幸せの在処
白川さんと居酒屋で会った週の土曜日。
9月初旬の午後の日差しはまだまだ暑いが、時折吹く風の中に微かに秋の気配が混じり込んでいる。
窓を開けて風をリビングに呼び込み、私は足早に夫の部屋へ向かった。
「何?」
ノックすると、いつもの無表情で夫がドアを開けた。
「あのさ、あと5分で、白川さん来るから。着替えるとかなら急いで」
「……」
私の言葉に、彼は聞き間違いかというような顔をして私を見る。
「白川さんが……何?」
「彼女、3時に来る予定だから。あ、あと4分。そろそろコーヒー淹れなきゃ」
「……は!?
な、なんで彼女が? 今から!? 佳奈、ちゃんと説明しろって! どういうことだよ!?」
「詳しい話は、彼女が来てからするよ。だからとりあえず落ち着いて、リビング来てくれる?」
「……」
状況を無理やり飲み込まされた夫は、無言でジタバタと自室に戻り着替えを始めた。
コーヒーメーカーにセットした豆に水が落ち、ぽこぽこと小さな音が立ち始めた頃、呼び鈴が鳴った。
「はい。今開けるね」
インターホンに答え、玄関を開ける。
白川さんは、硬い表情をしてドアの前に立っていた。
淡いグレーのVネックのサマーニットに、細身のネイビーのジーンズ。シンプルな装いがすらりとしなやかな身体によく似合う。
私についてリビングに入った彼女は、ソファで固まっている将希の背を見た瞬間、更に全身を強張らせた。
「……え……今日は将希さん不在だから、二人だけでもう少し家で話したいってメッセージには……」
「うん。ごめん。嘘ついた。
今日、どうしても二人に話したいことがあって。そうでも言わなきゃ、あなたがここに来れないだろうと思ったから。……将希の隣、座ってくれる?」
「……」
浮気相手の妻の言葉に逆らうことなどできないと思ったのだろう。彼女も夫の横におどおどと座った。
妻の前で二人並んでどんな顔をしたらいいかわからない彼らの気持ちが、痛いほどよくわかる。
コーヒーが全部落ちたようだ。
キッチンに用意したソーサー付きのカップ3つに、湯気の上がるポットからコーヒーを注ぐ。
「アイスコーヒーの方がよかったかな」
リビングのローテーブルに運んだカップを見て、夫がハッとしたように立ち上がった。
「あ、白川さんはコーヒー苦手だったんだよな。ちょっと待ってて、紅茶入れ直すから。ティーバッグがどこかに……」
「いっ、いえ、大丈夫ですからこのままで!」
会話がごちゃごちゃに混じり合い、その拍子に慌てた顔を思わず見合わせてしまった二人は一気に赤面して同時に俯く。
何を聞かなくても、伝わってくる。
純粋に想い合っている二人の感情が。
明確な意思表示を何一つしようとない夫には、実際のところ業が煮える。
けれど——裏返せば、答えを出せずに立ち往生している彼の姿そのものが、夫の答えなのかもしれない。
ならば。
「そっか、ごめん。紅茶は後で入れ直すね。
とりあえず、今日の話していい?」
「……」
私の宣言に、二人はぐっと顔を緊張させて私を見た。
「あのさ、別れなくていいから」
「…………え?」
「だから。
二人、別れなくてもいいよ。
そのまま、今までの付き合い続けて」
「……佳奈、ごめん。
意味が全くわからないんだけど……」
呆気にとられた顔のまま、夫が私を見つめて呟く。
「いいじゃない。
将希も、白川さんも、一緒にいてそんなに幸せなら。
私のことはとりあえず将希の姉、くらいに思ってくれれば。歳的には妹だけど、性格的に妹になれる気がしないから」
「だ、だって、奥様は……」
「佳奈でいいって」
「か、佳奈さんは……嫌じゃないんですか。普通、嫌でしょう? 旦那さんが他人とこういう風に関わりを持ってるなんて」
微かに声を震わせる白川さんに、私は変な苦笑いをしつつ答える。
「んー。なんだろうね、どうにもおかしな話なんだけど……あなたたちの関係をこうやって見てても、自分の中に嫉妬心が沸かないのよ。不思議なことに」
自分自身の気持ちをうまく纏めたくて、コーヒーを一口口に運ぶ。
突拍子もないことを言おうとしている自分には気づいているのだが、もはや止めようがない。
「——こういうことになって、改めて考えたんだよね。
夫婦って、ずっと『男と女』でいられるわけじゃないんじゃないかな、って。
どんなことも、必ず、少しずつ変わっていくでしょ? 時間が経てば、夫婦の感情の形も当然変わっていく。なのに、夫婦間の愛だけは結婚式の日のまま生涯不変で、別の人との恋なんかは当然タブーなんだって、なぜか私たちは神様に固く誓ってしまう。
だから、夫婦はいつの間にかぎゅうぎゅうに縛られちゃう。『浮気は許さない!』とか『あの時誓ったのに!』って。
でも、本当にそれだけが夫婦のベストな形?
変わっちゃいけないんだと固く縛られるから、夫婦は余計不幸になったりしてない? どうしようもなく生まれてしまった恋を必死に隠したり、それがバレて修羅場になったり、憎み合いながら離婚したり。
いっそ、結婚式の日の『男女の愛』は永久には続かないんだって、認めてみない?
男と女として関係を維持できないなら、違う愛があるよ。友人でも、兄弟でも、同志でも。そういう関係だって、愛でしょ? 男女の愛じゃなくたっていいじゃない。もう家族なんだから。
——私たち夫婦は、とりあえず『兄弟』になってみたらどうかなって」
「……兄弟……?」
「そう」
冗談なのかというような動揺の表情を浮かべる夫に、私は真顔で頷く。
「例えば、私が姉で、将希が弟みたいな。そういう関係。
そう思ってみたら、何だかすごく楽になったの。男と女の険悪な何かを手放して、もっと穏やかな気持ちでいてもいいのかもしれないって。
そういう関係になれれば、もしお互いに新しい恋が生まれても、それを無理やり引きちぎる必要なんかなくなる。お互い縛り合うよりも、きっとずっと幸せな関係になれる。
——ね、これ、いい考えじゃない?」
私の話に、二人は度肝を抜かれた顔をする。
まあ、そうなるだろう。
「将希、どう思う? この考え」
「……」
しばらく俯いて必死に思考を巡らせた夫は、
「……本当のこと言っていいのか」
「うん」
「賛成」
あの煮え切らない夫が、きっぱり答えた。
思わず小さく笑いが漏れそうになる。
「よし、じゃ決まり。
白川さん、これからもよろしくね。あ、あなたにもっといい人ができた時は、既婚の男なんてさっさと捨ててやっていいんだから。
時々、ここにもご飯とか食べにおいで。嫌じゃなければ」
「……佳奈さん。
どうして、そうまでして……」
今にも泣き出しそうな白川さんの顔に、私はその分大きくニッと笑い返した。
「だって。
私にはもう、将希も白川さんも大事な人になっちゃったからさ。
あなたがそのまんまで寝転べる居場所になれたら、きっと私も幸せかなあって。それだけだよ」
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