第4話 明晰夢と妻

定時で帰るようになって、僕の生活は規則正しいものになった。

 せざる終えなくなったの間違いかもしれない。何しろやることがないのだから、自然と就寝が早まる。編集部のデスクで夜を明かした数年前とは大きな違いだ。日が沈む頃には眠るようになっていた。手持ち無沙汰な時間よりも、空いた隙間を埋めるよりも、その方が僕にとっては楽なのだ。

 そのせいか、夢を見ることが多くなった。僕が意志を持って自由に動くことが出来る夢。ゲームのコントローラーを持つように、左へ動こうと思えば動け、物を持ち上げようとすれば持ち上がる。僕の手に委ねられていないのは、夢から覚めるタイミングだけ。調べるとそれは明晰夢と言うらしい。

 目が覚めると僕は白い部屋の中にいる。六畳の広さで家具が無いため、生活感もない。紛れもなく僕の部屋だ。

起き上がってすぐに、焼き菓子の甘い砂糖の匂いが鼻腔をくすぐった。お腹をすかせている自分に気づく。キッチンにいるのか、僕は思った。

 ドアを一枚隔てたすぐ向こう側に階段が垂れている。築十五年だとは思えない、真っ白な階段だ。手すりにつかまりながら、僕は早足で階段を駆け下りた。段差の浅い下りやすい階段だった。

 玄関まで続く真っ直ぐな廊下に広いとは言えないキッチンが付いている。そこに妻は立っていた。オーブンから取り出した黒い天板の上に、シンプルなマフィンが規則正しく並んでいた。妻はそれを、焼き上がったマフィンを一心に眺めていた。

「やあ、久しぶり」

 僕が声を掛けると、妻は振り返った。何も言わずに、少し首を縦に振った。他の人よりも感情を表に出さない人なのだ。それでも妻も僕と同じように喜んでいることが僕には分かる。

「最近、配属が変わったんだ。広報部になって、仕事の量も減った。帰る時間も早くなったんだ」

「物足りなくない?」

 彼女と初めて会ったとき、色素が薄いと思った。色が白いとか、着ている服がモノトーンであるとかではなくて、なんだろう彼女の纏っている空気感自体か淡く、希薄だと思った。彼女と話すと、霧のカーテンが掛かった湖の水面に映る自分を見つめる気分になるときがある。そう、そうだった。

「物足りないけど、今はそれで満足しているんだ。君は?調子はどうなの」

「うーん、退屈かな。一人で本を読んで、絵を描いて、時々昼寝したり。会う人がいないのがちょっと寂しいくらいかな」

 彼女は言った。最後に会った時と変わらない針のように真っ直ぐな黒い髪の先に、焦点があった。彼女は彼女で僕の視線に気づいたかのように、手ぐしで髪を梳いた。

「ねえ、ところでこのマフィン食べてもいいかな」

 僕が有無の返事を待たずに伸ばした手を彼女は掴んだ。彼女の手はいつもみたいに冷たく、両生類のように湿っていた。駄目、そう言って首を振った。

 粗熱がとれるまで待つのだという。

 それから、僕等は二人で無言のマフィンを無言で見つめた。

「出来上がったら、届けるから」

 そんな妻の言葉を聞いたか、聞いていないかで目が覚めた。

 カーテンの隙間から、控えめな朝の光が顔を覗かそうとしていた。

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