咲き和み、君と降り零れる
藤咲 沙久
僕たちの季節
──降り零れる、という言葉を知った。
僕がそれを見つけたのはゼミ室にあった辞書の中。調べものをしていてふと目に留まったのだ。特に例文はなく、正しい使い方はよくわからない。試しにネットでも引いてみたが、なぜだか用法はどこにも載っていなかった。
「こんな真冬に使う機会もないか……」
独り言が白い吐息と共に空気へ溶ける。覚えたばかりの意味は、確かに寒空に似つかわしくないものだ。闇の深い朝を抜け駅へ着いたところで、僕は考えるのをやめた。
大学へ通う片道二時間。どうして一限の授業なんかをとったのかと、その間に三度は頭を過る。
(……あれ?)
機械的なアナウンスと同時に扉が開くと、珍しく先客がいるようだった。──
咲乃が僕を見た。通学カバンを座席から膝へと移したのは、隣に座れと言っているのか。併せて抱え込んだ、ピンク色のカバーをつけたラケットが懐かしい。まだ引退してないんだな。
「こんな時間に何してんの、咲乃」
当たり前のように呼んでから、ほんの少し気が引けた。ここは皆がノリで呼びあっていた部室ではないし、ましてや混合ダブルスを組んだコートでもないのだ。時間は確実に経った。
するりと名前を口にしておいて焦ってしまうとは、どうにも間が抜けている。明らかに心の準備不足だ。
「
「……おはよう。久しぶり」
礼儀正しいんだか、そうじゃないんだか。相変わらずのざっくりした挨拶に思わず苦笑が漏れる。咲乃からも以前の通り呼び掛けられたことは、僕をたいへん安堵させた。勇気づけられるまま彼女の右側に腰を下ろしつつ、距離感には少し気をつけた。
電車が徐々に速度を上げていく。咲乃が今も通う僕の母校までは、あと三駅あった。何を話そうかと迷うより前に、咲乃が口を開いた。
「実験してた」
「は? あー、ああ。何してるかってことか」
「そう。和馬センパイに会ったから、たぶん成功」
「よくわからん」
わかんないなら、いーよ。そう言って、咲乃は白いマフラーに顎を埋めながら小さく笑ったようだった。
(楽しそうだなってことは、わかるよ)
心の中でだけ呟く。咲乃の言い回しはいつも、僕にとってちょっと難しい。だけどよく見れば僅かに変化を繰り返す表情は意外と豊かで、その横顔を読み解くのが好きだった。たぶんそれは現在だって。
ため息代わりに落とした目線の先、スコートを思わせる丈から伸びた裸の脚が寒そうだ。それに対して何重にも巻かれたマフラーが、何だかアンバランスだった。
毛先の見えない髪は、今でも変わらずボブカットなんだろうか。
「……なあ。降り零れるって言葉、知ってるか?」
自分でも唐突だと思った。しかし、じわりじわりと思考を侵す邪念を払うにはこれしかなかったのだ。得たばかりの知識をひけらかす、子供じみた手段。
幸いと言うべきか、咲乃は微妙に眉を寄せた。考えているときの顔だ。
「フリコボレル。……知んない。それ、入試に出る?」
「それこそ知らん。そういや、そろそろ共通テストか」
「どーいう意味なの、気になる」
旺盛な好奇心が視線となって僕に刺さる。脚やら髪やらを盗み見た罪悪感まで併せてチクチクするみたいだった。
「使う季節は春か秋。見えなくても、遠くから香る匂いで花が咲いたことに気づいて季節を感じること。または、陽射しが降り注いで人を和ませること」
記憶しただけの内容を諳じた。我ながらなんと薄っぺらい。これ以上続けることが出来ずチラと咲乃へ横目をやる。なぜだか、落ち着かなさげにパチパチと瞬きを繰り返していた。
「なんか、あたしとセンパイじゃん。ちょっと、キュンワードじゃん」
「なんだそれ」
「あたしが春田咲乃で、センパイが
「名前? 名前が関係あるのか?」
僕が首を傾げると、咲乃の目蓋は上下運動の速度を緩めた。つまり通常通りに戻ったわけだ。いったいなんだったのか。
「わかんないなら、いーよ。センパイは変わんないなぁ。切れ味バツグンなのはサーブだけだったし」
「もっと他に褒めるとこあったろ」
そーかな、そーだろ、と茶化し合う。だんだんと感覚がよみがえるようだ。もっと話していたい。まだ今日の奇跡に浸っていたい。しかし電車は走る、咲乃が降りる駅へ向かって。
「春になったら、一緒にフリコボレよーよ。センパイ」
先程より少しだけ大きな声で咲乃が言った。彼女を見ると、その頬が淡い桜色に染まったように思えた。なんだか愛らしくて、きゅう、と心臓が狭くなる。
(ああ、咲乃の方こそ変わらない。あの頃と何も)
使い方がわからない、今の季節じゃない。そうやって僕が諦めた言葉を、咲乃はあっさりと紡いでみせるんだ。彼女の前に躊躇いの壁はなく、いつだって静かな自信が吹き抜けている。僕にはそんな風に思えた。それが眩しかった。
「春にまた会える……ってことか?」
どこか期待を孕んだ声音になってしまったか。本音を隠しきれない僕をどう思ったのか、咲乃がまた小さく笑う。
「あたし、センパイと同じ大学に受かるから。次もまたここで会お。んで、またダブルスしよ」
受かるからとは。いっそ不遜なほど強気な発言に、僕は二度目の苦笑を浮かべた。気持ちよく言い切ってくれたものだ。ウチは偏差値だって低くないし、通学距離がネックで僕はテニスサークルに入っていない。それなのに、堂々とした宣言はまるで確定事項だ。叶えにくると感じさせる、強さ。
間もなくの停車を告げる案内が流れ始めた。それを合図に咲乃が衣擦れの音と共にふわり、立ち上がる。同時に僕らへ慣性の法則が働いたが、彼女においては体幹の方が強いようだった。
「一限の出席、ツラいぞ」
もうすぐ奇跡が終わるのに、僕はこんな内容しか返せない。やっぱり、薄っぺらい。きっと僕自身が。
「平気。朝は何時なのか、どの車両か、今日わかったし」
「もしかして実験って、さく……」
咲乃、そう呼ぼうとしてハッとした。
花は見えずとも、その香りで咲いたとわかる季節の知らせ。
穏やかに注がれ、柔らかい温もりで心を和ませる太陽の光。
「じゃーね、和馬センパイ」
ついに電車が止まる。扉が開くと二、三人がパラパラ乗り込んできた。細い背中はその隙間へするりと消えていった。
発車により体を揺すられても、僕はとっくに閉じた扉を眺めていた。ふ、と後頭部に温かさを感じる。何気なく振り返った窓の向こうには昇り始めた太陽。花咲くように広がる光が、車内の暖房より暑く熱く、僕の胸を貫いていった。ドキドキと高鳴る胸を。
「……今からでもサークル、入るか」
咲乃と組むまでに一年のブランクを埋めなければ。唯一褒められたサーブの腕を取り戻さねば。急に湧き上がる活力に、僕の頬まで上気しそうだ。
降り零れる。僕がその言葉を知ったのは辞書だ。目に留まり意味を覚えただけでは何も感じなかった。なのに声に出すと……咲乃から熱を与えられると、僕の中でこんなにも鮮やかな温度を帯びる。それだけで、咲乃を好きで良かったと思えるんだ。
いずれ春がくる。夜明けもずっと早くなる。だけど僕が、僕たちが
咲き和み、君と降り零れる 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
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