東堂兄弟の5分で解決録6〜夜の香り〜

涼森巳王(東堂薫)

腹が減る



 腹が減った。


 近ごろ、弟の薫が夜のバイトを始めたため、夕食の時間が遅い。アパレルショップの店員だが、昼から閉店までの時間帯なのだ。


「ああ、腹減ったなぁ。かーくん、早く帰ってこないかなぁ」


 コタツにハマりながら猛はぼやく。


 時刻は二十一時を半分すぎている。

 いつもなら、そろそろ、ガラリと玄関の引戸があいて、「ただいま〜」と能天気な薫の声が聞こえてくるころなのだが……。


 十分がすぎた。

 声は聞こえない。

 チッチッチと壁にかけた時計の針が小刻みに時を刻む。


 十五分。

 まだ帰らない。

 チッチッチと時計の音が耳につく。


 二十分……。

 帰らない。

 これは、残業か?

 ごくまれにだが、残業で三十分くらい遅れて帰ってくることがある。


 三十分。

 カラリとふすまのひらく音がした。


「おかえり! かーくん」

 猛がふりかえると、愛猫のミャーコが襖に前足をかけて立っていた。侮蔑的な目で猛を見て、コタツに入る。


「……」


 かーくんが帰ってこない!

 おれの晩飯はどうなったんだ?

 なんで帰ってこないんだ? おれの晩飯!


 時計は十時を十分もすぎた。

 もう我慢の限界だ。

 遅い。遅すぎる。


 猛は祖父のお古のブルゾンに腕をとおすと、財布と家の鍵とケータイをひっつかみ、外へとびだした。



 *



 自転車をとばして、やってきたのは市外のショッピングモール。薫のバイト先のショップがなかにある。

 しかし閉店後のこの時間、すでにショッピングモールは客が入れなくなっている。

 猛は従業員出入り口の前で、薫のスマホにメールを送る。


 今ごろ晩飯はどこをウロついてるのだろうか?

 こんなに遅いと兄が心配するということもわからないのか? まったく、いくつになっても手がかかる。


 近くから香ばしい香りがしていた。夜の空気にとけこむように漂うかぐわしい香りは、まちがいなく焼肉だ。

 猛の腹の虫が盛大にグウッと鳴った。空腹時にこの匂いは酷である。



『かーくん。遅いぞ。何やってんだ? 従業員出入り口の前で待ってるからな?』



 イライラしながら、猛はメールを送った。

 行き違いになんてなったら、なおさら晩飯にありつける時間が遅くなってしまう。


 すると、まもなく、従業員出入り口から薫が現れた。


 わが弟ながら、ばあちゃんにそっくりだ。可愛いなぁ。おれの焼肉——と、猛は胸の内でニヤける。


「わッ! 猛! なんでこんなとこにいるんだよ?」

「かーくんが遅いからだろ! メール見たのか?」

「見てない」

「何時だと思ってるんだ」

「十時すぎだろ? 今日は忙しかったんだよ〜! 明日からのセールの準備があって」

「兄ちゃん、心配したぞ。かーくんがさらわれたかと思ったろ?」

「さらわれるわけないだろ! いくつだと思ってんの?」

「いいから、うしろ乗れ。腹が減った」

「へへへ。らくちん。らくちん」


 まったく、気楽なものだ。

 のんきな晩飯をうしろに乗せて、猛は自転車をこぐ。暗闇がささいな交通違反を隠蔽いんぺいしてくれる。


 まっすぐ進んでいくと、あの焼肉の匂いが強くなった。


「このへんに焼肉屋があるんだな?」

「ないよ。けど、よく焼肉の匂いがするんだよねぇ。よっぽど焼肉好きな人が、このへんにいるんだろうねぇ」

「羨ましいな。うちも今夜、焼肉にしないか?」

「ムリ! 焼肉するほど肉の買い置きがない」


 焼肉じゃないのか……せっかく迎えに来てやったのに、おれの焼肉……。


 未練が思わず、心地よい香りの出所を探してしまう。たしかに、道路の両脇に建ちならんでいるのは、テナントビルやマンションだ。焼肉屋らしきものはない。イタリア料理の店はあったが、イタリアンで焼肉のメニューはないだろう。


(あれ? 変だな)


 街灯が大きな桜を照らしている。三分咲きの桜は病院の敷地に植樹されている。その桜の前をよぎったとき、匂いはもっとも強く感じられた。


 病院で焼肉?

 そんな不謹慎なことを医者か患者がするのだろうか?


 不審に思いながら自転車をこぐ。自転車走行帯のある広い歩道。夜間だから歩行者はほとんどいない。


 匂いの源をたどるためにスピードを落とし、病院の前を通りすぎる。看板が見えた。峯岸みねぎし産婦人科と書かれている。


(産婦人科から焼肉の匂いねぇ? 赤ん坊の誕生祝いかな?)


 ぐうぐうと腹が不服の叫びをあげる。

 猛の思考はそこで止まった。あとはもう食い物をむさぼるまで人間であることを放棄した。

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