第6話 皐月とマフィン

「今朝のマフィンはどういう意味だったの」

 妻はにんじんを切る手を止めた。細く短冊に切っていたけれど、何を作っているかは秘密だと教えてくれなかった。

「今朝のマフィンって?」

 大きな瞳で妻はさも不思議そうに僕を見つめる。見ている内に吸い込まれそうになる。そうだ、付き合いたての頃はためらいのないこの瞳を見つめ返すのが恥ずかしくて、しばらく彼女の目を見れない時期があったことを思い出した。

「三枝さんのマフィンだよ。昨日、君が届けてくれるって言ったじゃないか。あれってそういう意味だったんだろ」

「三枝さんって誰だっけ?」

 妻は僕の話したことをよく覚えていない。一方で、元々記憶力の良い僕は妻の話したことをよく覚えている。包丁とまな板が噛み合う音が好きだといったことや、材料を量るのが面倒でお菓子作りが好きではないといった下らない話をみんな覚えている。文句を言うと、ごめんごめんとにやけていた。

「私と同じ、さつきさんでしょ。君が昔、新人の時に助けて感謝されたって。覚えてるよ」

「ね?」念を押すように彼女は微笑んだ。

「僕が今日、彼女から貰ったマフィン君が届けてくれたんだろ」

「私が作ったものと同じだった?」

「それは・・・、チョコチップの小さいやつだったけどさ」

 そこまで聞いて、妻はまたまな板に向かって野菜を切り出した。妻のまな板はいつも清潔で白く保たれていた。妻が家を空けるようになった頃、ズボラな証拠の茶色いシミが残ったまな板を見て、帰ってきた妻は僕を叱った。私がいないと生きていけないんだから。

そう僕は君がいないと生活もままならない。虹彩に染み付くような白に、黄色いパプリカの色がよく映えていた。

「さつきさんから貰った物なら、さつきさんからに決まってるじゃない。彼女から貰った物を私が作った物だと思うなんて失礼じゃない。冒涜だよ、作った人に対して」

「そんな偶然・・・」

「あるんじゃない。正夢なんてよくあること」

 僕が言い終わる前に、僕の言葉を奪って妻が言った。

 彼女の横顔をじっと見つめたが、待てども待てども本音を読み取る事は出来なかった。それに包丁を握る手を止めて、僕と顔を合わせることもなかった。

「きちんとお礼を言うのよ」

 何だか僕は子供のようだった。

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