サリエルの章
その寝所には、天蓋があった。この屋敷に居を移してから掛けられたものではなく既にあったものを彼女が気に入ってそのまま貰い受けたものであり、きれいには整えられていたが古かったため、使用人も屋敷の主人も流行りのものに取り換えようかと幾度か提案してきてはいるが、その度断っていたようだった。ここに来て間もないころは十に満たないこどもであったけれども、淑女として己を飾ろうとすべき十五、六の齢になっても新しいものに変えたがらないのは美意識に鈍感で古臭い印象を周囲に与え、とても魅力的なものではない。彼女の幸福な時代を知らない使用人たちが「ものずきな娘もいたものだ」とささやきあっているのは、サリエルも聞いたことがあった。
エマニュエル・イーダは、けれど聡明で博識な娘である。教養の範囲を超えた数多の学術書に読み耽り、噤んだくちびるは開かせたら季節を読む星の名前から歴史が裏付ける現政治体制の欠陥のことまで、質量をもった内容をいくつも話すことができた。めざとく、物事を理論的に組み立てて考えるのに長けていて、彼女のこぼした一言で屋敷の経理係の着服が暴かれたこともあるくらいである。普段はそれもさらすことがないために結局屋敷内では昼夜を問わず本に噛り付く変わり者でしかなかったが、そういった様子も奥ゆかしいではないかと彼女を引き取った叔父は肯定的であったし、その妻も女性がかしこいことは貴族社会で生きていく上では必要なことだと推奨すらしている。おそらくはエマニュエルに自分の家の家督も継ごうとする意欲のないことに彼らは安心し、侮っているのだった。彼女もそれを知っていて―――否、実際地位や富などに別段興味を持たなかっただけであろうか、とにかく叔父夫婦のもつ慈善精神の象徴としての養子という立場から、まったく外れる素振りを見せない。以前の屋敷から彼女に仕える使用人もまた、この様子に何も申し立てなかった。これは単純にエマニュエルに危険が及ぶ可能性があったからであろう。
「サリエル。エマ様のご容態はどう?……。」
メイドのヘージェは事件当時、使用人の中でも勤め始めて一番年月が短かったが、今ではもう随分と馴れたようで悠然と、丁寧で思いやりのある仕事をする女中である。長く結わえていた髪も短くなり、栗色の波がくすぐる頰は健康的でまだまだ若い。それでも三十を超えたことを少し気にしているようである。
「……お体が優れないのか」
「ええ、夕食のあとにそう仰っていたわ。伺っていないの?」
「ご夕食の頃から姿を見ていない」
彼女は少しわらって、あなたなんだかエマ様に避けられているときがあるわよね、と
「そうする」鼻で細く溜息をついて目を伏せれば、それがどうにも子供っぽく仕上がってしまったのか「やだ、拗ねないで」などといわれてしまう。年齢はヘージェのほうが上だけども、契約期間でも役職でも力関係はサリエルが大きいはずなのに随分と舐められたものだ―――いや、随分信頼されたものである。都合の悪いことではない。
主人たちが夕食を終えた食堂は、今日の仕事を終える使用人たちのために夜食を準備しているところである。エマに仕える料理人のハリスもこの仕事には普通に加わった。…というのも、エマニュエルの口にする食事に関しては全て彼が作っており、その間ほかの調理師たちとは別作業なのだ。かつての事件から毒による危害を異に警戒しているためだが、契約対象が違うために、ヘージェやサリエルたちも他の使用人とは動きが若干変わってくることがあった。サリエルも守衛職ではあるものの、先にヘージェが茶化したように実質的にはエマニュエルの護衛役である。
「エマ様? ……ああ、そうそう。確かに具合悪そうだったよ。つーかあれは、食欲がないってのかな。元々食が細い癖に、半分も召し上らなかった」ハリスは鶏肉を下味に漬け込みながら思い返すように難しい表情をした。
「食事に何か」
「舐めんな。こちとら仕込みから全部、毎回検査してんだぞ」
吐き捨てるような言葉には自身の仕事に対する誇りと、主人に対する忠誠心が伺える。このとき手元から顔を背けて唾の飛ぶ先を気にするにつけても、彼は細かいし、日々のメニューの凝り様といったら凄まじい。栄養バランスは元より、成長過程に合わせた献立、季節を感じさせる食材は基本中の基本で、顔を合わせたときや言葉を交わしたときに感じた心身の不足を察知し必要なものを揃えることだとか、今なにを好んで食べているのか、どんな味の気分か、そんなことまで観察しているという話だ。あの出不精の淑女の身体を管理しているのは間違いなく彼であり、その執念といったらいっそ気持ちの悪いものがある。かつての屋敷でも両親の次か、下手したら同じくらい可愛がっていた男であるので、凝るのも仕方がないかもしれないが。
ともかく、信頼はおける。
「というかな。心配事がおありなんだろうよ。なんでお前がわからんかな」
「そういったお話は私にはされない」
「違う違う、お話しいただけるかどうかじゃない。同じものを見聞きして触れてるだろうになんで気付けないのかってことだよ」
