問い質す

 ホテルのシャワールームで、私は顔や髪が湯で濡れないよう気をつけながら、肩に熱い湯を当てた。

 メイクや髪が不自然に乱れていては、夫に怪しまれる。第一、そんなにゆっくりとここで全身を洗う気分になどなれるはずがない。

 この部屋で古賀くんと過ごした時間を振り返る余裕など一切ないまま、私は雑に身体の汗を洗い流した。


 古賀くんは、以前から私に対し何か特別な感情を抱いていたのだろうか?

 私は、古賀くんに対し特別な思いを抱いている?

 居酒屋で古賀くんの眼差しを受け止めながら、一瞬そんな思いが頭を掠めた。

 でも、ここでそういう特別な感情云々を彼と自分自身に問いただすのも、どこかアホらしい気もした。

 そんなことを確認しても、何もならない。私は既婚者なのだ。

 夫からあのメッセージを受け取らなければ生まれることのなかった乱暴な感情が、抑えようもなくミシミシと頭を擡げた。


 目の前の男と自分の気持ちが、もし今、同じ方を向けるならば——躊躇いなど捨ててその流れに乗ってしまえばいい。


 私は、古賀くんのトランペットが好きだ。

 凛々しさと甘さ、真摯で濃厚な情熱の混じり合った彼の音。それを聴くたびに、私は心を溶かされるような感覚に陥る。

 難しいパートを繰り返し熱心に練習する彼の研ぎ澄まされた表情を、家でも時々ふっと思い出していた自分に気づく。

 ——音は、その人そのものだ。

 お互いの気持ちを確かめたりせずとも、それだけで、もう充分じゃないか?


 大雑把に身体を拭き、脱いだ服を着直して、シャワールームを出る。鏡の前で、崩れた化粧を手早く直す。

 先にざっとシャワーを浴び、先ほどの居酒屋と同じ空気に戻った古賀くんが、ソファで振り返った。

「姐さん」

「何?」

「俺、やっぱ姐さん好きです。マジで」


 唐突かつド直球の告白に、私は目を白黒させた。

「……そういうのはいいから……」

「姐さんは、俺のこと好きですか」

「——……」

「なんてガキみたいなことは聞きません」

 そう言って小さく笑う彼を、横目で睨む。

「おばさんをからかうもんじゃないよ」


 そんな私の言葉に、彼はすっと真面目な表情になって呟いた。

「姐さん。一つ、約束してください。

 自分のこと『おばさん』ていうの、やめてください。そうやって口にしてるうちにどんどん自己暗示がかかって、本当におばさんになっちゃうんですよ。

 何より、好きな人をおばさん呼ばわりされる俺が不愉快ですから。

 それから」

「約束、ひとつだったんじゃないの」

「いいから聞いて。

 あなたは、旦那さんにちゃんと今回のことを問い質さなきゃいけないと思います。

 彼があなたを裏切って、外で好き勝手に楽しんでることは事実なんですから。

 夫婦の状況がどうだろうと、たった一人の奥さんをないがしろにしていい理由になんかならないでしょ」


「…………」

 彼の真っ直ぐな眼差しを、私は返す言葉もなく受け止めた。

 ぐるぐると思考の混乱する私の催眠を解くように、彼はにかっと少年のように笑った。


「俺、後から出ますから。

 また来週」


「——うん。また来週」


 ショルダーバッグとフルートのケースをソファから持ち上げ、私は口元の筋肉を引き上げてそう答えた。

 綺麗な笑顔になっていたかどうかは、わからないが。




 午前零時半少し過ぎに、帰宅した。最近では飛び抜けて遅い時刻だ。

「友達と飲んで帰るから、遅くなる」と夫へメッセージを入れてはいたが、やはり心臓の拍動は抑えようもなく早まる。静かに鍵を回し、恐る恐る玄関のノブを引く。

 家の中は既に暗く静まり返り、廊下の小さな照明だけが灯っていた。


 そんなにビクビクする必要などなかったのだ。妻の帰宅時間や化粧の乱れなど、今の彼は何一つ気にならないのだろうから。

 そんな思いが、不意に胸の奥を転がった。







 翌日、日曜日。

 週末は遅くまで起きない夫は、10時少し過ぎにようやく寝室から出てきた。

 ボサボサの髪を指で雑に掻きながら、怠そうにあくびを洩らす。

 軽い朝食を食べ終え、自分の皿を洗っていた私は、彼にいつもと変わらぬ挨拶をする。

「おはよう」

「んー、おはよ」


 コーヒーカップを取りに食器棚へ歩み寄る見慣れたルームウェアの背が、なぜかいつもより硬く大きく見えて、私は怯みそうになる。

 拳をぐっと強く握り締め、その背に向けて口を開いた。


「将希。

 もしかして、浮気してるよね」


 いろいろ考えても、結局こういう馬鹿みたいな聞き方以外にない。


「——……」


 広い肩が、小さく揺れた。

 私へ振り向くこともなく、掠れた声が呟いた。


「……なんで、急に……」


「急に、じゃないけどね。

 もしかしたら、将希も内心不安だったんじゃない? 少し前に、うっかり違う人へのメッセージを私に誤送信しちゃったこと。あなた、あの日会社の飲み会だって言ってたけど、本当は違ったんだね。

 あれを私に読まれたかどうか、全然気にならなかった?」


「……」


「ごめんね。将希のスマホ、見せてもらった。あなたが暑気払いでぐでぐでに酔ってソファで寝ちゃった日に。

 白川さんっていう人に送ったんだね、あのメッセージ。随分親しげな会話のやり取りしてるから、驚いた。

 ——白川さんって、誰?

『あの時の言葉は忘れてください』って、彼女は言ってたみたいだけど……あの時の言葉って、何?

 なのに、あなたは『自分が勝手にやりたいだけだから』って。心から気遣うような、優しい言葉で。

 ——その人は将希にとって、どんなことでもしてあげたいくらい大切な人なの?」


 こう話を切り出してみて、思う。

 私はもう、彼を感情的に怒鳴りつけることはできない。

 自分だって、昨夜、夫を欺く行為に踏み出してしまったのだから。

 今はただ、彼の偽らない答えを聞きたいと思った。



「——白川さんは、女性じゃない」


「…………え?」


 私は、夫の小さな呟きを聞き返した。


「いや……違うな。

 君の言う通り、女性だ。俺にとっては、間違いなく。

 けれど、彼の肉体的な性別は、『男性』だ」



「…………」


 彼の言葉の意味が、把握できない。

 何から問えばいいのかわからないまま、私は深く項垂れる彼の背を見つめた。



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