既婚の男

『仕事、上がりました』


 夕方6時少し過ぎ。

 スマホの奥で、張り詰めた低い声が静かに響く。


「わかりました。

 20分くらいで着くと思うので、地下鉄◯◯線△駅の出口近くで待っていてもらえますか?」

『はい』


 白川さんから連絡が来るまで、落ち着かない思いで家の仕事を片付けた。

 遅くなる可能性を考え、「出かけてきます」とメモをテーブルに残し、家を出た。



 土曜日の居酒屋で、三谷さんの詩織先輩への強烈な想いと苦悩を目の当たりにしてから、ずっと考えていた。

 白川さんの将希への想いも、三谷さんと同じ切実なものなのではないかと。


 異性との一般的な恋を育めない特殊な事情を抱えた白川さんもまた、深く恋い慕う人と相思相愛になる幸せは得難いはずだ。

 ずっと、そばにいたい。

 白川さんが夫に「忘れてください」と頼んだあの言葉は、紛れもなく彼女の本心だったはずだ。不倫は罪だと知りながらも、抑えきれずに零れ出た言葉。


 白川さんの立場になってみれば、こういう分岐点でずるずると離婚の決断を妻任せにする夫の煮え切らない態度に不信を感じずにいられない。彼女に対して本気ならば、すぐにでも離婚して寄り添ってやりたいという意思表示をしてもいいはずなのに。


 白川さんは、夫とどんな関係を築いていたのか。

 彼女は今、何を望んでるのだろう。

 私は、白川さんと話がしたいと思った。



 私たちは駅前で落ち合い、結局手近な居酒屋の個室に入った。

 こういう場所が、一番いろいろな話ができる気がした。


「宮本将希の妻の、佳奈です」

「——白川 譲です」

「あなたと夫との経緯は、もう彼から聞いています。

 今日は、あなたを怒鳴るために呼び出したんじゃないの。だから、安心して」


 二つ届いたビールのジョッキに口をつけるなり、私は本題を切り出した。


「私、将希と離婚しようと思ってるの」


 白川さんは、伏せていた顔をゆっくりと上げ、私を見つめた。


「——そうすることで、あなたが幸せになれたらいいなって、思ってる」


 彼女の眼差しが、微かに波立った。

 その涼やかな二重の瞳は、さわさわと音を立てるように美しい。


「……それは、やめてください」

 やっと開いた唇からは、予想よりも遥かに明確な口調の言葉が返ってきた。


「どうして?」


「お二人が離婚しても、多分俺の幸せとは結びつきません。

 将希さんには、俺と一対一で向き合いたいとか、ここからを二人で歩きたいとか、そういう気持ちはないからです」


「……」


「相手の様子を見ていれば、わかるものでしょう?

 将希さんの向けてくれる気持ちは、本当に温かくて、真摯なものだと感じています。けれど……

 彼の優しさは、人生を一緒に歩こう、みたいな決意とは違います。全く。

 実は奥様を大切に思ってるんだ、っていうことも、何となく伝わってきちゃうし。

 子どもができないことが原因で、関係が冷え込んでしまったことが悲しいと、彼は時々寂しそうに笑ったりします。子供が全てじゃないのに、妻の様子がだんだんと変わってしまった気がする、と」


「——……」


 内心、その事実に大きく動揺する。

 それを言いたかったのは、私……じゃなかったのか?

 私と将希は、お互い勝手に、相手の気持ちが離れたと思い込んだ……そういうことか?


 ってか、男って浮気相手にそんな話までするのか。


 白川さんは、若者らしい長い指でジョッキを握ると、一口軽く呷って話し始めた。


「初めて女装サロンで将希さんに出会った時、俺、泣くほど嬉しかったんです。

 今まで親にも理解してもらえなかった辛さを、丸ごと将希さんに受け止めてもらえた気がして。

 綺麗でいたい、と思う欲求を抑えきれなくて、月に一度だけサロンでこっそりやっていた女装も、奇異な目で見ることなく似合うと言ってくれました。

 彼が差し伸べてくれた温もりに、俺は思わず縋りました。

 身も心も震えるような甘い感情に取り込まれてしまうと、これは罪だなんていうブレーキなど、どこかに吹っ飛んでしまうものなんですね。

 将希さんは、いつも俺を気にかけてくれて、俺の喜ぶことを一生懸命見つけてくれて。その度に、溶けるほど嬉しかった。

 彼の前でだけは、俺はそのまんまでいられました。身体は男でも、彼といる時は女である自分を隠さなくていいんだと、素直に思えました。めちゃくちゃに幸せだった」 


 柔らかい色だった眼差しが、そこですっと翳った。

 小さくひとつ息をつき、彼女は穏やかな声のまま言葉を繋いだ。


「でも、彼は一度たりとも、強い決意みたいなものを感じさせてくれたことはないんです。残念ながら。

 むしろ、そんな決定的な空気になるのは避けているんじゃないかと……少しずつ、そう感じるようになりました。

 本当に、優しいんですね。だからこそ、決断なんてできない。

 既婚の男って、なんて甘く魅力的なんだろう。それでいて、一番大切なところは決して掴ませてくれないんだと、気がつきました」


「それを、『ずるい』っていうんだよ」


 苦虫を噛み潰したかのように漏れ出た私の言葉に、白川さんは顔を上げ、私を見つめてふっと淡く微笑んだ。


「だから。

 将希さんとは、もう二度と会いません。約束します。

 奥さまをこんなふうに苦しめてしまったこと、どうか許してください」


 彼女は、静かに深く頭を下げた。


 短く整えられた、栗色の髪。

 手を伸ばして触れたなら、それはとても柔らかくて、温かいのだろう。


 胸の奥から不意に込み上げるよくわからないものを押さえ込み、私はジョッキを一度呷ってから問いかけた。


「——ひとつ、聞いていい?

 白川さんには、がんばらなくていい場所って、ある?

 あなたがさっき言ったような——素のままで、幸せだって感じられる、そんな場所」


 私の問いかけに、彼女は黙って顔を伏せたまま動かなかった。



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