死を囲う純潔

外並由歌

エマニュエルの章

 夢を見ていた気がする。夜の密やかさに紛れて、エマは何か素敵なものをみたような気になっている。七つの少女には広いベッド、上質なシーツの上、彼女はしかしそれを日常としていて、次の誕生日には天蓋を買って貰えないかしら、なんて時々考えることがあった。最西の国と呼ばれるシルバルの中流貴族、イーダ家の愛娘であるエマニュエルは、母親に似た美しい金糸の髪とエメラルドグリーンの双眸をもった頬の白い愛らしい少女で、物静かなところが良家の娘らしい風格だなんて親にも家政婦達にも喜ばれていた。彼女自身はその引っ込み思案な性格が少しだけよくなって、はっきりとした物言いや、自由な感情表現が出来ないかと思う機会は多々あったが、彼女を取り巻く環境は、性格の善し悪しではなくただ盲目的にエマニュエルを愛していた。

 すっとした寒気が首まで通る。右腕を毛布から出しているからだ、というのがわかるよりさきに、ネグリジェの薄い生地を上から何かが押さえつけているのを感じて静かに視線をやる。肘を掴むような感覚は腕に乗る黒い小動物のせいだとエマは気づく。そろりと動いた毛に覆われた足が、動物と言うには細長く数が多いことを、なんとなく変だ、という曖昧なイメージで捉えた彼女は、それが危険な生物であることは本能的に理解していた。しかし起き抜けの状況としてはあまりに唐突で、驚くことも忘れてしまって、そろそろと這い上がってくるのを呼吸が荒くならないよう気を付けながら見守るばかりである。彼は三対か四対の足をからくり的に動かしながら、確かにエマの幼い腕を踏みしめて、あっというまに肩口まで登ってきた。鼻先を向けるのは少し怖くて、彼女は天井を眺めるようにしてその生物の動きを待つ。この頃にはふいに(蜘蛛、かもしれない)と思い付いていて、こんなに大きな蜘蛛がいるものだろうかと考え、また毒蜘蛛という存在なら聞いたことがあったので、この黒い大きな虫は私を殺してしまうかもしれない、ということを肌で感じていた。それは先の通りの本能的な警戒であり、エマにはまだ生死の概念が育っていなかったために、毒を注がれたときにどうなってしまうかまでは想像が及ばない。

 蜘蛛はしばらく動かなかったが、やがてどこかの足でエマの露出した首もとをちょっと撫でてみせた。ちくりとしたのは爪か毛か、今刺されてしまったのか違うのか、少女の呼気が震える。もうひと撫ぜ。咄嗟に目をつむる。(私は人間なのに、蜘蛛に捕らわれた蝶とおんなじ気持ちになっているのかしら?)体のつくりもまるで違う、ティーカップのソーサー程度の大きさの生き物に、自分が支配されているのを彼女は不思議に思う。(偉い人はみな大きいものだと思っていた……私よりも)蜘蛛の足がひとつ、エマの顎にかかる。求められているような気がして彼女は顎を少し上げた。自分の一番大事なものを捧げるようなことに思えて、夜の空気と蜘蛛の目下に晒された首筋は酷く敏感になっている。一歩、別の足でつつかれた肌は、速くなった鼓動を相手に教えるように血管が脈打って、熱くなっていくのを感じた。

 つ、と新たに触れる部位。蜘蛛の触肢が押し付けられたのだが、エマには見えず、何が起こったのかわからない。もぞもぞとくすぐるように口元のそれで悪戯をして、呼応するように息をあげていく少女の首を、やがてじっくりと、焦らすように甘く、鋏角が噛んだ。堪らず小さく悲鳴を上げた彼女は、数秒遅れでどうやら噛まれたらしいことを把握する。ちくりとしてそう痛くはなく、むしろその刺激はまだ目覚めない少女の快楽を煽るように艶やかなものであった。毒を注したのかという心配は、案外とエマから退いてゆく。(それでもいい)恐怖に紛れる何か素敵なものに、このときエマは囚われてしまった。(それでもいいの、でも、すぐに終わらせないで。)

