。その日、月が出ているとも限らないし。ふむ、と考えていると、牧村さんが玄関に現れた。


「お待たせしました。それでは昼食の用意をいたしますので」


 なんだかすっかり笑顔な声が多くなった牧村さんの献立は前時代のレシピのもので、全てがすごく美味しい。一義さんがご飯をお代わりするようになったので、牧村さんも承知の旨を笑顔の色つきで応える。もうこの二人くっついちゃってもいいんじゃないかと思うんだけど、どうでしょうかね。お味噌汁をしっかりとお出汁から作ってくれるお嫁さん、いいじゃない。うちなんか出汁パックだよ。下手すると出来合いのフリーズドライだよ。調理人、私だし。


 でも簡単には言い出せないよね、と踏みとどまるしかない。だって、私たちがいつ死ぬかは分からないけど、牧村さんはもう三年も生きられないんだから。それに真田先生だって四十代。私たちがどう足掻いても悲しいお別れの形が決まっちゃってる。


「三上さん、お口に合いませんか」


 牧村さんが気遣わしげにこちらに声をかけてくるので、私は暗くなった顔を笑みに染め直して返した。


「これほどの味が出せない私の女としての価値とは、とか考えちゃって」


 取り繕ったけれど、やっぱり自分が気持ち悪い。ああ、嘘ばっかり。なんだか最近、嘘が多いな。そんな自分でいるのは嫌だな。


「英語に加えて調理の勉強時間を取るとなると、時間が足りませんね。往復の時間が無駄です。ご家族の了承が得られれば、私の家に泊めて差し上げることもできますが」


「ぜひ」


 食い気味に言った私に、一義さんが笑った。牧村さんは静かに「かしこまりました」と言ってから思案げに口元に手をやると、こう続けた。


「しかし、私の部屋には包丁もまな板もありません。コンロさえもないので、実習はおそらく真田家でとなりますが、果たしてよろしいでしょうか」


「ぜひ」


 この食い気味の発言は私ではない。一義さんだ。しかも私の声よりずっと力強い。


 牧村さんには居間でソファに座っていただいて、私たち二人は洗い物をしながらコソコソと作戦会議した。


「一義さん、下心もう少し隠してもいいんじゃないですか」


「渡りに船があれば飛び乗って舵を奪うのが戦の習わしだよ」


「それ暴虐無人すぎて武士真っ青ですけど」


「この戦には勝つつもりだからね。手段は選ばない。勝鬨を上げるは我なり、ってね」


 さて、これが作戦会議かどうかは置いといて本題。


「で、春菜ちゃんはできたの? 恋文」


「古めかしい言い方がむしろイヤらしいなあ……。ええっとですね、進捗三割です」


「ってことは実際にはまだ一行も書けてないわけだ」


 ぐっ、と言葉に詰まる。この人もなかなかに鋭い御仁だ。看破の精度も上がっておる。


「間に合うの? もう二週間はとっくに切ってるけど」


「だって手が震えて文字はブレるし、内容もまとまらないんですもん」


「でもさ、僕もその日に決行する覚悟で腹決めてるんだから、さすがに逃げ腰でいられるとこっちまで弱気になるよ」


 そう、私たちは水族館で上手く二手に分かれるように動く。そこでいい雰囲気を作って、えっと、その。


「春菜ちゃん、顔真っ赤」


 こここ、告白をしようと企んでいるのです。仕掛けます。決戦です。


 それから小休止を挟み、端末上で両親に外泊するというメッセージを送ると即時許可が下りた。ちょっと薄情には見えるかもしれないけど、私は愛してる。言葉の端々であっちも同じように感じてる空気があったから、それは揺るがない。


 一度着替えを取りに帰ると、帰宅していたお父さんが不意に声をかけてきた。


「明日から行くのか」


「ううん、今晩からお世話になるつもりだよ。ところで保冷バッグとかなかったっけ? 食材を向こうに持ち込みたくって」


「母さん、そのような物はあったか」


「あるわけがないでしょう。そんな無駄な物」


 お母さんが素っ気ない表情を乗せて言った。お父さんは少しだけ思案するような唸り声を上げて「発注しておくから適当な時期に戻りなさい」と言ってくれた。


 外泊先がどこであるかとか、家主の性別がどうであるだとか、そういう質問はしない。変化人だから無関心。でも、欲しい物があれば許す範囲で買ってくれる。ありがたい。いや、お金や物の話じゃなくて気持ちが嬉しいんだ。それでも、お母さんも心配はしてないよね。お兄ちゃんは変化人だから、一応、家は続きそうなわけだからさ。


