第7-1話 思い出とカレーライス

 目が覚めるといつもの部屋にいる。いつもの部屋と言ってもどちらか伝わらないが、新品の壁に囲まれた家具もなく、生活感もない部屋のことだ。ここで目覚めると、夢だと自覚するのと同時に、懐かしさを覚える。見慣れたものもないのに不思議なことだ。

 この部屋に住んでいるわけではないと妻は言った。それもそうかと納得した。窓も、ベッドも、椅子もない部屋でいくら妻とはいえ生活しているとは思えなかった。代わりに調理器具はいくらでも揃っていた。泡立て器も、絵を描くときに使いそうな捌けも、コンビニでしか見ないトングも、よく名前の知らない材料を粉々にする機械も全部揃っている。妻は時々、料理が恋しくなると、この部屋を訪れるのだと言う。へーと僕はため息を漏らした。妻と凝った料理があまり結びつかなかった。大皿に乗せられた手軽な料理にラップが掛かって食卓に上っているのがいつもの風景だった。

 毎日は来れないの、僕が聞くと、

 食べてくれる人がいないと張り合いがないからと、吐息を漏らすように呟いた。

 うっすらと光を閉じ込めたすすき色の肌に、僅かに赤みが差したのを僕は見逃さなかった。

長い階段を降りると、今夜も妻がキッチンに立っていた。今日の彼女はアクアマリン色のニットに、白い横縞のエプロンを着ていた。コンロに向かう横顔を見つめる僕に気づいて妻は「何?」と、少しだけ冷たく言った。

「なんでもない」聞こえるか、聞こえないかの声で僕は首を横に振った。

 なんでもない。妻の淡い色彩のニットも、それに合わせたハーフアップの髪型も僕がいつか好きだと言ったものだとふと思い出しただけだ。

僕が好きだと言ったものを、妻はよく覚えている。おいしいと言った卵焼きの味付けも、良い匂いだと褒めたハンドクリームも、決しておくびには出さないけれど、さりげなく僕のための彼女でいてくれる。

僕は、そんな彼女のための僕でいられただろうか。引き戻される感覚と共に、腹の底が冷たい黒い水で浸されていく感覚に襲われた。胃の腑が少しずつ冷たい海水に沈み、為す術もなく僕は難破船の上に立っていた。もう取り返しが付かないことは分かっている。後は沈むのを待つだけだった。

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