テーボジィと「サンキャッチャー」
柴田 恭太朗
1話完結
後頭部が痛い。
ドクンドクンと、脈を打っている感じ。
足がスースー涼しい。
周囲は明るい。なのに。
何も見えない。
そうか、目をつぶっているから見えないんだ。
体をもぞもぞと動かしてみると、背中にゴツゴツとした感触。
硬いところに寝かされているみたい。
――ここはどこ?
――もしかしたら異世界!?
わたしの顔の上を何かが歩いている。
ちょこまかと、せわしなく小さい脚で、ほっぺたの上をうろつきまわっている。
――くすぐったい。
何かは、じらすようにほっぺたの上を、行ったり、来たり。
とうとう唇の柔らかいところへやって来た。
そのくすぐったさといったら、もう我慢の限界!
そこでわたしは何かの正体に気づいた。
ハッと目を見開く。
――虫だ!
顔の上を手のひらで払う。
さっきまで唇の上を歩いていた小さな虫が、今度は中指にくっついてきた。
――アリ、小さなアリ。
良かった、こわい虫じゃない。緊張が一気に緩んだ。いたずらなアリは触覚をフリフリしながら、右に左にと、行き先を探して中指の上を歩き回っている。
わたしはそっと中指を地面につけて、アリを逃がしてやった。たちまち草むらへ走り込んでいくアリ。
――これって、どういう状況なんだろう?
本当に異世界かしら?
ここが異世界なら嬉しいんだけど。
わたしは寝転がったまま、周りを見渡した。
目の前に広がっているのは、水色の絵の具を溶かし込んだような空。
空をながめていたら、少しずつ記憶が戻ってきた。
ああ、そうか。
わたしは気を失ったんだ。
だから、地面の上に仰向けに寝かされているんだ。
「気がついた?」
すぐそばから声がした。わたしは目だけを動かして声の主を探す。首を動かすと、ズキンズキンする頭の中身がこぼれちゃうような気がしたから。
話しかけてきたのは、フローシャのおじいさん。サンタクロースのように、顔の半分をおおう白いヒゲ。髪もボサボサで、ますますサンタっぽい感じがする。見た目でいうなら、異世界の住人でも通りそうだ。
「はい……」
わたしはどうして、こうなったかをすべて思い出し、恥ずかしくなった。なんとか上半身を起こそうとしたが、両ひじに力が入らない。
「ダメだよ、起き上がっちゃ。頭を打っているからさ」
起き上がろうと、もがくわたしを、おじいさんは言葉で制した。
「いま救急車を呼びに行かせているから。そのまま、そのまま。横になったままで」
見た目が異世界のおじいさんは、救急車なんてモロに現実的な単語を出してくる。ここはやっぱり、現実世界なんだ。わたしは、異世界へ行けなかったことを残念に思った。
わたしの耳元を風が吹き抜けてゆく。
頭がドクンドクンと痛む。
おじいさんの言う通り、少し寝転んだまま様子を見たほうがよさそう。
「どうしてこうなったか覚えてるかい?」
「ええと、金魚を放しに来て、池のほとりのぬかるみで足をすべらせました。それで転んだところまで覚えているけど、あとは……」
「転んで片足を池に突っ込んだ」
おじいさんに指摘されて、わたしは自分の足元をみた。右の靴が脱がされて、くるぶしまでのアンクルソックスになっている。道理でさっきから足がスースーと寒いわけだ。
「靴はあそこ。いま干している」
おじいさんが木材とブルーシートで造られた家を指さす。日当たりのいい屋根の上に、わたしの赤いスニーカーのかかとがチラリと見えた。スニーカーが置いてある軒先に何かキラキラと光るものがぶら下がっているようだ。
「お嬢さんの名前と年齢は?」
「それ、言わないとダメですか」
名前や歳は、個人情報だ。うかつに他人に教えてはいけないって学校で習った。
「ああ、警戒してるね? 別に変な意味じゃないから。脳震とうが疑われるときのチェック項目なんだ。意識レベルを調べるための質問だよ。言いたくなければ、言わなくていいよ」
それを聞いて、わたしは安心した。このおじいさんは悪い人じゃない。自分の直感が、そうささやく。
「ヒカリです。
もうすぐ苗字が変わっちゃうけどねって、わたしは思った。とにかく今は小島ヒカリがわたしの名前。
「そう」、おじいさんはニッコリした。「意識は大丈夫そうだね。むち打ちの可能性もあるから、そのまま寝てるといいよ」
「おじいさんの名前は?」、わたしは聞いてみた。
「わしかい? 名前はないんだ、捨てちまったからね。でも、ここへ遊びにくる子どもたちは皆、わしのことをテーボジィと呼んでいる」
「テーボジィ? 外国の人?」
「あっはっは、いやいや堤防のそばに住んでいる爺さんだから
なぁんだ、日本語なんだ。聞きなれない言葉だから、てっきり外国語だと思った。
わたしもテーボジィにつられて笑いながら、大事なものを忘れていることに気づいて、ハッとした。