 蜘蛛の鋏角は肌を貫いてはいなかった。プレッシャーキスのようにやわく、その行為は未遂に終わる。彼に思考や感情があるとは考えがたいが、躊躇をしたような間が再び生まれ、少女を手にかけてしまうことを惜しんだのか、じりと僅かに後退した。そうしてネグリジェが口を開けているのを胸元に見つけて、素早い動きで中へと入っていく。胸、腹、足の付け根……と、立ち止まっては至るところを触肢でなぞった。死に近い恐怖が体を這うことに、エマを走る神経がぞくりとした刺激を脳へ送り続ける。幼いながらに彼女は、この虫が自分を犯していることを感じていた。内腿、腰、それから背中へ。必死に唾を飲み込み、吐息に漏れる声をころそうとするけれども、吸い付くような八つの足先は彼女には予測しきれない。愛故の、残酷な愛撫にも似たそれを、少女は余さず受け入れようとした。誰にも邪魔されたくないとさえ思った。声をあげて家のひとに見つかってしまったら、この甘美な時間は終わってしまうのだ、と。

 しかし、そんな願いこそ一睡の夢である。扉の先、廊下のずっと向こうから、金切り声が響いてエマははっとした。竦めた背で蜘蛛も動きを止める。ばたばたと、騒々しい足音。手伝いのヘージェが人を呼んでいる。彼を潰さないよう俯せになってドアを見つめ、彼と息を揃えるつもりでゆっくりと丁寧にベッドから降りる。蜘蛛は大人しく、そして小賢しく、エマの腰を回って安定した位置で留まっていた。静かに床を辿って部屋を出る。

 エマの部屋から少し離れた母親の部屋で、何かあったようだった。それが悲劇的なことであるのも、彼女は感じ取っていた。いつも朗らかで笑顔を絶やさないヘージェが怯えたように身を縮めていて、エマがすぐ後ろまで来ているのに気づいても驚いて追い詰められた顔で、ただこの先のことを見せまいと、こちらの肩を掴んで私室に戻そうとした。


「ヘージェ」

「いけません、エマ様。お戻りください。お休みになって」

「ヘージェ」

「お母様は大丈夫です、今サリエルがやっています。心配なさらないで、お休みになってください」


 そこでヘージェを鋭い声が呼んだ。エマが振り返るより、彼女が悲鳴を上げるほうが早かった。逃すように引っ張るヘージェの腕の中で、その視線の落とされた先、絨毯の上を走る鮮やかな青い毛並みの蜘蛛を見る。エマについているものより一回りくらい大きなものだった。それを早足で、守衛のサリエルが追ってきている。「エマ様、お部屋には戻られませんよう」彼が低く忠告し、ヘージェが狼狽えて、毒蜘蛛です、逃げて、と少女の後頭部を押すように撫ぜた。エマは動くことが出来ずに青い蜘蛛とサリエルの靴先との縮まる距離を見守っていた。



「———エマ様、御無事ですか」


 サリエルは返事を待たず跪いて顔色を窺い、他の手伝いたちにヘージェを捕らえるように、また別の守衛の天神あまがみにエマの寝室を調べるように指示した。その間も、エマはサリエルの黒靴を汚す虫の体液から目が離せずにいた。無意識に、腰に潜む彼を後ろ手に庇う。それまでにサリエルを特別怪しいとか、恐ろしいとか思ったことはなかったのに、エマニュエルの中では蜘蛛を潰した瞬間からその足を持つ男が信用ならない人物になっていた。

 天神が戻ってきて、エマ様の寝室には何も、と報告するのを、彼女はどきどきしながら聞いていた。サリエルの黒い目が全て見抜いてしまっているのではと怯え、気がついたときには天神の袖を掴んでサリエルを避けるような格好をとっている。天神が、無理もない、と笑って、それからまた緊張した面持ちになって「旦那様は」と小声で言った。サリエルは何も言わず見返していて、それがそのまま答えらしかった。




 昼から茶菓子の準備が始まる頃までの時間帯、エマニュエルは書斎で本を開くことが多い。叔父ももう読まないような趣味の合わない本や古い本が積まれた、ほぼ書庫と化した奥まったところにある部屋なので、前の屋敷の使用人はエマが一人でそこへ行くのを大層心配するのだけれども、彼女には警戒すべき人物が絞られていたのでその真偽はともかくときどきの油断をやめようとはしなかった。むしろそうした様子を見せることで相手を誘い出そうなどと、考えてもみる。ただし、何か企てたところで徒労に終わってしまいそうであったから、その先に具体的な構想はなかった。彼は簡単な罠にかかるほど馬鹿ではないだろう。十六になろうと、エマは単なる少女なのである。

