告白
「……意味がわからないんだけど」
気づけば、唇からそう漏れていた。
浮気の相手が、小娘でも年増でもなく、「男」?
妻を放り出して夢中になってる相手が、よりによって「男」?
「俺にも、わからない」
将希は、力ない背を見せたままそう答える。
……は?
私の中で、何かがぷつりと切れた。
必死に保とうとする理性も、制御が効かなくなる瞬間というのがある。
「わからないって——どういうことよ?
なんで、妻を放り出して走る相手が男なわけ?
あなたって、女より男が好きな種類の人だったの?
私みたいなババアよりも若い男の方が興奮するって?
じゃ、なんで私と結婚したのよ!? もしかして、ただ子供が欲しかっただけとか? 私とのセックスなんて頭から興味なかったってこと!? どれだけ私をバカにすれば気が済むの!!?」
「ちょっと待って、佳奈」
食器棚から振り向き、夫は私へ歩み寄ろうとする。
思わず大きく飛び退いた。
「待てって、何をよ!?」
「だから、俺にもわからないんだ。本当に。こんなこと起こるはずないと思ってたのに……でも、自分の感情がどうしてもうまく整理できなくて」
「——……」
だらりと垂れ下がっていた彼の手が、意を決したように拳を握った。
「——白川さんと最初に会ったのは、新宿にある女装サロンだ。
女装したいという欲求のある人は誰でも、その店で好きな自分に『変身』できる。メイク道具や衣装、ウィッグなんかが揃っていて、メイクのアドバイザーもいたりする。女装しない客も入店できて、さまざまな好みや性指向を持った人が交流できる場所だ。
面白い店があるから行ってみないかって、半年くらい前に同僚に誘われて。その時はちょっとした好奇心でついて行っただけだった。
白川さんは、その日、女装を楽しむ客としてひとりで来ていた。メイクの上手さも衣装や立ち居振る舞いも、違和感を感じさせない美しさで目を引く人だった。
たまたま隣の席に座った俺たちと彼女は、非日常な空気も手伝ってあっという間に意気投合した。
白川さんは、トランスジェンダーだ。身体は男性でも、内面は完全に女性だ。中身が女性な人を、『彼』って呼ぶのはおかしいだろ?
そんな、現実から切り離されたような場所での出会いが、俺の中の何かを恐ろしいほどに揺り動かした。
彼女は、サロンに女装に来るのは月に一度ほどで、普段はスーパーで働いてると話した。大学時代にバイトをしていた店で、去年の春卒業した後もそのままフルタイムで。自分の身体と心のずれに向き合えず、就活はどうしてもできなかったそうだ。
地方出身で、抱える辛さを親にも相談できないらしい。
彼女の話から、別の日に、外回りついでにそのスーパーへ立ち寄ってみた。
店のユニフォームに黒いエプロン、ジーンズ姿の彼女は、身長も高いしフットワークも良くて、どこにでもいるごく平凡な青年だった。
女装サロンで、俯きながら自分自身のことをどこか苦しげに話す『白川さん』が、あの青年の中にいると思ったら——居ても立ってもいられなかった。
ブレーキをかける間もなく、声をかけてた。『宮本です、覚えてます?』って」
夫のスマホに残っていた二人のやりとりの言葉が、不意に脳に戻ってくる。
「白川さん」の言葉遣いは、とても綺麗で静かだった。そして、どこか寂しかった。
彼女のアイコンに使われていた夕暮れの、空の色も。
女装サロンでの出会いから今の関係に至るまでには、そう時間はかからなったのだろう。夫がそういう「女性」に強烈に惹かれたならば。
「——彼女とは、体の関係は?」
オブラートで包むでもなく、夫にそう問う。
彼の肩が、一瞬強く硬直した。
耐え難いように顔を上げ、歪んだ眼差しで私を見る。
「言えないの?
ここまで来て、どういう悪あがき?」
いろいろな感情がめちゃくちゃになりすぎて、思わずおかしな笑いが出る。
「——……バニラセックスを、一度だけだ」
奥歯で激しく何かを噛み殺すようにしながら、夫が呟く。
「バニラセックスって」
「——ゲイ同士のセックススタイルの一つで、挿入はしない。キスや愛撫、前戯だけのセックスだ」
こういう説明を妻にしなければならない夫の気持ちって、どんなだろう。
まるで酸欠かのように苦しげに喘ぐ彼の表情を見つめながら思う。
「そう。わかった。
——白川さんの勤めるスーパーの場所を教えて」
「佳奈、頼むからそれは——」
彼の狼狽ぶりに、私はくすくすと笑う。
「どんな人か、見てくるだけよ。胸ぐら掴んだり泣き喚いたりしないから安心して」
「——……」
苦痛を押し殺すような彼の暗い眼差しを、私は強く見つめ返した。
*
その週末の明けた月曜日、うだるように暑い午後。
私は、夫から聞き出したスーパーへ向かっていた。
地下鉄を一度乗り継ぎ、改札を出て階段を上る。
8月下旬のギラつく日差しがいきなり顔を直撃し、私は思い出したように日傘を開いた。
ガツガツと目的の店へ向けて足を進める。
商店街の中にある、ごく平凡なスーパー。自動ドアが開き、店内の冷気にひやりと包まれた。
夫の言っていた通り、店のスタッフは皆エプロンにプラスチックの名札をつけている。
「白川」の文字をそれとなく探しながら店内を歩く。
品物を探す振りで棚の前に立ち止まった私の横で、大きな段ボール箱を積んだカートを押したスタッフが立ち止まった。
背の高い、若い男性店員だ。
彼は箱から商品を取り出しては、手際良く棚へ並べていく。
視線を怪しまれないようにしながら、その横顔を見つめる。
どこか華奢な鼻筋と、涼しげな目元。
——この人が、「白川さん」じゃないか?
彼の名札を確認するまでの時間がもどかしく、咄嗟の思いつきで声をかけた。欲しい品物の置き場をさりげなく尋ねるふりをすればいい。
「あの、すみません」
「はい?」
こちらを向いた店員が、微笑んだ。
ふわりとした柔らかな微笑に思わずたじろぎつつ、名札を確認する。
「白川」という二文字が、目に飛び込んだ。
「——何か、お探しですか?」
彼——いや、彼女の問いかけに、はっと引き戻される。
「あ、あの……バジルって、どこにありますか」
ちょうど切れていたバジルを思い浮かべ、そのまま問いかけた。
「バジルですね。乾燥バジルですよね?」
心地良い低音の声が答える。
「え、ええ」
「こちらです」
「白川さん」は、軽い足取りで私の前に立ち通路を歩いていく。
彼女の後ろを歩きながら、エプロンのリボン結びの揺れる引き締まった腰をじっと見つめた。
——この腰で、夫と。
バニラセックス。
どうしようもない妄想に、奇妙な笑いが出そうになる。
「こちらです」
彼女が振り返り、棚を示して微笑む。
「——あ、ありがとうございます」
「香辛料の売り場、ちょっとわかりにくいですよね」
少し困ったようにふわりと浮遊感のある笑みを向けられ、私は再び喉に声の詰まる感覚を覚えながらぎこちなく返事をした。
「あ……ええ、そうですね。
ありがとうございました」
「いいえ」
彼女は丁寧に一礼すると、綺麗に伸びた背でその場を立ち去った。
説明のし難い動悸が、バクバクと私の胸でしつこく響き続けた。
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