「春菜」お母さんが小さく言った。「気をつけていってらっしゃいね」


 ふうむ、前言は撤回かな。やっぱりこういうところがあるから私は家族を愛せるんだよね。私がいてこそ三上家です。


 夜の藤沢駅に舞い戻った。普段のピシッとした服装でない、ニットのセーターとジーンズの牧村さんがロータリーに車を着けて待っていてくれた。


「では、行きましょう。猫がいますが、あまり構わないでやってください。人には慣れていますがあまり触れられたがらないので」


「おお、ペット可のお宅なんですね。猫ちゃんのお名前は?」


「ジャックです。それでは向かいます」


 牧村さんの運転は相変わらず非常に丁寧で、角を曲がっても遠心力をほとんど感じない。でも、頼めばドリフト走行もしてくれそうだと思う。あ、無駄だと思ってやってくれないかも。なんて、そんなことを考えていると、牧村さんが以前も寄った国営コンビニに立ち寄ろうと言った。私の夕食のことを案じてくれたのだろう。と、思った矢先に意外な言葉が届いた。


「申し訳ないのですが、私にも無糖の紅茶とおにぎりをお願いできますか。おにぎりはお肉の入った物を」


「え? いいですけど……」


 相変わらず店内にぼんやりと立つ覇気のない店員さんは、言葉を発しないので本気でやる気がないのだと思う。でもそれはどうでも良くて、私は小さく首を傾げている。


「牧村さんがお食事を……。しかも、わざわざ私のタグで?」


 店員さんが死んだような目で、っていうか死んでるのかも分からない動作で、お願いした品物を抱えて戻ってきた。支払い免除の電子音を背に、私は車の助手席へと身を収めようとする。


「こちらでいいですか? あと、ついでなんで肉まんも。いやあ、この時期になると一応出てくれるのがありがたいですよね。一日三個限定! っていう空気がより購買意欲をそそるというか」


 すぐに本音を切り出さない私に、牧村さんの顔がすいっと向けられた。


「おそらく、何故このような無駄を依頼したのかとお思いでしょうが、どうも私には無駄ではないようです。何故かは判然としませんが、それらをまた食べてみたくなりましたのでお手間と知りつつもお願いしました」


 困惑した表情の声で言うので、少し間を開けて、私は以前の質問を今一度してみた。繰り返してみる意味が今はあると思ったから。


「真田家の男子だとどっち派ですか?」


 牧村さんは、私よりも、もっともっと長く間を開けてから曖昧に答えた。


「このような時代でも、未成年を気にかけるのは犯罪でしょうか」


 恥じらい。戸惑い。憂い。悲しみ。そして、少しの喜び。複雑に彩られた声の表情が、私の目に映り、耳を通る。静かで、とってもとっても慎み深い、優しい感情だ。


 自分で訊いておいて、私はその遠回しな回答に揺れてしまう。一義さんが羨ましくて、もう、耐え切れないほど羨ましくて、手にした肉まんが潰れてしまうのも気にならなかった。手を熱い肉汁が伝うまでの数秒、私はなんだか泣きそうだった。そのあと、火傷して本当に少し涙が出てきたけど。


「三上さん、大丈夫ですか」


 牧村さんの部屋があるマンションにたどり着くまでペットボトルで冷やしていた手を洗面所で流水に浸していると、そんな声がかけられた。


「また火傷で診てもらうことになるとは、とほほ、って感じです……」


「それでまた真田先生とお近づきになれますね」


「それはそうなんですけど、でも怒られそ──えッ!」


 今の声、絶対に何か含み笑いの色してた。ちょっと待って、ちょっと待って本当に待って、牧村さんそういうの絶対興味なかった人でしょ。知ってるんだよ、全然興味なかったじゃない。だって、思いっきり話を切り上げたじゃない。


「私は無駄なことは忘れますが、どうもあの時の会話は無駄ではないと感じたようでしたので覚えております。そして、近頃どうもそのような感情が理解できるように戻った気がしましたので、少し」


 私がこの話題振った時は確実に気づいてなかったはずなのに何! 今! 何故!