 あの日、両親はタランチュラの毒で死んだ。父親を噛んだ蜘蛛がどんな色かエマは知らないが、母親のほうはコバルトブルーという品種であることをずいぶん前に調べている。タランチュラは人が死に至る毒を普通、持たないこともまた。暗殺の方法としては不自然なまでに整合性を欠いており、当時の守衛たちの見解では首謀者たちの存在誇示も含まれていたとされ、その後も警戒を怠ることはできないと纏められた。一人娘であるエマニュエルが、イーダ家をどのようにしていくかというところを、彼らは注視するだろうと。———いまのエマにとっては、殊に興味のない話である。叔父のもとに身を置くことになったのも屋敷の主になることを望まなかったためで、強いて気がかりを挙げるのであれば、両親と同じように狙われているかもしれないエマを部屋に戻そうとしたことで容疑を掛けられていたヘージェの件くらいのものだった。もちろん彼女は毒蜘蛛という存在と主の不幸に冷静を欠き判断を誤っただけで潔白で、疑いが晴れた現在は変わらずエマに仕えてくれている。あれ以来蜘蛛は出ていないし、エマの部屋からは終に黒いタランチュラなど見つからなかった。

 ブラジリアンブラック、というのが彼の品種名である。一般よりも体長は小さく、三日もしないうちに床をのたうち回って死んだ。おそらく、自身の携えた毒に蝕まれたのだった。人に見つからぬよう焼却炉に彼を捨てたときエマは乙女でなくなったような感じがして、それから眠る前に神様の名前は唱えない。雄蜘蛛の寿命は二年だ。じきに死んでいたから同じことなのかもしれないが、黒靴に潰れたコバルトブルーの画も脳裏から離れぬままである。

 書斎に誰か入ってくるのが聞こえて足下に開く本を閉じ、そちらを見る。身構えて、いつでも立ち上がれる恰好に座りなおすのも、きっとあまり意味はない。「……エマニュエル様」重い声が彼女を呼んだ。黒い瞳。「またこのようなところに。淑女の読み物はないそうですが」サリエルはこちらに目線を合わせて座ったりしそうになかった。うつむくふりをして彼の靴を見る。


「……私には楽しいの。ほうっておいて」

「なにせ古い本が多い。掃除はしていますがどうも埃っぽいですね。あまり長くいらっしゃるとお体を悪くなさいます」


 言いながらエマから先程の本を受け取ろうと手を伸ばすので、応えた。彼は少し頁をめくってみせ、顔をしかめる。その間、エマは立ち上がってスカートの裾を引き、はたくように揺する。砂ぼこりが微かに舞った。本当に掃除しているのだろうか。


「……エマ様。お気持ちはわかりますが、蜘蛛など………」

「どうして」

「調べてどうなさる」

「どうもしないわ」


 相手の表情は見なかったので、呆れているのか探っているのかわからないが、押し隠すように細く息を吐いた気がする。「いいですか」視線はずっとこちらを窺っているようである。「この九年間、何もなかったとはいえ貴女様も狙われていたのは事実なのです。不用意に探っては、向こうの鼻につくこともございましょう」静かに見返せば底冷えのする光とかち合った。よくも平然とした顔を、と思うのと同時に自分もこんな目をしているのだと自覚する。自覚して、一度瞬きをしたがその目から逃れようとはしない。彼の眉が煩わしそうに顰められたのを見る。

 ときどきサリエルに、純粋にエマの身を案ずるような言動があるのをどのように捉えるべきか、彼女は決めかねていた。そらぞらしいものにも、ただエマには測れない理由を核に行ったものにも見え、それは憎むべきものがどこにあるのかよくわからない、視界の悪い心理戦へ足を踏み入れるようなことに思えた。ともかく、蜘蛛とそうしたような、交わすものもない内で心を通わせるあの親しさとは全く対極にサリエルはいて、理解どころか意図を読むことすらエマには億劫なのである。

 それでも彼に、「……殺されるつもりはないわ。」彼女を殺していいのは親を暗殺した男でも、全知全能の父でもない。


「………囚われておいでだ」

「……」

「この本は燃やしましょう」


 急にそんなことを言い出す彼をエマは止めない。サリエルの中でもエマの中でも、無数の暗黙の了解が交わされて、何か、知らぬ間に話がついたのだ。本を持つあの手が炎を出して灰を作る様を瞳に描いて、もう一度胸の底にあの黒々とした、神様の下では狂気と呼ばれるものを降り積もらせていくのはその最中のことだろう。彼を暴いたところで法には晒さない。蜘蛛を放たせた誰かついて追及する気もない。“彼”と同じ焼却炉へ送ることだけを、エマニュエルは観念的に望んでいた。

 そろそろお茶の御時間になります、と空けた右手を差し出すのを大人しく取った。サリエルは未だ、賢しい女を嫌がるような目をしている。

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