本心

「私、天にも昇る幸せを味わったんです!! 本当の恋って、こんなにも強烈なんですね。今日もさっきまでデートだったんですけど、どうしてもこの喜びをお話したくって!」

 届いたビールのジョッキを勢いよく呷り、三谷さんは輝く笑みを浮かべた。

「三谷さん、あんまピッチ速いとまずいよ、お酒強くないんだし」

 古賀くんの忠告など聞こえないかのように、彼女は言葉を続ける。

「私と詩織しおり先輩って、付き合い出してまだ1週間じゃないですか?

 なのに、この前の日曜の夜に先輩に送ったメッセージが、丸2日経っても既読つかなかったんです。

『就活頑張ってくださいね』って、送った内容はまあそれだけだったんですけどね。

 たった一言だとしても、何か嬉しい返事が絶対来るって、普通思うでしょ? 『ありがとう、頑張るね』とか、『内定出たらどこ行こうか?』とか。だって付き合い始めたばっかりで、こんなに気持ちが盛り上がってるんだし。

 あんまりいつまで経っても読まれないから、私、ものすごく不安になってきちゃったんです。

 詩織さん、めっちゃ綺麗だし、頭も良くてかっこよくて。男子の間でもいつも噂だったの、私知ってるんです。そんな人が、本当に私のそばにいてくれるなんて本気で思ってるのが間違いなんじゃないかって」

 テーブルのジョッキを握りしめた自分の指先を見つめ、三谷さんはぎゅっと唇を噛んだ。

「返事待ってるうちに、私のメッセージなんてどうでもいいものみたいに放っとかれてる気がしてきて。もしかしたら今頃イケメンなスーツの男と歩いてるんじゃないかとか、そんな妄想まで始まっちゃって。反応のない画面を見るたびに、涙ばかりが出てきて。

 丸々二日経った火曜の夜に、やっと返事が来ました。『ごめん。志望順位の高い会社の面接が立て続けにあってメッセージ開けなかった』って。『あなたの言葉見ちゃったら、集中力が絶対途切れちゃうと思った』って。

 今度は、嬉しくて。嬉し涙が止まらなくなりました。一晩中泣きました。

 私には、やっぱり彼女しかいないんだって、思いました」


 抑え難い勢いでそう話す三谷さんの目は、どこか熱に浮かされたような光を帯びていて、私は微かに不安を覚えた。 

 でも、若い恋って、こういうものか。口から出かかった水をさすようなコメントを引っ込め、自分の現状と引き比べた。

「いいねえ、焦がれるほどの想い。羨ましい」

 愚痴を零すような声がついつい出る。

「え、姐さん、何かあったんですか? なんか声も顔もめっちゃ沈んでますよ?」

「んー。いろいろあってね。まあぶっちゃけ旦那の浮気なんだけどさ。もうため息しか出ないっていうか」


 黙ってハイボールのグラスをを口に運ぶ古賀くんの横で、三谷さんはこれまでの笑顔を一気に暗く曇らせた。

「……それ、マジですか」

「そうそう。笑えるよね。いっそ離婚したろかい、とかね」


「——……」

 しばらく黙ってぐいぐいとジョッキを傾けた三谷さんは、ふうっと大きな息を吐いて私を見据えた。

「……いいじゃないですか。うまくいかないならさっさと離婚すれば」

「ちょ、三谷さん」

 古賀くんが微かに困惑した顔で制止しようとするが、彼女は止まらない。

「姐さんみたいな綺麗な人なら、次の相手ぐらいすぐ見つかりますよ。なんせ世の中の半分は男で、姐さんにとってはそのほぼ全員と恋愛が成立するんですし。

 ——でも、私は、そうじゃない。

 こんなに好きになった相手が他の誰でもなく私を選んでくれるなんて、こんなこと、奇跡でしかないんです。

 私には、詩織さんしかいない。私は彼女を絶対に離さない」


 次第に独り言のような呟きになる三谷さんの言葉に、古賀くんもどこか不安げな表情を見せたが、それを誤魔化すように彼女の肩を明るく叩いた。

「まあとにかくよかったじゃない三谷さん! 話聞いてると、その先輩もいい加減な気持ちで君に向き合ってるわけじゃないって、ちゃんと伝わってくるしさ。先輩のこと、これからはもっと信じてもいいんじゃない?」

「……本当に、そう思います?」

「俺が言うんだから間違いないよ」

「古賀さん調子いいからなー」

 そんな返事を返しながら、三谷さんは心から嬉しそうに微笑んだ。




 別方向へ向かう駅の前で三谷さんと別れ、古賀くんと並んで歩く。

「……三谷さん、苦しそうだったね」

 思わず漏れた私の言葉に、彼はしばらく何か考えるようにしてから小さく答えた。

「——でも、あれは包み隠さない彼女の本心なんでしょうね」


 何か堪らなく苦い思いが、喉にこみ上げる。


 トランペットのケースを一度軽くゆすり、彼は私を見た。

「——これから、どうします?」

「……今日は、帰るね」

「そうですか。じゃ、また来週」

 彼はさらりといつもの笑みを浮かべると、改札を抜ける私をずっと見送ってくれた。



 帰宅すると、夫は浴室から出たばかりの濡れた髪をタオルで拭いながら冷蔵庫のペットボトルを取り出していた。


「ただいま」

「おかえり」

 小さく言葉を交わし、彼はグラスに注いだお茶を飲み干す。

 キッチンから出て行こうとすれ違った彼を、呼び止めた。


「——ねえ。

 白川さんが、あなたに『忘れてください』って言ってた言葉……何だったの?」


「え?」

「LINEで、『お酒の勢いでうっかり言ってしまったことだから忘れてください』って。彼女、そう言ってたよね。

 その時、彼女があなたになんて言ったのか、知りたいの」


 夫が、肩越しに鈍く振り返る。


「……それ、知らなきゃならないことなのか」

「うん。どうしても」


 こちらへ向いていた視線が、ゆっくり逸らされる。

 同時に、小さな答えが耳に届いた。


「——『ずっと、そばにいたい』と」


「そっか」


 そのまま、私たちはそれぞれの沈黙へと戻っていった。







 その週の明けた月曜の午後。

 私は、ちょうど一週間前に訪れたその場所に再びいた。

 あの小さな商店街の中にあるスーパーだ。


 店内に入り、行き来する店員達を何となく眺める。

 先週と同じくらいの時間に、あの時と同じ売り場へ向かった。

 やはり、作業はルーティンになっているようだ。しばらく棚を眺めていると、先週同様に箱を積んだカートを押した白川さんが、私のすぐ側で品出しの作業を始めた。

 しなやかな腕と、白く長い指の動きが美しい。

 前回と違い、今日は静かにすうっと大きく息を吸い込んで、その背を呼び止めた。

「あの」

「はい?」

 変わらぬ柔らかい微笑が、こちらを向いた。


「——先週は、バジルの売り場に案内してくださって、ありがとうございました」

 私は浅く笑みを浮かべ、頭を下げる。

「え?……ああ、あの時の! いいえ、とんでもないです」

 ぱっと明るくそう答える彼女に歩み寄り、小さく囁いた。

「宮本将希の妻です。

 今日、お仕事上がったら、ご連絡をください」

 そう言いながら、小さく畳んだメモ用紙を彼女の手元に差し出した。


「——……」


 差し出されたメモを受け取ったまま、彼女は全身を強張らせてその場に立ち竦む。

 周囲の客に怪しまれていないことを確認し、私は彼女に小さく会釈をして店を出た。



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