揺れ動く

「白川さん」の勤めるスーパーから戻った私は、リビングのソファにバッグと自分自身をどさりと投げた。


 どうしたらいいのか、わからない。

 身動きが取れない。


 夫の将希が浮気していたこと。それのみならず、夫が想いを向けている相手の複雑な事情や顔、声、醸し出す空気まで、知ってしまったこと。

 浮気と不倫ってどう違うんだろう。そんなどうでもいい疑問が頭の中を無意味に通り過ぎたりする。


 はあっと頭を抱えて、ローテーブルにガタリと肘をついた。


「離婚よ!!」という言葉を即座に一方的に叩きつけられるなら、どんなにいいか。

 けれど、そんな勇気は私にはない。

 私には、果たして自分自身の「船」をここから一人で漕いでいく力があるだろうか?

 私は、特筆できるようなスキルなど何もない専業主婦だ。この先再び独り身になるとしたら、どう生きる?


 妻以外の存在に深い想いを寄せながら、何食わぬ顔でその事実を隠し通そうとしていた夫の図々しさは、思い返す度に怒りが爆発しそうになる。

 けれど、夫が私を乗せた大きな船であることも事実だ。

 静かな船の上から、ボートも浮き輪もないまま大波の荒れ狂う海に今すぐ飛び込め、と言われて、そう簡単に実行できるだろうか?


 いや。これは私だけの問題じゃない。

 夫は、今回のことをどう思っているのか。

 私が離婚を切り出す勇気がなくても、彼の方は今すぐにでも私と離婚したいと考えているかもしれない。

 ——「白川さん」と、新しい人生をスタートさせるために。


 ああ、その時は、その時だ。

 夫が既にそういう意思を持っているならば、むしろ踏ん切りがつく。離婚したいと望む相手に食い下がる気などこれっぽっちもない。そうなれば、とにかく自力で何とかするだけだ。


