第7-2話 思い出とカレーライス

「ねえ、何作っていると思う?」

 妻の声で僕は現実に引き返してくる。妻がいる目の前の現実で、頭の中の夢想をペンキを塗るように塗りつぶした。

「カレーだろ」

 ルーの溶けた茶色い鍋の中で、不揃いな野菜達が煮込まれていた。にんじん、たまねぎ、じゃがいもを適切な方ではない適当の意味で切っていく所を僕は見ていて、その時からカレーかなと検討を付けていた。妻は意外と雑なのだ。煮込めば一緒でしょ、よくそう言っていた記憶がある。

「サフランライスも炊いたの。食べていくでしょ」

 炊きたてのターメリック色のご飯は、湯気までも綺麗な黄色に染まって見えた。

「いいの?」

「あなたって昔からカレーが好きよね。アイスとかチョコレートとか、甘い物は食べないくせに、カレーとか焼きそばとか好物は子供みたいなんだから」

生意気な・・・、僕よりも一つ年下のくせに。言い返してみたが、何食わぬ顔で妻はカレーの鍋を静かに煮込み続けていた。あと十分だという。この最後に煮込む時間が、カレーをおいしくするらしい。

「ねえ、初めて一緒に料理をしたときのことを覚えている? 付き合い始めで、初めてお出かけをして、寒い中中尊寺を歩いたその後」

「どうかな?」妻の突然の思い出話に僕はしらを切ったが、その時の記憶は今でもはっきりと覚えている。晩ご飯をどうしようかと恋愛自体に慣れない二人で駅を彷徨った後、それなら家で何か作ろうかと彼女が言ったのだった。普段は気軽に取り出さないだけで、水晶が淡い靄のような光をその中に隠しているように、僕も彼女との時々の記憶を大切に守っている。お互いに口に出さないだけで妻もきっと同じだ。

「その時もカレーだったのよ」

 小さな吐息と共に妻は言った。

「張り切りすぎて焦げたカレーだよね」

「覚えているじゃん」

そう言って僕たちは笑った。なぜだか久しぶりな気がした。

無水カレーというものがある。当時の妻がそう言って調べてきた。文字通り水を使わず野菜の甘みを引き出す調理方法をとるカレーなのだが、いつも通りの材料を水なしで炒めただけで、トマトみたいな水分の多い野菜を使う発想が僕たちにはなかった。

「失敗はしたけど、私はあの時ふわふわした気分だった。浮いているようなというよりは、綿に沈み込んでいるみたいな? 一緒に作るとは言いながら、包丁も持てない君が隣にいて、でもつかず離れず見ていてくれるのが夫婦になったみたいで嬉しかった」

「今は夫婦だけどね」

「まあね」彼女も口角を上げる。

 付き合いたてではしゃいでただけだけどね。照れ隠しのように妻は言った。そんな彼女の横顔を眩しいものでも見るように僕は見つめた。いつもはそんなこと言わないじゃないか。口に出さずに僕は言う。

 彼女は猫みたいな女性だった。

「ねえ、ぎゅってしてもいいかな」

「ヤダね」

 人を型にはめる言い方が僕は自分に対しても、他人に対しても好きじゃない。でも、彼女のことは猫みたいな人だと何度も思った。女は猫みたいな生き物よ。そんな恋愛評論家の名言がありそうだけれど、僕は妻が一番猫に近いと思う。暖かい気持ちを真っ直ぐに立てた髭みたいな素敵な気高さで包んでいる優しい人。

「なんで?」

「料理をしているから」

 妻は無愛想に言った。でも、僕に触れるのは嫌いではないことを僕は知っている。

「じゃあ、手だけ。手だけ握っていてもいい?」

 妻はお玉を左手に持ち替え、斜め後ろの僕に向かって手を伸ばした。妻は無言だった。バトンを受け取るような真っ直ぐな腕の伸ばし方は、到底手を繋ぐのには向いていなかったけれど、僕は妻の手を取った。僕の手のひらと妻の手のひらが互いに互いを包んだ。暖かいとか柔らかいとか、あまり感じず、ただ自然な心地がした。

「これからも会えるよね」

 不安になって聞く。僕に左手を握られたまま妻が振り返り、口を開いた。確かに何か言ったはずなのに、妻の表情も、言葉もそこだけすっかり記憶が抜けてしまっている。

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階下の恋人 深 シユン @fffffffffffff

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