5月のある日

@J2130

第1話 よしこのところの次男です

 JR御茶ノ水駅の階段を上り、暗い御茶ノ水橋口の改札を抜け駅前に出る。

 いっきに木々が生い茂る神田川沿いの開けた景色が目の前に広がり、明るい5月の陽射しが歩道に反射して僕はちょっと目をほそめた。


 駿河台と言われる高台に位置するこの駅からは都会にしてはめずらしく行先のビルというか建物が見える。

 神田川の向こう岸、特徴的な大学のマークの手前に大きなビルがそびえたっている。


 僕はそこに向かうのだが、ふとキオスクを見ると筒状に立てられている新聞に目をひかれた。

 オレンジもあればブルーもある。

 ほぼ同じ見出しだ。

 そうだね、もう5月の末だもんな…。


 僕は無造作に選んだそのうちのひとつを手に取りキオスクのお姉さんに差し出した。


「日本ダービー」

 そう明日は日本ダービー、東京優駿の日だったね。


*****


 30年近く前、僕はその行先のビルで産まれた。

 当時は当然大きなビルではなかった。

 クリーム色のかわいい建物だった。


 祖父や祖母が入院したのもその建物だった。

 ずいぶん前に建て替えられて大型のビルになりスターバックスなんかも今は入っているが、僕は昔のクリーム色の「醫院」と書かれていたころのほうが好きだった。


 病室には蛇腹のオイルヒーターがあって

「これなに…」

 と入院中の祖父に訊いた記憶がある。

 病室から窓を覗けば小さい中庭があり、植物が植えられていた。

 醫院、その字、響きが似合う建物だったな。


 各階を結ぶ階段は広く、その階段を隔てる厚い壁、壁の上部には木造りの飾りがあり、その小さい段差がまるで電車のレールのようで、僕は母が気をきかせてもってきたプラレールの車両の1台を

「ごとごと…」

 と言いながら手でもって走らせていた。

 そんなちいさい僕を看護婦さんも患者さんも笑って見てくれていて、

「脱線させるなよ…」

 と見知らぬおじいさんに言われたものだった。

 

 *****


 病室の番号は母に聞いていた。

 僕はその前に立ち名札を見た。

 最近は変わったが、昔は入院患者さんの名前がドアに掲げられていたからね。

 6人の名前がありその中に

「斎藤勉」

 とあった。

 大丈夫、ここだ。


 6個のベッドがあり、ひとつだけカーテンが引かれ繭をつくっていたが、一番奥に見慣れた人の顔があった。

 イヤホンを耳にさし、テレビを見ていた。


「こんにちは…、よしこのところの次男のたつやです」


 母方の伯父、つとむさんだ。

 母は6人兄弟の末っ子で、次男のつとむさんにとって僕は甥っ子だが、なにしろ甥や姪が多く、たいていは

「だれの子だ…」

「たつおだよな…」

「いや、この子はよしおちゃんだよ…」

 と親戚の集まりになると自己紹介から始めなくてはならなくなる。


 まあね、末っ子のそのまた末っ子の次男なんてね、名前だってほぼあってればいいと思ってますから…。


「おお、わざわざ…」

 はずしたイヤホンを丁寧にテレビの前に置くと、だいぶやつれた顔を僕に向けて言った。

「どうした…今日は会社休みか…」

 窓際の伯父のベッドには明るい陽射しがさし、ブラインドのせいで斜めの影を作っていた。


「今日は土曜日なんだ…、会社は休み」

「そうか…、はは、ここにいるとな、曜日感覚がなくなるんだな…」

 そうだろな…、毎日がいっしょだろうからな…。


「秋葉原に行ってパソコンでも見ようかと思ってさ…」

 気にしないで下さい、お見舞いも持ってきてないし、そんな気持ちを伝えるように僕は言った。

 伯父さんにはお世話になったし、でもなんかわざわざ来ましたというのも恥ずかしいし。


「よしことお父さんは変わりないか…」

「元気ですよ、そうだ、兄…、よしあきに子供が産まれました…。父も母もおじいちゃん、おばあちゃんしてますよ…」


「そうか…、よしこも孫を持ったのか…」


 伯父と僕の母とではずいぶんと年が離れている。

 十歳以上だろう。

 そんな末の妹がな…、そうゆう感じで伯父はつぶやいた。


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