「やだ、スマホ!」
わたしはスカートのポケットの上を叩いて探る。でも、そこにスマホはなかった。
「大丈夫、大丈夫、ほれここにあるよ」
テーボジィはぐるぐる巻きにした段ボールの包みを差し出した。わたしは、不思議に思って受け取らずにいると、その包みをほどいてみせた。段ボールの中から現れてきたのは、紛れもなくわたしの大事なスマホ。
「ああよかった、ありがとうございます!」
「これもビオトープに落ちたから、もうしばらく乾かしておこう。スマホを乾かすとき、段ボールが役に立つんだ」
「段ボールって、そんな使い方ができるんですか」
「もともと、段ボールは汗取りに使われた吸湿性の高い紙だよ。表の紙を一枚はがせば、スマホの乾燥にちょうどいい。ホントはシリカゲルで出来た猫砂があれば、手っ取り早いんだけど、ウチにはそんな気の利いたものはないからさ」
「へえ、知らなかった」
「ヒカリさんの靴も段ボールを突っ込んで乾かしているよ。靴の乾燥には新聞紙がいいんだけど、近頃は新聞を読まない家庭が増えてね。入手しにくくなってしまった」
テーボジィは朗らかに笑った。
他愛もないおしゃべりを続けているうち、わたしはテーボジィに親近感を抱いた。この人には、なんでも話せると思えてきた。
「ヘンなこと言っていいですか」
「ふむ。話してごらん。聞くだけになるかも知れんがの」
「わたしね、ここが異世界だったら良かったのにって思ったんです」
「ほお、そりゃまたどうして」
「なんだか面倒くさい子になっちゃいそうで」
「ふむ」、テーボジィはしばし探るように、わたしを見つめ「ツラいことがあったね」と切り込んできた。この人には隠さず話して大丈夫だと感じたから、思い切って言った。
「両親が離婚するんです」
「うん」
「それで来週引っ越しするんです。この町とお別れすることになって。仲の良かった友だちともお別れしなくちゃで」
幼なじみの
「ふむ」
テーボジィは「ふむふむ」とつぶやきながら立ち上がって小屋に歩みより、屋根の上で干していたわたしの赤いスニーカーと、何か光る小さなものを手にぶら下げて戻ってきた。その小さなものは、先ほど軒先でキラキラと輝いていたやつだ。
「ご両親の離婚はヒカリさんのせいじゃないし、どうすることもできない性質のものだ。ましてや、わしがどうこう助言できる筋合いのものでもない、」
テーボジィはスニーカーと光る何かを、わたしに差し出した。
「ただひとつ言えるのは、ヒカリさんには何かチャームが必要だってこと」
「チャーム?」
「そう。チャームって、お守りのことだよ。これを持っていなさい」
私は、言われるままスニーカーと太陽にきらめくチャームを受け取った。チャームは、手のひらで包めるほどの大きさ。ティアドロップ型っていうのかな、涙のような形をしている。わたしはそれを指でつまんで、目の前にぶら下げてみた。表面が宝石のように細かくカットされていて、太陽の光を集めて、虹色にキラキラと輝いた。よく見ると本物の宝石ではなく、ガラスみたいな感じ。
「そのチャーム、正確にはサンキャッチャーじゃが、とにかくそれには『女の涙』っていう名前がついとる」、テーボジィが厳かに説明した。
「女の涙……?」
「持っていれば、たちどころにヒカリさんの涙を吸い取ってくれるじゃろ」
「ホントに?」
「わしが異世界から持ち帰ったものじゃから効果テキメン」
「そんな大切なものを、もらったら悪いです」
「必要な人が持っていればいい。もしヒカリさんが必要なくなるときがきたら、そのときはサンキャッチャーを誰か必要としている人に譲ってあげなさい」
テーボジィが異世界から持ち帰ったというサンキャッチャーは、たぶん壊れたシャンデリアから取り外したガラス玉だろう。だからわたしはお礼を言って、もらうことにした。安易な同情や言葉でなく、工夫をこらして、わたしを励まそうとするおじいさんの気持ちがこもったお守りだから、きっと勇気づけてくれると思うんだ。テーボジィの優しさを思ったら、胸がキュっとする。
わたしは再びあふれてくる涙を抑えることができなかった。
「あれれ『女の涙』の効果がないな」
テーボジィはわたしの涙を見て、ちょっとガッカリしたようだ。
「違うんです。これは嬉しい涙だから吸い取らなくていいんです」
わたしは遠くからやってくる救急車のサイレンを聞きながら、またひとすじ、涙を流した。
完
テーボジィと「サンキャッチャー」 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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