かーくん、さらわれたのか?
*
信号の待ち時間に何度か電話をかけた。が、通じない。音声ガイドが電波の届かないむねを無機質に告げる。
(何してんだよ。かーくん。出てくれよ)
きっと今、店内だからだ。そうだ。病院の近くにあったイタリアンじゃないのか?
そうだ。あそこが一番近い。流れから行けば、あの店に行くのが自然だ。
いわくつきの病院だからって、患者が誰かと話してるだけで、むやみと襲ったりしないはずだ。
ぶじでいてくれ。かーくん!
二人きりの兄弟なんだ。これからも、ずっと、ずっといっしょにいたい。
猛は祈るような思いで現場へむかう。
イタリア料理店はオシャレなレンガ造りの外観。ドアをあけて、なかをのぞくと、ひとめで薫がいないことはわかった。店内もほんのりチーズの匂いはするが、あの強烈な焼肉の匂いとはほど遠い。
やはり、違う。ここではない。
直感的に猛は悟った。
薫がいる場所は、おそらく——
「いらっしゃいませ。お一人さまですか?」
美人のウェイトレスを無視して、猛はその場でまわれ右した。
急がないと、薫が危ない!
病院まではすぐ近くだ。自転車はレストランの前に置いてきた。身一つになって病院へ直行する。
腹は鳴るが、それどころではない。
峯岸産婦人科病院は夜のなかに黒く沈んでいた。どの窓にもカーテンがひかれ、外にもれでる光が感じられない。
表玄関は当然のことながら閉まっていた。救急病院ではないから、裏口も閉まっているだろう。
(どこから入るか? 窓ぶちやぶってでも突入するべきかな)
念のため、裏口のドアノブをまわしてみた。おどろいたことに、あいている。
猛は迷わず、なかに忍びこんだ。
院内はすでに消灯時間のようだ。廊下を照らすのは非常灯だけ。まるで廃病院の静けさだ。
外から見て三階建てだった。二階、三階は入院患者用の病室らしい。
この広い院内のどこに薫はいるのだろうか? それとも猛の思い違いで、ほんとうは別の店で友人と外食しているのか?
だが、静寂に包まれた薄暗い空間に、ハッキリと異常な匂いが充満している。肉を焼く、あの匂い……。
それを発するもととなっているものが何肉なのか見当はついているが、匂いはふつうに美味そうな焼肉だ。
猛の腹がなさけない音を立てている。
匂いのするほうへと歩いていった。
どこか迷路のような院内の奥深くから、香ばしい匂いが流れてくる。
確信はない。じっさいに、この病院で行われていることがどんな“研究”で、なぜ、いつもこんな匂いがするのか。
ただ、このさきに病院の隠しておきたい真実があることだけはわかる。
とつぜん、パタパタと走りまわる足音が近づいてきた。ナースサンダルの音だ。
猛は非常灯の照らしきれない暗闇のなかに身をひそませる。
「ちょっと、長脇さん。早く裏口の鍵、閉めてきて。こんなこと外部にもれたら大変よ」
「すいません。急いでたので」
「言いわけはいいから!」
「はい!」
複数の女の声が言いかわす。
やがて、ナースが一人、猛の前を気づかずに素通りしていった。裏口へむかう。
もう一人はさらに廊下の奥へ走っていく。ブツブツと文句を言っている。
その言葉を聞いて、猛はゾッとした。
「ほんとにもう。どうやって処理するっていうのよ。大人の肉は固いんだから」
女は廊下の暗がりで、カチャリとドアをあけた。一瞬、室内の明るい光がさしこむ。
そのとき、たしかに猛は聞いた。
「助けてぇー! 兄ちゃーん!」
薫だ。
あの部屋に薫が捕まっている。
猛はいっきにダッシュをかけた。女がドアを閉めきる前に、そのなかへ乱入する。
室内の光景をひとめ見た瞬間、怒りがフツフツと湧きあがる。
手術台に可愛い弟がつながれている。白衣を着た中年の医師が注射器を片手に、今しも薫に迫っていた。注射器の中身はわからないが、おそらく筋弛緩剤か何かだろう。急な心臓発作か原因不明の自然死に見せかけることができる。
あるいは、もっとおぞましいことをしようとしていたのかもしれない。
さっきのナースがぼやいていたように、薫の体を解体して再利用しようとしていたのかも? 大人の肉は固い……。
「おれの可愛い晩飯に、何する気だッ?」
猛はかけよると、医師の頭部を狙い、まわしげりを放った。きれいに決まり、あっけなく医師は倒れる。床に落ちた注射器が壊れて、儚い音をあげた。
*
「兄ちゃーん。怖かったよぉ。殺されるかと思ったー」
「うんうん。怖かったな。もう大丈夫だぞ」
抱きついてくる薫をなだめながら、猛は安堵の吐息をもらした。
ほんとに、いくつになっても、あぶなっかしい弟だ。
周囲には猛が呼んだ警官が大勢ウロつき、院内はにわかに騒々しい。
「だから、兄ちゃんが言ったろ? さらわれたら、どうするって。じっさい、さらわれてんじゃん」
「うッ……ごめん。なんか、ここの外で友達と話してたら、急に看護師さんが二人ともなかに入ってくれって言って」
「かんたんにだまされてるんじゃないぞ? しばらく夜の一人歩き禁止な?」
「えっ? それは困るよ。仕事に行けない」
「兄ちゃんが迎えにくるから」
「うう……」
「まあ、おまえも友達も無事だったからいいけど……」
ことによると可愛い弟が焼肉にされていたかもしれないと思うと、冷や汗が出る。
警察の事情聴取がすんだのは深夜だった。
「さ、帰ろうか。かーくん。うしろ乗れよ」
置きっぱなしの自転車に二人で乗ると、薫が背中から手をまわしてきて、ぽそりとつぶやいた。
「兄ちゃん。ありがとう」
はあ……ほんとに可愛いなぁ。おれの弟は。
猛は口笛を吹きながらペダルに力をこめた。
*
ここで終われば美談だが、後日、猛はヒドイめにあった。
「兄ちゃん。そういえばさ。あのとき、言ったよね? おれの晩飯に何するんだ——って」
アルカイックな笑みをはりつかせた顔で、薫が言った。
「えっ? おれ、そんなこと言ったか?」
「言ったよ。思いっきり。おれの晩飯って」
「おぼえがない!」
「ダメだよ? 頭かかえてもごまかされないからね?」
「兄ちゃんはおまえのことが心配で、心配で」
「僕の作る晩飯がね」
「いや、そうじゃなくて……」
「兄ちゃん。今日の晩飯、ぬいてみる?」
「それだけはカンベンしてくれ! かーくん。薫さま。お願いだから、ゆるしてくれぇー!」
「ふへへ。どうしよっかなぁ」
本日のメニューは、焼肉なり。
了
東堂兄弟の5分で解決録6〜夜の香り〜 涼森巳王(東堂薫) @kaoru-todo
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