ヒトはインコに非ず

 将希と白川さんに交際を認めた土曜から、一週間が過ぎた。

 あの日から、家の中の空気はびっくりするほど変わった。

 重くじっとりした険悪さはさっぱりと拭われ、家中の照明を全部買い替えたのかというほどの明るさだ。

 お互いあんまりガラリと態度が変わるのも気恥ずかしいから、まあ表向きはそれほど陽気にはしゃいでるわけでもないが。


 久々に一緒にランチを食べる週末。手早く作ったトマトの冷製スパゲティをダイニングテーブルに並べ、グラス二つに少しだけワインを注いだ。冷蔵庫にしばらく放置されていた白ワインだが、ストレスの去った脳にはこんなささやかなものさえも染み渡るように美味しい。


「白川さん、あれから佳奈のこと素敵だ素敵だって、それしか言わないんだよ」

 どこか可笑しそうにそんなことを話す夫の表情の奥には、密やかな幸せが垣間見える。

「肉じゃががうまいんだって話したら、食べてみたいって本気で言ってた」

「え、将希、私の肉じゃが美味しいって思ってたの? 今までそんなこと一度も言ったことなかったじゃん」

「え、まじ? そうだっけ? ごめん」

「まあいいけどさ。

 肉じゃが、よかったら食べにおいでって、いつでも待ってるからって、白川さんに伝えといて」

「うん。彼女めっちゃ喜ぶよ。

 ——なあ、佳奈。

 俺たち、もっといっぱい話そう、これから」

 日差しに光るグラスを軽く回して、夫が素直な声でそう言う。

 こうして心の奥から自然に出てくる言葉を交わすのは、いつぶりだろう。


「話さなきゃ、お互いのことなんにもわからないまま、ますますすれ違ったりするしさ」

「……うん。そうだね。本当に」

 私も、その言葉に深く頷く。

「な、佳奈ねえちゃん!」

「あー。立場は姉さんでいいんだけどその呼び方はほんとやめて!」

「いいじゃん、楽しくて」

 からかい混じりに笑う夫の顔は、何だか少年のように無邪気に可愛くて、最近私は内心ちょいちょい夫にきゅんとしたりしている。


「ご馳走様。うまかった」

 空になった自分の皿を持って立ち上がりながら、夫はふと時計を見上げた。

「これから白川さんに会ってくるから。帰り遅くなるかも」

「んー、そっか。よろしく言ってね。私もオーケストラの練習あるから……

 それからさ」

「ん?」

「私も、オーケストラに好きな子いるの」


 夫は、動きかけた足を止めて私を見た。


「……付き合ってる、っていうこと?」

「うん」

「いつから?」

「将希の浮気がわかったすぐ後。

 練習の後、その子と会うから、私も遅くなるよ」


「——そっか。

 今度、よかったらうちにも連れといでよ。どんな子か知りたいし」

「ん、話してみる」

「佳奈」

「え?」

「あのさ。

 俺らって、もう兄弟だからセックスとかもしないわけ?」


 真面目な目で問いかける夫に、私は少し考えてから答える。

「……別に、今後兄弟で固定したいとかいう意味じゃないし。その時その時で一番しっくりくる関係を選べればいいなと思ってるだけで」

「そっか。

 いや、もう佳奈には一生触れられないのかなあって、思ったから」

「ふうん」

「……ありがとな、佳奈。

 お前って、いい女な」


 そんな言葉は、以前のままだったら一生聞くことはなかっただろう。


 神の前で誓うのは、「変わらぬ愛」じゃなく、「変わっていく愛」にした方がいい。多分。







「『男女』じゃなく、『姉弟』な夫婦ですか——それはまた、随分ぶっ飛んだ決断したんですね。ちょっとアンビリーバボーなレベルというか」


 オーケストラの練習を終えた後の、いつもの居酒屋。

 私の向かい側で、古賀くんがぐいとロックの芋焼酎のグラスを呷ってこれでもかというほど不服そうな顔をした。


「姐さん先週練習来ないから、何かあったのかなとは思いましたけど。

 で、結局あなたは稼ぎのいい大船に乗ったまま、浮気相手さんのくつろげる居場所まで作ってやろうってわけですね」

「だから、そういう下品な言い方やめなさいってば。飲み方荒っぽいよ!」

「荒くもなります。浮気現行犯でしかも恋人つきのオジサンに俺が負けたってことじゃないですか。あーあ、哀れ過ぎる俺!」


 乱暴な仕草で雑に頬杖をつくと、彼は不貞腐れたように横を向いてふーっと荒っぽい溜息を漏らした。

 そんな彼の横顔に、私はぽつぽつと返事の言葉を探す。


「そういう単純なものじゃないよ。……自分が一番大事にしたいものを選ばなきゃいけなかったんだよ。それが夫だったし、夫に恋してる子だった、ってこと。

