違和感
*
数日後。
またもや、薫の帰りが遅くなった。今回は九時半すぎに電話がかかってきた。
「ごめん。猛。今日も残業だよ。悪いねぇ。てきとうにカップ麺でも食っといて! んじゃ」
「んじゃ、じゃない! 兄ちゃんが迎えに行くから」
「別にいいよ。んじゃ!」
「従業員出入り口で待ってるからな!」
「もう、心配症だなぁ。んじゃ!」
なんで、そんなに切りたがるのか。
猛はむしょうに悲しくなった。あったかい晩飯が食いたい。カップ麺はもちろん、あったかい。しかし、そこには愛情という味付けがなされていない。添加物のかたまりだ。
「行こう」
廊下のすみから二つの光るものが、じっとこっちを見ている。
薫なら「ぎゃー! うちに妖怪光り目が住みついたー!」と叫ぶところだが、猛はそれがミャーコであることを見抜いている。
「ミャーコ。行ってくるな?」
ミャーコはプイっとそっぽをむいて、居間のコタツをめざした……。
かーくんがいないというだけで、なんだろうか。このさびしさは。
一族がみんな早死にする家系に生まれて、最後に残った兄弟二人だ。おそらくはもうすぐ、どちらかが……。
「……」
自転車を全速力でとばしていくと、途中、あの産婦人科の前を通った。今日は焼肉の匂いはしない。
まあ、当然だ。病院から焼肉の匂いがすることじたい、おかしいのだ。きっとあの日はたまたま風向きのせいで、病院から匂いが漂ってきたような気がしただけだ。病院の裏手の住人が焼肉を楽しんでいたに違いない。
今日こそは、うちも焼肉にありつこう。早く晩飯を迎えに行かないと——と、猛は自転車をこぐ足に力をこめる。
そのとき、産婦人科の裏口から出てくる人影があった。
「退院おめでとう」
「ありがとうございました! ほんとに助かっちゃった!」
ナースと退院する患者だろう。患者は高校生じゃないかと思うほど、幼さの残る女の子だ。へたすると中学生だ。
それに、産婦人科から退院するのに、赤ん坊を抱いていない。
チラッと横目に見ながら、わきを通りすぎた猛は違和感をおぼえた。女の子がナースから封筒を受けとっていたのだ。
「じゃ、これね」
「わあ。嬉しい! ほんとにいいの?」
「また困ったときには、うちに来てね」
「はーい」
女の子は封筒のなかをのぞきながら、猛とは反対の方向へ歩いていく。
(金……だったよな?)
古今東西、封筒のなかに入れて渡すものと言えば、手紙か金だ。ナースが退院する若い患者を案じて、お別れの手紙を手渡したわけではあるまい。
なんだか、きなくさい。
しかし、そのとき、前から晩飯が手をふってやってきた。
「兄ちゃん。ここだよ〜」
晩飯。晩飯。
やっぱり可愛いなぁ。
おれの晩飯。
「ほら、乗れよ」
「わ〜い。らくちん。らくちん」
弟を乗せていると、どこからか、あの匂いが漂ってきた。焼肉だ……。
やはり、目の前の病院から匂いが届くようだが?
*
それから、さらに数日。
桜は満開になった。
天気もよくて月が美しい。
チッチッチッチッチッ……。
テレビをつけていないので、時計の音がひどく大きく感じる。
今日も薫は遅い。
「ああ、もう九時四十分。かーくん、まだ帰ってこない」
猛には気になることがあった。あれからネットで調べてみたのだ。峯岸産婦人科病院について……。
すると、こんなウワサがあった。病院名まではわからないが、中高生のあいだで中絶をタダでやってくれる上に、礼金まで出してくれる産婦人科があるらしい。研究のデータを集めてるからだと。
中絶をタダで、その上、礼金——
(この前の女の子……)
あの少女、赤ん坊を抱いてなかった。おろしたのだろう。
イヤな予感がする。
どうにも腹の底がムズムズと気持ち悪い。
そのときだ。猛のポケットでメールの着メロが鳴った。見ると、薫からだ。
『悪い。さっき、病院の前で友達に会って、いっしょに外食に行くことになった。バイト代入ったから、おごってくれるって! さきに食べてて』
病院の前で、たまたま友達に……。
それはあの産婦人科から友達が出てきたということではないのか?
バイト代というのは、受けとった礼金では?
疑惑の産婦人科はまちがいなく、あの病院だ。
友人じたいは研究の協力をしただけと思っているかもしれない。しかし、もしも、二人が話しているところを院内の関係者が見かけたら、どう考えるだろう?
すうっと背筋に悪寒が走る。猛は外へとびだした。
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