「触れられて欲しくないのであればここでこの話はお終いとしましょう」


 なおも含み笑い。この局面に来てそういうことを言ってしまえる辺りがさすがお姉さんというか、まあ失礼ながらほぼほぼお婆さんに近い年齢なんだけど、人間的な練度が高くてズルい。


「ただ、差し出がましいお話ですが、一言だけアドバイスをいたしますと、先生はなかなかの朴念仁ですよ」


 この言葉の意味を知ったのは、最終局面を迎えた時だった。


 決戦の日を迎え、私と一義さんは冬の装いを整えて八景島を訪れていた。変化人のお二人は、春先かな、秋口かな、どっちかと間違ったのかな、という服装だったけれど。


 久しぶりの水族館は手放しに楽しい。イルカショーを担当するのは純粋人で、活き活きとした動きと声に私と一義さんはとても盛り上がった。拍手することに意味を見出さない観客しかいなくて、どうも浮いてはいたけど、それでもイルカを従えていたお姉さんが感涙を浮かべながら駆け寄ってくるほどに私たちは手を打ち鳴らした。お姉さんの感動具合は、熱のこもっていない拍手をしていた真田先生と牧村さんにも握手を求めるほど。ちょっとだけ、変な意味で涙を誘われます。


 クラゲの見られるコーナーを臨むと、私と一義さんは目配せをして二手に分かれるように動いた。


「先生、こっちのクラゲ可愛いですね」


「牧村さんはサメって興味あります?」


 私たちの言葉がガチガチだったので、純粋人同士だったら不審に思ったことだろうが、お二人はあまり疑問を持たずに誘導されてくれた。真田先生は、私がテキトーに指差したクラゲをまじまじと見つめてから真剣に答えてくれる。


「私はどうも動物に対して可愛いという感情が芽生えないので分かりかねますが、そうですね、三上さんがおっしゃるのならそうなのでしょう」


「え、へへ。そうでしょう。可愛いです。ふわふわしてて、綺麗で」


 言っときますけど、ふわふわしてるのは私ですよ。相当足元ガクガクしてます。暗くなかったら顔面真っ赤なのモロバレですよ。


 その日までに私がなんとか書き上げられたのは本当に一行で、単純に「一緒にいさせてください」とだけ。それ以上は余計なことを付け足せなかった。その手紙をコートのポケットで手汗に湿らせながら、私は話を続けようとする。


「クラゲって体がなくなってもまたどこかで再生するってお話があるみたいですね」


「それは興味深い。死なないということですか」


「なんだかすごく不思議な生き物ですよね。食べられてしまわない限りは何度でもやり直せるって」


「不死……。死なないということはそれほど重要なことなのでしょうか?」


 先生の言葉が重たく陰る。変化人のことに重ねてしまっている。私はそんなことで意識を散らせるためにここを選んだわけじゃなくて、ちょっと雰囲気がいいから暗いところを選んだだけであって、ええっと。


「私は変化人の研究者を目指していました。両親が純粋人だったので、育てられた恩返しに不死を与えようとしたのです。ですが、今となってはそれが傲りでしかないことを痛感しています。いつ死すとも分からぬ道を歩むからこそ輝くものがあるのではないか、と三上さん、あなたを見ていて思います」


 転がり出した車を止めることはできず、言葉は続いた。先生は悲しい顔をしている。クラゲの鑑賞ケースの明かりの影になっているけれど、私はその言葉から感情が分かってしまう。


「息子には良き人生を歩んで欲しいと思っていたのですが、私の後を追って、もはや益のない職を選ぼうとしている。これは、少々寂しいですね。ですから、三上さん」


「はい?」


「ぜひ、良き友人として、もし望むのであれば、それ以上の関係を、一義と築いていただけませんか」


 心臓が跳ねた。この人は本気で言っている。私が想い、慕い、憧れている人が、自らの息子のために生きてくれと言っている。突然、膝から力が抜けた。その場にへたり込んだ。すぐさま死んでしまいそうだった。存在を抹消できるボタンがあれば、迷わず押している。こんな経験をするために生きてきたわけではない。そんなこと言って欲しくないのに。


「三上さん、大丈夫ですか。立ちくらみでも? 向こうにベンチがあります。さあ、休みましょう」


 手を引いて立ち上がらせようとする先生に、思い切り抗ってから私は息を吸い込んだ。


「──私はっ!」


 吸った酸素以上の量を吐き出した気がする。声を張っていた。思いっきり大声だった。


「私は、私はっ、そんなこと言われたくなかった! あなたにだけは、そんな風に言われたくなかった!」


「三上さん?」


「いつも優しく丁寧に診察してくれて、いろんな表情見せてくれて、それで特別に想って欲しくて! そっ、それで、一緒にいたくて! だから、火傷が治ってもあなたのところに通ってたんです!」


 先生が明らかに対応に困っている。私の名前を呼ぶ声からしても、私の言っていることが微塵も通じてないことがわかる。


 牧村さん、本当におっしゃる通りでした。ここまで言っても全然伝わってない。だから、きっと手紙なんかじゃもっと伝わらないんだ。だから、言葉にして行動しないとダメなんだ。


