第5話 マフィンとごんぎつね

 出勤すると、フロアに入っただけでも僕の机に何か載っているのが分かった。僕は僕の白いデスクの上を常に何も置かないように保っている。そのせいで、遠くでも僕のデスクの状態は一目瞭然であるし、僕の机を北極星のように目印に使う社員もいる。

 編集の第一線にいた頃、机に物が重なっているのは一種の誇りだと思っていた。前に坐る同僚の顔が、重なった資料で見えないは当たり前の環境で、重なった原稿や企画書の山の高さはそれだけ仕事を任されていることの証明だった。編集の仕事は僕の誇りで唯一無二だった。忙しない職場ではあったけど、処理しても処理してもデスクの山が減らないのを僕は幸せだと思っていた。

 そんな仕事の山の代わりに今の僕の机に置かれていたのは、マフィンだった。小ぶりなマフィンが二つ、うす焦げ茶の紙袋の中に並んでいた。

 目を点にした僕を察して、朝の早々とした時間にキーボードで作業をしていた木崎が顔を上げた。

「経理の三枝さん」そう短く漏らした。

 僕は曖昧に返事をした。

「さつきさんだっけか」作業の手を止め、木崎が言った。

「なにが」

 心臓が早鐘を打つとはこのことなのだろう。頭を巡るより先に、心臓がエンジンをフルスロットルにするその初動にただ動揺した。思わず、ボクシングのカウンターのように喰い気味に返事をしていた。

「なにがって、経理の三枝さんの下の名前だよ。お前、仲いいだろ」

「ああ、そうだったけ」

「なんだよ、お前も知らないのな」

 僕の動揺に木崎は気づかなかった。頭の切れる木崎のことだから、気づかないふりをしているのかもしれないが、その可能性は無視することにした。まだ早いと身体が訴えていた。

「俺も貰ったよ」

一口サイズのマフィンが入った飾らないビニール袋をぷらぷらと彼は掲げた。

「でもな、お前に渡したかったみたいだぞ」

 三枝さんはいつも僕の出勤しない朝に、僕のデスクにお菓子を置いていく。まるで小学生の頃読んだ「ごんぎつね」みたいだと思う。正直に言えば、ありがたさよりも、申し訳なさが勝る。嫌なのではなくて、三枝さんの律儀さに頭が下がる。僕はそんな価値のある男ではない。そう言う意味だ。3階のフロアで彼女とすれ違うたびに、僕は遠慮しながらお礼を述べる。彼女ははにかみながら、パタパタと手のひらを振るのだった。

 紙袋を開け、取り出したマフィンは木崎の一口サイズのものと同じ大きさだった。茶色い型紙に、綺麗に焼けた生地が可愛く収まっている。昨日のマフィンと違うのは、チョコチップが散りばめられているところだ。それに昨日のマフィンのほうが一回り大きかった。

「俺は紙袋に入れて貰えなかったな・・・」

 木崎が大して気にしていない様子でぼやく。

「いいよ。やるよ」

そんなことを言いながら、頭の片隅では昨日のことを考えていた。

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