 彼女に会いに行って二人で話した時ね、私に頭を下げた彼女の短い髪を見てたら、どうしてもその髪に触れたくなったの。

 本当は、長く伸ばして、サラサラって靡かせたいんだろうな、と思った。

 目の前の短い髪を撫でて、両腕で頭を包み込んで、ぎゅうっと胸に抱き寄せてやりたかった。

 死ぬほど迷った。ひとつだけにしなきゃならないことが、こんなにも苦しいことだとは思わなかった。欲しいものを全部選び取れたらどんなにいいだろうって、歯軋りした」


 彼はそんな私の言葉を黙って聞き、からりとグラスを呷って呟いた。

「人間って、強欲ですね」


「強欲だね。欲しいものをひとつだけなんて、人間の性分には合わないよ」


「……少なくとも、俺は旦那さんといい勝負はできてたんですよね?」 

「そうだよ。どちらを選んだらいいのか、ギリギリまで悩んだ。あと一ミリっていうところまで、古賀くんに手を伸ばしかけてた」

「うぐううう……」

 事実を吐露した私の言葉に、彼は耐え切れないように顔を両手で覆って身悶える。


「んー、結婚が全てじゃないんだってば。夫婦ってのはほんと大変なんだって。私を見てりゃわかるでしょ?」

「それはね、既婚者だけが言える贅沢な言葉ですよ」

 いや、ぶっちゃけ真実だから、と言いかけた言葉を寸前で引っ込める。若い彼の未来への希望をこんな言葉で汚染する必要はない。代わりに目の前の梅酒のグラスに手を伸ばし、ひやりと滑らかな甘みを舌に乗せた。


「あ、でもね。今日旦那に言ってきた。オーケストラに好きな子がいるって。その子と会ってくるから、今日は遅くなるって」 


 項垂れていた顔をガバっと上げ、古賀くんは今度は思い切り怪訝な表情で私を見る。

「……あの……?

 姐さん夫婦の新システム、一体どういうことになってんですか……?」

「お互いに新しい恋をしたとしても、認め合うっていうシステム。まあお互い様よね」

「はあ……なるほど……

 ってことは、俺は旦那公認の彼氏、ってこと?」

「うん。あ、そういうの嫌なら、公認彼氏辞退してくれていいんだからね?」

「……」

 彼は呆れたような顔になり、ジトっとした眼差しで私を睨む。

「だから。そういうとこですよ。辞退なんかするわけないでしょう。ったく、俺に執着なさすぎ。あなた、ほんとに俺のこと好きなんですよね?」

「好きだよ、すごく。

 でも、あなたを自分に縛りつけるのは絶対に嫌」


「——俺は、あなたに縛って欲しいんですよ。何が何でも離さないって、ぎゅうぎゅう苦しいくらいに」


「……本当にいいの?」


 真顔で聞いた私に、彼もぐっと真剣な顔になる。


「旦那には、恋人がいるんでしょう? 姐さん、俺、本気ですよ。旦那よりもずっと、あなたに本気です。

 姐さんも、本気で俺を縛ってくれますか? 本気で、俺の方を向いてくれますか」

「あんな『キャラバン』を吹く男には、むしろ私が縛られたいところだけど」


「……」


 いつもクールな彼が、ここにきてとうとうぶわっと真っ赤に赤面した。


「……うあー。やば。やばすぎ。姐さん、それはさすがにやばいですって……」

「え、まだ飲み始まったばっかりじゃない」

 再び顔を覆う彼に、私はクスクス笑いながら手の中の甘い酒を堪能する。


 手の中の、甘い酒。

 ——どうやら、誰も気づいていないようだ。

 夫婦が兄弟になる。それは、「愛はひとつだけ」という不気味な呪文から解放されるために私が仕掛けた、狡猾な策略だったということに。

 目論みは見事に成功した。

 私はこうして何一つ失うことなく、いくつもの愛おしいものにいつでも手を伸ばし、抱き寄せ、頬擦りできる。その悦びの、なんと甘美なこと。


 狡い? 誰に狡いと言われても、別に構わない。幸せに愛し合う方法を貪欲に探すことの、一体どこがいけないのか。

 きっかけは、私を裏切り浮気に踏み出した夫がくれたのだ。




 やっぱり、ヒトはインコじゃない。

 だったら、手探りするべきだ。ヒトにしかできない愛し合い方を。

 どうせなら、とびきり楽しく愛し合えるやり方を。


 神様の価値観からちょっとくらいずれてたって、いいじゃないか。

 繋がり合う私たちがたっぷりと幸せを味わえるならば、それが私たちの正解だ。




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ヒトはインコに非ず aoiaoi @aoiaoi

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