「一緒にいさせてください。好きなんです。義之さんが大好きなんです。私がお婆ちゃんになる前に先生は塵になっちゃうけど、それまでの間、ずっとそばにいさせてください。一義さんとじゃなくて、あなたと人生を送らせてください。私がいつ死んでも後悔がないとしたら、それは先生が近くにいる時だけです。心が近くにある時だけなんです」


 一度にたくさん言葉を吐き出すと、呼吸がつらくなる。目頭が熱くなる。


 涙で滲んだ視界にクラゲがふわふわと浮いている。死なない生物が、ただゆらゆらと漂っている。それを私の小さな、弱い手で掴むとしたら、どうしたらいいんだろう。きっと、どうやっても逃げてしまうよね。だって相手は違う生き物なんだから。もしかしたら、言葉が通じないかもしれないんだから。


「……三上さん」


 先生はまだ困惑している。


「──先生、すみません。困らせてしまって。えへ、ただのわがままでしたね」


 ここでまたすぐに身を引こうとする自分を思い切りビンタしてやりたかった。自分がすごくちっぽけだと感じられたから、そのまま消えてしまいたかった。風に吹かれて、飛んでしまえって。どうして私たちはこうも面倒なんだろう。いっそすぐに塵になれたら便利なのに。


 涙を袖で拭って、なんとか立ち上がると、私は先生に背を向けた。


「困らせることは分かっていたのに、どうしても伝えたくって。あの、私帰ります。もう医院にも行かないようにします」


 その場を後にしようと足を踏み出した途端に、手首を掴まれた。


「三上さん、待ってください」


「放して、ください」


 いけない、まだ涙が出てくる。こんな顔見られたくない。


「聞いてください。さあ、こっちを向いて」


 頑なに私が振り向かないので、先生が私の前に回ってきた。明るみの中へ私を引っ張り出しながら、先生はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「私に少しだけ、応じるかどうか、準備する時間をください。そこまでの覚悟に真っ向から応えられずいるなど、あなたにいなくなられるなど、私にも後悔が残ります」


 こんなに真剣な表情の色はまだ聞いたことがない。先生からだけじゃなくて、変化人全部、いや、純粋人合わせて全人類の誰からも、今まで一度もこんなに真剣に話をされたことがなかった。


「あと十八年も残されていない人生です。後悔を抱えたまま生きたくはない。そして、あなたの人生が何年続くかも分からない。後悔させたままにしたくはない」


「……その心の準備にはどれだけかかりますか」


 いじけるような言い方になったのは、私がまだ子供だからなんだろうな、と思った。それでしばらく待って、先生は「あー」と曖昧に声を出した。


「ええと。それは、そうですね。明確に決めていませんでしたね。なるべく……早めに」


 そう言った先生は、やっぱり、素敵な声色に苦笑を乗せていた。


「じゃあ、明日で」


「いえ、申し訳ないのですが、もう少しだけ猶予をいただけると」


 今度は少しだけ狙って困らせることができたので、私も微笑めた気がする。

 水族館を出ると、私は先生の隣を歩いた。前を行く一義さんと牧村さんの近さに比べたらずっと遠いけど、今までよりもずっと近い距離感で。手を伸ばせば届く。踏み出さなくても、触れることができる。


 空には三日月が浮かんでいた。ふと、私は口に出していた。


「月が綺麗ですね」


 先生が同じように見上げて、繰り返した。


「そうですね。月が綺麗ですね」


 声色から明らかに真意が通じてないことが分かったけど、一歩だけ先生に近寄って、手の甲に私のそれを触れてみた。


 先生は前を向いたまま表情をいつものように崩さず、それでも、私の手を遠慮がちに柔らかく握ってくれた。あんまりにも不器用だったので、少しだけ笑っちゃう。


 もう片方の手でポケットの中の手紙をクシャリと握る。でも、これはゴミじゃないんだと思うことにした。


 全部全部、意味があることなんだと信じることにした。きっと、全部そういうものでしょ?


 後は、私たちがどれだけ変われるか、変わらないでいられるか。自分よりも低い体温の人の手を少し、ほんの少しだけ、強く握ってみた。離れてしまわないようにじゃなくて、その時のことを絶対に忘れないために。ずっと、忘れないために。手の中に確かめていたかった。


 どうか、いつまでも、いつまでも心にありますように。



不変のぼくらが持つ虚無と──確かにあった愛の形 了

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不変のぼくらが持つ虚無と 服部ユタカ @yutaka_hatttori

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