サリエルが眉を顰めると相手は大きく嘆息した。それは執事の仕事であって守衛の仕事ではない、と断れば、投げやりに鶏肉を押し込みながら「もうおまえ執事もやれ」などと無茶苦茶な返答があるのみでそれ以上は話さなかった。
寝所に向かうさなかにメイドのユディを見つけこれにも声を掛けると、エマニュエルは既に休んでいるとのことだった。この際にも主人の様子にも鈍く居場所もわからないなど怠慢であると、他の二人よりもなお厳しく諌められている。
「ヘージェがいうには、私はエマ様に避けられているらしい」
「あら、よく言いますわね。サリエルもエマ様から距離をとろうとしますでしょ」
機嫌を損ねたように眉根を寄せる彼女の瞳はサリエルとおなじくらい神経質そうである。仕事もきめ細やかで抜けのない優秀な使用人だ。気も回る。そのぶん周囲に求める水準が高いために他のメイドとの衝突が少なからずあるようだったが、けりをつけるのも早いようで根の深い問題は抱えていなかった。これも、おそらく主のためである。外野に反感を与えているばかりでは些細なきっかけで敵に回ってしまうこともあろう。そんな不確定要素を後先も考えず下仕えの人間が作ってはいけない、と。結構なことだ。
「まさか」
「自覚がおありじゃないの。エマ様に見つめられると貴方は嫌そうな顔をするわ。そうして立ち去ってゆくお姿を何も言わず眺めて、最後には顔を逸らしてしまうのよ」
ユディの瞳が思い返すようにして目を伏せる。サリエルも記憶を辿るが、そうあるべき自然があるだけで自発的に距離を置こうとしたものではない。“付いてくるな”と瞳が語るからそれに従うまでのことだ。そのように伝えれば、相手はか細い首を項垂れて嘆息した。どこか諦めたように務めに戻ろうとする彼女は、すれ違いざま、最後に一度だけ足を止める。「何故護衛を連れないのかと咎めたことがございます。そのときエマ様がなんとおっしゃったか、知っていて?」知るわけがない、という意でサリエルは答えなかったが、彼女もほとんど返事を待たずに前を見据え直した。
「『いくじなしだから』…。よく考えなさい、サリエル=ブラックフォード。妙な噂が立つ前に」
顔のない殺意が音もなく忍び寄って不気味に果たされた彼女の幼き日の惨事のことを、みなよくよく眼裏に、心中に、恐怖や嫌悪や悲嘆の色をもって刻んでおり、そうして二度と繰り返すまいと固く誓っていた。いまだに彼女の両親を死に至らしめた首謀犯は影もみせない。みせないからこそ、エマがその才を芽吹かせ地位を得るようなことがあったときは命を狙われる可能性を危惧しているのだ。その中で、確かに、サリエルはひとり警戒が甘いのかもしれなかった。かの淑女は美しく聡明に育った。けれどもどこか、まるで死の香りを纏うような底知れぬ影をもっている。あるべきものがないような、恐ろしく虚ろな横顔をする。そしてこちらを見つめるとき、その瞳は逃れようのない闇を花開かせ、最奥で真実が巣を巡らせているようであった。それでも立場を弁え口を噤み、過去に苛まれることに甘んずるような怜悧なようすを、彼はどうも好ましく思えないでいる。理由はわからないがただ苛立ちが募るのだ。
憂さを一つ一つ潰すように絨毯を踏みしめて夜の屋敷の通路を歩いてゆく。エマの寝所はこの先にある。かつて彼女は幸せな少女であった。みなに愛され、不安げな表情が僅かばかりでも和らげば、誰もが顔を綻ばせた。ただ、幸せな少女だったのだ。何も知らない、無垢な―――。
一声をかけてひらいた扉の先、例の天蓋が月光を掲げて淡く浮かび上がっている。灯りに透ける厚い膜の向こう、うつ伏せに蹲っていた肩の細いシルエットがいま、気怠げに上体を起こす。サリエルは目を見張った。輪郭の覚束ないからだに、双眸だけがはっきりと光を携えている、錯覚。金糸の髪のきらめきが眼前を覆うそれも錯覚。澄んだ鼻先がこちらをつつくような一呼吸は錯覚。くちびるは真昼への背徳をみせる花弁と同じ、錯覚。
「サリエル」
その音はいつもとなにひとつ変わらないのに、ぞっとするほど甘く響く。
「こっちにきて……」
真っ直ぐにこちらを射竦める、凶悪な、おと。いまここで後ろ手に扉を閉じる不徳もわかっていながら、呼びかけに応じる手足は自分のものではないかのようだ。寝台に寄るかたわら、ユディの警告の意味するところを知ってせめて平静を装う。そんな馬鹿げたことがあるだろうか。サリエルは考える。自分は彼女とその肉親を殺すことに躊躇などなかったのだ。
カーテンの隙間から覗く肌が白く、彼を誘う。肌着しか纏っていないのを察して眉を顰めたつもりだが、果たして理性的な顔ができているものか。「………エマ様、」咎める声も微か。「お召し物を、…」
あつい溜息。人差し指がその唇に充てがわれ、次には口角をあげた。表情はまだ布に覆われてよく見えない。否、見ようとしなかっただけかもしれない。「要らない」彼女の瞳の奥深くに捕らわれてしまうから。
「…………なにを、仰る。いけません」
「そう、いけないの、わたし」首をかしげる仕草。長い髪の隠した首筋をもう一度月光に晒してしまいたくなる。「あなたが来るまで何をしていたかわかるでしょう。ねえ、いけないのよ、わたし」
秘密よ、叱ってくれるでしょう?
