3月の作品
3月26日
布団の中で感じるシンとした空気。カーテンでは隠しきれない柔らかな陽の光。遠くから聞こえてくる電車の通る音。地元を離れてから、何度このひとときを味わったことだろう。
就職の為、首都圏に引っ越してきた私は、この雰囲気に最初は慣れなかった。地元に比べて空気は鋭いし、電車の音はうっとおしいし、一人暮らしは初めてだから寂しいし、何度も地元が恋しくなった。まあ、忙しない日々がそんな気持ちを連れ去ってくれたから、もう大丈夫なんだけど。
今はこの場所が恋しく感じている。
「もうすぐここともお別れか」
そこらに点在していた家具は跡形もなく、有るのは壁際に整頓された段ボールの山だけ。広くなったこのワンルームを、私はもうすぐ出ていかなければならない。
「さて、早く身支度しないと引越し業者が来ちゃう」
身体を起こし、大きく伸びをする。生物学上は女性と分類されてる身だからか、来る人をすっぴんで迎え入れることに嫌悪感を抱いてしまう自分がいる。なのでさっきまで包まっていた布団を速やかに片付けて、着替えと朝食を済ませてから化粧を……と今後の予定を考えていたところ、“ピンポーン”という呼び鈴によって止められた。
「こんな早くにチャイムなんて、誰だろう」
はーい、と返事をして家のドアを開けようとすると、外からの力によってドアが引っ張られていく! その力にされるがまま倒れそうになるも、ぽす、と目の前で音がした――柔らかくも固くもない、温もりのある何かに押さえられて事なきを得る。
「ごめん。まだ着替えてもなかったんだね」
ドアを開けたと思われるその人の声で、私の身体が途端に熱を帯びていく。
「髪の毛もぼさぼさだし……起きたばっかり?」
なんて、くすくす笑いながら私の髪を手櫛でとかしてくる。何にも準備していないのが髪で分かられてしまっては、なおさらすっぴんでいるのが恥ずかしくて、その人に顔を向けられない。どうしてこんな早くにやって来るのかと問いただそうと思った瞬間、両側からクイと顎を上げられた。
「おー、目は起きてるね」
ご丁寧に両手で私の顎を押さえているその人は、吸い込んでしまいそうな黒い瞳で私の目を捉えている。瞳に映った私の顔は、頬いっぱいに赤いニキビを散りばめていて、品の欠片も感じられない。
「あれ、怒ってる? ほっぺ膨らましちゃってー」
なんてひどい顔なんだと憤慨していた心の内が頬に現れていたらしい――私の顎にあった彼の両手が左右の頬を突いている。穏やかに微笑むその人の小さな唇が私に迫って、触れた。
1秒くらいのそれが明けてえへへと笑うこの彼は、本来、ここじゃなくて引っ越した先で会う予定なんだよなあ……。
「なんでこんな早くに私の家に来たの? まだ身支度できてないから困るんだけど」
「だって、一緒に暮らせるって思ったらうずうずしちゃって」
「遠足が楽しみすぎる小学生じゃないんだよ? もう少し落ち着いてくれないと――今日から私の夫になるのに、先が思いやられるんだけど」
「そっちこそ、いい加減すっぴんを見られることに慣れてくれないと、スムーズにおはようとおやすみのキスが出来ないよ?」
「出来なくて結構ですーっ」
と私は自分の部屋へ逃げ帰るも、嫌ですーっ! と彼が私を追いかけてくる。
そう、今日はこのワンルームとお別れすると同時に、彼と新しい住まいで“夫婦”暮らしを始める日でもある。
仕事仲間を通じて知り合った彼は、当時の私を一目見て運命を感じたらしい。公私問わず連絡してくる彼を、私は始め鬱陶しく思っていた。でも、あるプロジェクトを境にその気持ちを吹き飛ばされてしまった。
彼が仕事へ向ける姿勢は情熱的で、その気持ちはたくさんの人を動かして、様々な案件や人材を掴み取っていく。私にとって仕事は積み重ねた実績がものを言うと思っていた為に、彼の仕事の仕方は目を見張るものばかりで。気が付けば私が彼を追っていた。
それからは会話を重ね、時間を重ね、互いに同じ場所に居られる心地良さを感じるくらいになって、今に至る――。
「では、引越し先でまた!」
「はい! よろしくお願いします!」
荷造りを済ませたタイミングでやって来た引越し業者に荷物を運んでもらった。瞬く間に荷運びが終わって業者が居なくなったワンルームは、まるで手垢の付いてない新築のように変わっていた。
起きた時に感じた恋しさに胸がいっぱいでいると、後ろから伸びてきた腕が私の肩を抱く。私を近くへ引き寄せた彼は何を言うでもなく、ただ私の肩をぽんぽん叩いていた。
その音と感触と、カーテンの無くなった窓から注ぐ日の光は、暖かかった。
「じゃあ、行こうか?」
彼の言葉にこくりと頷いて、私達はワンルームに背を向ける。靴を履き、二人で外へ踏み出した時、遠くで走る電車の音が耳をくすぐった。その感触がたまらなくなって音の方へ目を向けると。
「おー、桜が舞ってるねー」
桜吹雪が私達の行先を染めていた。
「僕達の門出を祝ってるみたいじゃない?」
「そう?」
「絶対そう! ほら早く行こう!」
と駆けてゆく彼は、呼び鈴を鳴らした時と変わらない落ち着きの無さをはらんでいる。こんなに彼が無邪気に振る舞っているのは、桜と共に訪れたこの“春”のせいだろうか。
「そんな所で止まってないでさ――一緒に行こ?」
つかつかやって来た彼が私の片腕を掴むと、桜吹雪の中へ引っ張っていった。駆けてゆく彼の笑顔が桜のように満開で、私の口元からも笑みが溢れてくる。この後も手続きとか荷解きとかあるけど、今このひとときだけは、構わないよね? 彼と一緒に、訪れた春を楽しんだってさ。
続きのない物語集① かーや・ぱっせ @passeven7
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