ゆるしてあげる

西野ゆう

第1話

「誓います」

 私は彼の目をじっと見ている。

 なんということだ。今この瞬間まで、ぼーっとしていた。

 過去に記憶を遡るときの私の悪い癖だ。完全にうつつを抜かしてしまう。そう、こんな時でさえ。

 改めて、彼がその短い言葉を告げたときの表情を思い返す。他人から決められたセリフに、自分の気持ちを精一杯に込めて言う生真面目な彼。そんな彼に私は、心の底に笑いを押し込めるので精いっぱいだった。

「新婦、朱里あかり。あなたは病めるときも、健やかなるときも……」

 修司しゅうじはもう、牧師が話す内容なんて聞いていないみたい。

 牧師の喉元、自分の真っ白なエナメルシューズの爪先、私の瞳。その三か所を順番にそわそわと見ている。

「死がふたりを分かつまで……」

 そんな彼の動きを見る私だって牧師の言葉なんて聞いていない。

「誓います」

 彼をじっと見つめる。私は何も考えていなくても、勝手にその言葉が口から出てくる。それでも彼は破顔している。わざとらしい。それとも本心?

 私は式が進んでも、そのまま彼をまっすぐ見ていた。彼の瞳に本心を探そうと。

「愛してる」

 誓いのキスの後、花嫁のベールに触れないよう、そっと頭を抱えて耳元で小さく呟いた彼。そんなキザなことができるんだ。

 ただ、彼の顔が耳元に来たとき、ようやく彼の本心が見えた。

 彼は心から望んでいた。私からの赦しを。

 だけど、またすぐにわからなくなる。本気? 本心?

 自分を責めて反省しているのかな? それともただの恐れ?


 あれは三年前。ほんと、まだたった三年前のこと。

 学生だった私は、卒論の追い込みと、急なシフト変更が当たり前になっていたバイトで疲れ果て、朝日もしっかり昇った午前九時、着替えもせずマンションのベッドに潜り込んでいた。

「あーちゃん? 寝てんの?」

 彼の声は確かに聞こえていた。だけど、身体を起こすのも、返事をするのも億劫だったが、軽く寝返りをうって「うん」と小さく返した。その返した言葉も、すぐに彼の唇に塞がれた。

 その先はいつもの流れだった。眠気と気怠さの中で、彼の熱が私に移る。

「喉乾いた……」

 ことが終わった直後、私がそう言い終える間もなく、彼は冷蔵庫から甘いフルーツフレバーの缶酎ハイを出してきた。それで私も曜日を認識した。

「今日って日曜日か」

「日曜の朝から飲む酒は旨いだろ?」

「ヤダ修司、そんな昭和のオヤジみたいなこと言わないでよ」

 そう言いながらも、私は彼の腕にまとわりつき、甘い炭酸を口に運び続けていた。

 そんなことをしていたら、当然また睡魔が襲ってくる。彼もそれは心得ていたのか、私をそっとベットで横に寝かせた。

「適当にコンビニで弁当でも買ってくるわ」

 もうお昼近いのだろうか。彼は私の頬にキスして部屋を出て行った。

 それが最後だ。彼のぬくもりを直接肌で感じたのは。

 彼がコンビニから帰ってきたとき、私はベッドではなく、浴室で横になっていた。頭から血を流して。

「あーちゃん? ……愛莉あいり? おい、嘘だろ?」

 私は、狼狽える彼を見ていた。


 それからもずっと彼を見ている。

 同じゼミの朱里は、ひどく落ち込んだ彼を支えてくれていた。私も最初は感謝さえしていた。

 しかしたった今、朱里の黒い眼を見て思い出してしまったのだ。事故とはいえ私を殺したのが朱里だったということを。

 それでも、修司。私はあなたを赦してあげる。だって、朱里の耳元で言った言葉。あれは朱里に言ったんじゃない。私に言ったのよね?

「私も愛してるよ」


 すべて気づいた私は、二つの選択で悩んだ。彼女にすべきか、彼にすべきか。


 私は彼女を選んだ。

 朱里の身体を使い、修司を求めた。

「……あーちゃん?」

 私は固まった。なぜわかったのか。

「やっぱりそうか。ずっと近くにいたの、なんとなく感じてたから」

「……」

 私は何も言うことができなかった。伝えたいことを何ひとつ。

 硬直する私を、彼は優しく抱きしめた。朱里の身体を。

 私にもぬくもりが伝わってきた。そして、朱里の思いも。

 そう。これは許されぬ恋なのだ。

 死がふたりを分かつまで。

 死人が今を生きる人を縛ってちゃいけない。

 私は住む世界を分けられたのだ。

「いいよ。赦してあげる」

 私は二人にそう言って別れを告げ、空を目指した。

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