うたうような声はけれど、褒美を与える者の高さからこちらを支配しようとしていた。違和感を覚えながらサリエルはそれに逆らえない。掠れる声の一つ一つが脳裏を傷つけて、膿をつくっては、この身体を腐らせてゆく。
気づくと片手がエマニュエルの首に触れていた。はっとしたときにはもうすぐそこで、悦に入った表情。ああ、いけない。娘は小賢しくシーツに背を任せるから、彼はそれに引かれてカーテンの中に収まってしまう。なんて表情をするのだろう。天使のような幼い頃の面影はどこにもない、普段の静謐さすら失われた、艶やかな雌の
視界が覚束ない。もうサリエルは、この淑女をすっかり奪いきってしまわないと気が済まなくなっている。甘えるように伸ばされた右腕をとらえて、首筋を噛むと声がちいさく破裂した。しなやかな肢体はいっそ人とも思えぬ妖しさをもっていて、何かの意思を伴って縋る手足に依拠してひとつの感情を育みたくなる。花を散らしながら憐れに顔色を悪くしている主人は、けれど真意を隠しているに違いなかった。彼女にはこのからだを求める理由がない。閉塞的な生活の憂さ晴らしにしたって、間違ってもサリエルを選んだりはしないだろう。何故なら彼女は、自らの不幸の根元をとうの昔にみつけているはずなのだから―――。
うなだれていた左腕がそっと腰に回る。何かを与えるように丁寧に、指を置いて。ゆっくりと身体のラインをなぞる。やがてその手はサリエルの首に到達し――瞬間、なにかが“降りた”。
急に血の気が引いて、首を掻く。潰れてシーツの上で染みを作ったその虫の、丸みを帯びた腹と背の文様はこのあたりでは見慣れないものだった。けれどサリエルはこれを知っている。咄嗟に顔を上げれば、上体を起こしたエマニュエルがつめたくこちらを見ているのに気づく。
「また殺した。」
この手に鳴いた甘やかと同じ声色で、彼女はそう言った。肌着のほかは何も身につけていない。手元に、箱なども見当たらない。一体どこにあの虫を隠していたというのだ。
「あの日も殺したわ。綺麗なコバルトブルーだったでしょう」
嫌な予感が背筋を駆けている。あの種のゴケグモの毒は即効性ではない。必ず死に至るものでもないはずだ。だというのに、確かに噛まれたときに感じたのだ。彼女の託した殺意を。
「父の部屋で他に、鼠が死んでいたのを知っている? 可哀想に、得もしないはずの毒に苦しんで手当たり次第に生き物を噛んだのよ」
麗しい指先がそっとこちらに伸びて、今度こそほんとうに、金糸がサリエルの視界に映る他のすべてを奪った。頰を掴む手が恐ろしく冷たく、真上に見下ろす白い顔は亡霊の様。そう、ずっと、彼女の心は囚われていた。けれどもその在処はこの命の元にも、肉親の墓標にもないのだ。
そうやって、彼も死んだの。
刻み込むようにして紡がれた言葉は不気味だった。 その声音は確かに、第三者的な語りとはかけ離れていた。“彼”とは誰のことを指すのだろうか。懇意にしていた男のない、生涯のなかで。
サリエルの横髪を梳くように、耳裏をなぞる指。愛されているような錯覚だった。彼女がずっと自分に求めているものを知りながら、それこそ特別な、ただひとりのようだと倒錯していた。しかし彼女は「何か」を愛したのだ。サリエルを見つめるあの視線はその先で何かの像を結んでいる。この温みのすべては“彼”に捧げられている……。
咄嗟に、彼女を呼んでいた。尚も髪を梳く手。いつしか頭を掻き抱くような扇情的な仕草に変わっていたそれはサリエルを昂らせるのに充分なものだった。なあに、サリエル。吐息交じりの返答。確実に首へと迫っていく愛撫を止める術を彼は持たない。サリエルはくちびるを震わせながら、与えてください、と懇願した。
エマニュエル・イーダは微笑む。
「私には兄弟がないけれど、“彼女”はそうではない。踊りなさい、サリエル。この天蓋の中で三日三晩、シーツの上でのたうちまわってみせて」
次にそろりと首を回るものはやはり彼女の手ではない。二つ三つと降り立って、立ち止まる感覚に痛みはなくとも殺意は注がれていた。耳に囁く音がする。「死んでゆく無様が美しかったら………」
わたしを赦すわ、と、女はそう、賢しく艶めいた。
死を囲う純潔 外並由歌 @yutackt
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