第2話 明日はダービーだよ

 伯父は昔、軍事教練で三八式歩兵銃をかつぎ雨のなか荒川まで行進し、それで肺をやられたそうだ。

 僕がものごころついた時から細い人というイメージがあり、それはこのためらしい。


「調子はどうですか…」

 母への報告もあるしね、ちゃんと訊かないと。

「うん…、まあまあだな…」

 予想通りのお言葉だ。

 

「おばさんはいないの…」

 伯父さんの奥様は色白でふっくらした人だ。

 どこかに行ったのかな…。

「ああ、さっきまでいたけどな、疲れているようなのでな…」

 帰ってもらったんだね。


 伯父さんもちょっと疲れている感じだ。

 早めに帰ろう…。

 でもおばさんがいないなら…。

「ねえ、おじさん…。ちょっと見る…?」


 僕は駅で買った競馬新聞をバッグから慎重に取り出した。

「明日はダービーだよ」


 パリパリの新聞を手渡す。

 思った以上に細く、しわのある手がそれを受け取った。

「そうか…、ダービーか…」

 年に一度の3才馬の祭典。

 馬の一生のうち一度しかチャンスがない。

 選りすぐられた優駿のレース。

 勝利した馬も騎手も最高の栄誉として永遠に語り継がれる。

 特別なレースである。


 伯父は競馬が好きだった。

 病気になっても土日はなんかむずむずするらしく、

「買いに行きたいみたいだけどね…、外出するとね…」

 と奥様に言われていたのを母伝いに聞いていた。


 特別なレース、東京優駿、日本ダービー。

 お見舞いの品はないけれど、きっと何よりも喜んでくれるだろうな。

 新聞の束を見たキオスクでそう思った。


「コーヒーでも買ってくるね」

 真剣に馬柱を見る伯父のじゃまをしないよう、そう言ってから病室を出た。


「ああ…」


 老眼鏡をかけ、新聞から目を離さず伯父は言った。


 近くに自動販売機があったが、僕はかなりの時間そこにいた。

 競馬にはそんなに詳しくはない。

 でもなんとなくわかる。

 勝つのもうれしいけれど、きっと馬柱をみながらレース展開を予想している時が一番楽しいんじゃないかな…。


 ああでもない、こうでもない…、でもこの距離じゃこの馬はどうかな。こいつがまず最初に逃げて…この馬が次につけて…。

 後半にはこの馬が追ってきて…。

 うん…? 相対的にはこれよりこっちのほうが強いけれど、枠が外だしな…。


 楽しいと思うな…。


 だいぶたってから病室に戻った。

 伯父さんは新聞にボールペンで印をつけているところだった。


「馬券さ、買ってこようか…、黄色いビルで…」


 駿河台を下っていけばすぐに水道橋で、そこは今東京ドームシティなんておしゃれな名前がついているが、ぼくらにとっては高校生のころから後楽園の「黄色いビル」でありウィングというより「場外馬券場」と言われたほうがよくわかる場所である。


 大学もこの近くで、僕には後楽園から本の街、神保町界隈まで行きなれた場所になる。

 

 ちなみに高校生や大学生は馬券は買ってはいけませんと書いておきますが、調べたら現在は20才以上なら購入可だそうです。

 20才以上の高校生や大学生はなんの遠慮もなく買えるんだ…、いい時代になりました。


そうそう、「社会人」になり馬券を買いに行ったら、いきなりマークシートになっていて、

「なんだこれは!」

 と驚き、さらに昔は絶対いなかった、かわいい制服をきた若い女性がいて、

「有馬記念買いたいんだけれど、どこマークすればいいの…」

 と訊くことができてね。

「変わったな…」

と社会人になってから思いました。

みんなたばこも喫ってないんですよね…。


「ぼくも買うしさ…」

 だいたいいつも本命ガチガチなんだけどね、僕は。

「そうか…」


 そういってゆっくりと体をまげ、テレビの下にある引き出しからふるい黒い財布を出した。


 100円を渡された。


「これでいいよ…」


 本命ではなく△の馬だった。

「これがくるの? 」

「わからねえな…、でも俺はそう思うんだな…」

「買っておくけれど、的中したらお金もってくるね」

「いいよ別に…。馬券ってさ、参加券っていうのかな…、予想させてもらうための参加券だと思うんだよ。参加していないとレースみても面白くないんだよな…」

 そんなもんなのかな。

「メモある…? 」


 僕は何かにうつそうと思い訊いた。


「ああ、あるけれどな…、俺がメモとっておくよ…」


 そう言って、また老眼鏡をかけ、新聞をみながらメモをとっていた。

「わりいな、新聞もって帰ってくれ…」

 やっとわかった。

 奥さんを気遣っているんだね。

 これもやさしさなんだろうな…。

「そうですね、新聞はもっていきますよ…」


 僕は印がついた新聞をうけとりバッグにしまった。


 場外馬券場に行ったことは母にも言わなかった。

 日曜日、大学時代のヨット部の先輩方と江の島に行き、帰ってからニュース番組をみて、ダービーの結果を知った。


 伯父さんの馬券は見事的中していて、僕の本命馬はダメだったですね。


 それから間もなくして暑い夏の日に伯父さんはご自宅で亡くなられた。

 結果として伯父の最後のダービー馬券を僕が買いにいったことになったようだ。


 葬儀は平日で、

「仕事を優先しなさい」

 という父と母のいいつけがあり、参列できなった。


 あの当たり馬券は換金せずにお守りとしてしばらく財布の中に入れていた。

 その後は引き出しにしまった記憶がある。

 捨ててはないのでまだあると思うのだけどな…。

 ずいぶん前のお話なので…。


          了

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5月のある日 @J2130

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