隣の芝生は青く見える

透峰 零

隣の芝生は青く見える

 突然だが、迷子を保護したことはあるだろうか。僕はついさっき経験したばかりである。しかも


 ――おじちゃん怖い


 と、泣かれるオプション付きで。

「……さすがに傷付きます」

 炎天下の中、僕はベンチで項垂れた。場所は住宅街にある公園だ。

 隣に座る先輩は「まー仕方ないわな」と気の無い返事を寄越した。蝉の声がうるさい夏日だが、今日もいつもと変わらぬ黒服である。

 まるっきり他人事の口調に、僕は顔を覆って深いため息をついた。


「確かに僕はデカいですけど、こんな気候でメン・イン・ブラックみたいな格好してる人の後ろに隠れられると、色々と傷つくんです。不審度で言えばどっこいどっこいなのに」

「お前、何気に失礼だね」

「先輩にはわからないんですよ。身長がデカいことの弊害が」

「……色々と言いたいことはあるが、例えば?」

「気を抜けば、すぐに鴨居やドアに顔をぶつけます」

 身長百八十を越える人間はわかってくれるだろう。あれは洒落にならない。

 額くらいならまだマシだが、顔面を強打した時など痛さと情けなさで泣きそうになってくる。

「古い田舎の家なんかだと、ヘタしたら天井にぶつかります。どうして生活するだけで頭を削られないといけないんですか」

「あー……。そういや鬼城も似たようなこと言ってたな」

「でしょうね。あと、定食屋なんかにある天井付近についてる扇風機。あれが目にしみます」

 恐らくあいつは、他の人にとっては頭上を通り抜ける涼しい風なのだろう。だが、僕にとっては目をピンポイントで攻撃してくる危険物である。

「目といえば、傘なんかもそうですね。先端がちょうど眼球にきます」

 僕の顔面位置を確認していた先輩が「善処する」と言った。別に皮肉のつもりは無かったのだが。

「人混みでは目立つし、ベッドからは必ず足が出るし。何より――」

 遠くで母親にじゃれつく幼児を眺め、僕はため息をつく。

「大半の子供に怖がられます」

「まぁ、しゃがんで笑顔浮かべても身長が百九十もあればな……」

百九十です」

 訂正した僕に、先輩が軽く肩をすくめた。

「別にわざとじゃないんですけど、顔も怖いって言われるし……。日常生活で良いことなんてほとんどないですよ。あ、術科の訓練とかでは有利でしたけど」

 嘆く僕に先輩は「大変そうだな」とやや哀れみのこもった口調で言った。標準的な身長の彼には、想像できないのだろう。

「先輩はそういうのなさそうですよね。羨ましい」

「まぁ、鴨居に頭を削られることはないが。外見という点なら、不満の一つや二つはあるぞ」

「例えば?」

 手に持ったブラックコーヒーの缶を弄びながら、先輩は顔を顰めた。よほど嫌なことなのだろうか。

「――酒を買ったら、五回に一回は身分証の提示を求められる」

 どう慰めれば良いかわからず、僕はさっきの先輩と同じように「あぁー……」と何とも微妙な相槌を打った。

 実年齢はともかく、彼の外見的な年齢はせいぜい二十前半にしか見えないのだ。それもスーツを着て、である。


「私服だと厳しいかもしれないですね」

「無難なコメントしやがって。こっちは、免許証を見せたら偽造を疑われたことだってあるんだぞ」

「……もしかして、警察官どうぎょうしゃ呼ばれそうになりました?」

 バツが悪そうに先輩が目を逸らした。あるのか……。


「だから、ちゃんと顔を覚えてくれてる店員か、年齢確認をしない店員を選んで買ってる。一番良いのは自販機だな。あいつら、免許証見せたら大人しくなるから」

「ギリギリを攻めてる学生ですか」

「俺にとっては真剣な問題だぞ」

「はぁ、まぁ確かにそうかもしれませんね」

 飲酒の習慣がほとんどない僕にとっては、やはりピンとこない。だが、本人にとっては切実なのだろう。


「あと地味に傷つくのが、映画館とかで聞かれる「学生証はありますか?」だな」

「大学生とか院生だと珍しくないでしょう?」

 ジロリと先輩が睨んできた。

「そりゃ、お前の歳だとダメージも少ないだろうよ」

 彼の実年齢を思い出し、僕は素直に「すみません」と謝った。

「さすがに夜間の張り込みで補導とかは……ないですよね?」

「十八歳未満に間違われたことはねえよ。今のところ」

 最後の補足が不安だ。


「お互い、隣の芝は青く見えるものですね」

「だな」

 言っても仕方のないことだ。僕らは揃って深いため息をついた。先輩はベンチの背もたれに腕を預けて天を仰ぎ、僕は暑さに項垂れる。蝉の声がうるさい。

 その鳴き声に混ざって、小さい子供の声が聞こえた気がして僕は顔を上げた。

 先ほどの迷子の女の子が、母親に手を繋がれたままこちらに向けて大きく手を振っている。


「おじちゃん、お兄ちゃんありがとー!」


 軽く手を振り返すと、母親が深々とお辞儀した。僕らも頭を下げる。

 そうして親子が公園を去って、しばらく。

「……で、先輩。どっちがで、どっちがなんですかね」

「お前、それ俺に言わせるの? ペア解消の危機じゃねえか」

「今聞き込みしてる人面犬の目撃者が現れて、何らかの目処がたつまでは大丈夫ですよ」


 なお、陽炎が立ち上る公園内には子供の姿はない。

 僕らの時代と違い、最近の猛暑は洒落にならないため、賢い子供たちは屋内で遊んでいるのだろう。


「俺ら、そのうち不審者として通報されないかな」

「嫌な予想はやめてください。パトロール中の所轄に職質されるとか、洒落になりません」


 できることなら、今後も体験したくないと僕は心の底から願った。

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