 夫が「白川さん」とやりとりしたLINEの画面は、写真に撮って保存してある。ああいうものが、「夫が不貞行為を働いた」証拠になるのだろうか。

 重怠い手でスマホを手にし、「離婚 慰謝料」と検索してみる。

 不倫等に関する何らかの証拠を提示して夫に慰謝料を請求した場合、その金額は50〜300万円程度……そんな記事が目に入る。

 仮にそのお金で、自分自身の新たな生活を築く準備をするとして。


 ——果てしなく虚しい。果てしなく疲れる。

 スマホをテーブルに放り、背を乱暴にソファに預けて天井を仰いだ。

「あははははっ!! なんだこれ!!?」

 出てくるのは、乾いた嗤いだけだった。




 その夜。

 私は、いつも通り夕食を二人分用意した。ビールのグラスも、いつものように二つ出す。

 そのままダイニングテーブルに座り、夫の帰宅を待った。


 夫は、夜9時少し過ぎに帰宅した。

「おかえり」

 夕食を食べずに自分の帰りを待っていた妻を見て、彼はギョッと驚いた顔をした。

「……ただいま。

 どうしたの」

「話があるの」


 鞄を置き、洗面所で手を洗ってきた夫は、黙って向かい側の椅子を引いた。

 私も、黙ったまま二つのグラスにビールを注ぐ。


「——話って?」

「今日、白川さん、見てきた。

 ねえ、彼女、下の名前なんて言うの?」

「……譲」

「へえ、ゆずるちゃんかー。実はね、ゆずるちゃんにちょっと声かけて、話もしてきちゃった」

 夫の表情がぐっと強張り、不安げに青ざめる。

 そうやって敏感に表情を変えることなんて、もう随分なかったのに。そのリアクションの瑞々しさがなんだか笑える。

「変な話はしてないわよ。当然、自分が何者かも名乗らないし。ただのお客っぽく商品の場所聞いただけ。

 そしたら、丁寧に教えてくれて。ふわっと笑顔が柔らかくて、感じ良くて。可愛い人だね」

「話があるって、その話か? 嫌がらせか何かのつもりか」

 浮気相手の話題を続けられる苦痛に耐えられないのか、夫が声に刺を含ませてそう返す。

「私たち、離婚する?」


 何の間も置かずに切り出した私の目を、彼はじっと見据えた。


「——佳奈は、もう俺とは一緒に暮らせない?」


 そう問い返された。

 予想していなかった色合いを帯びるその問いかけに、私の喉は一瞬詰まった。


「……」

「佳奈が、もう俺に愛想尽かしたっていうなら、俺も佳奈の気持ちに同意する以外にない」


 夫のそんな答えを少しの間脳で反芻してから、私はどういう感情の現れか自分でもよくわからないため息を一つふうっと吐いた。


「——私も、自分の答えがちゃんと定まらないから、あなたの意思を確認したいと思ったんだけどね」


「…………

 とりあえず、食べないか。疲れたし」

「そうだね」


 即座にグラスに手を伸ばし、一気に飲み干すところだけ、私たちは見事にシンクロした。







 その週の土曜日。

 公民館の練習室で、私たちは指揮者のタクトに導かれ、濃密に凝縮された音の世界の中にいた。


 今練習している曲は、デューク・エリントンの『キャラバン』だ。オリジナルはジャズで難易度の高い曲だが、南国の夜を思わせるどこか妖艶な熱を帯びた旋律に否応なく感情が昂る。

 この編曲版にはトランペットのソロパートがあり、メンバー内で最も音に華のある古賀くんがその部分を担当する。

 普段はどことなく冷めたような空気でいる彼が奏でるソロは、まるで別人のように甘く噎せ返る熱風を巻き起こす。

 フルートを膝に握りしめてその音に揺さぶられながら、私はあの夜を思い出さずにはいられない。

 時を経るに連れ、彼が私にもたらした熱が、私の奥深くへ入り込む。

 荒々しく繊細な指と唇。

 受け止め切れないほどに押し寄せる逞しい熱量。

 今耳元に暴れている砂嵐のように強烈に甘い、あの時間。


「姐さん」

 そう呼ばれ、はっと我に返った。

 ビールのジョッキ越しに、古賀くんが頬杖をついてニヤついている。

「な、何」

「めっちゃエロい顔してましたよ今」

 失敗した。うっかり脳内が漏れ出した。

「いや、古賀くんの音がエロすぎるせいだから。さっきの練習の時の」

「それはそうですね。俺もこれまでとは違う音出ますよね」

 そう言って私を見つめ、彼はさっきとは違う色の笑みを浮かべる。

 若い。到底勝てない。返す言葉を選べないまま、ジョッキに手を伸ばす。

 今日の練習には三谷さんは不参加だったが、その後飲みに行くならいつもの店で合流したい、と彼女からメッセージをもらっていた。

「三谷さん、そろそろ来るかな」

「……で、どうなったんですか」

「え」

「旦那さんとのその後ですよ」


「…………

 旦那の浮気相手さ、めちゃくちゃ可愛い女の子だった。——あ、身体は男の子なんだけどね」


「……っ!?」

 ビールを呷っていた古賀くんが思わず噎せた。

「あの、意味わかんないんですけど?」

 口元を手の甲で拭い、彼は私が夫に向けたのと全く同じ言葉で眉根を寄せる。


 私は、今週あったことを全部彼に話した。こういう関係になった男に対し、もう特に隠すようなことは何もない気がした。


「——そうでしたか。

 で、離婚の話は、そこで保留ですか」

「……何となくね」

「そんな心配しなくても、あなたが次に乗る船、あるじゃないですか。ここに」


 その言葉に、私は顔を上げて古賀くんを見つめた。


「——……」


「旦那さんとその話をしてる時、俺のこと、思い浮かべてくれなかったんですか?」


「きゃー、ごめんなさい遅くなりました〜!!」

 その時、背後から三谷さんの可愛らしい笑顔がぴょこっと私達を覗き込んだ。



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