プラスチックのプレゼント

真花

プラスチックのプレゼント

 あそこの酒屋さん、丹後たんごのおじさんの左手、見たことある? かしわさんが声を潜めて私に耳打ちする。そんなに小さな声にしなくても、今公園には大人は私達二人だけだし、ブランコに乗っているうちの娘も柏さんちの娘さんもそっちに夢中で、私達の与太話なんて聞いちゃいないし、そんなに大事な秘密なのだろうか。「いえ、見たことないです」、向こうの滑り台では小学生くらいの子供達が列を作っている。私は彼女の方を見ずに、耳だけを預けて、滑り台からおまんじゅうを転がしたように滑る誰かの息子を見る。くっくっく、と堪えるつもりのない笑い、公園デビューは私の方が後だけど、子供同士は同い年だから、柏さんとは上手くやっていきたい。

「プラスチックなのよ、小指が」

 へええ、と言ったものの、だから何なのだろう。ヤクザだったと言いたいのだろうか。そりゃ確かにヤクザは嫌よ。でも、足を洗ったなら今の姿を見た方がいいんじゃないのかな。「そうなんですね」と中庸的な、もしくは凡庸でつまらない相槌を打つ。彼女は小声を続けて、私の耳は聞き取ることに忙しい。その小指のプラスチックがね、時々別のものに変わるの。よっぽど真剣に観察しないと気付かないわよ、でもね、絶対に違うものに変わるのよ、時々。微妙な色合いとか、角度とか、指のね、そう言うところをちゃんと見ないと、見分けられないの。彼女は言い終えると私の耳の前の特等席から弦を弾くように離れた。どうしてそんなに観察しているのだろうか。限界を超えて暇なのだろうか。それとも丹後さんに特別に興味があるのだろうか。私は柏さんの顔を見る。彼女の首が下からり上がるように赤くなっている。顔までは届いていないけど、その赤くなるなり方は、激しい秘密に近付くことに興奮したときのそれだから、彼女にとって丹後さんのプラスチックの指にはまだ何かがある。でも核心に鳥が落ちるように直線的にぶつかるのはやってはいけない。私の悪い癖で、夫によく言われる、秘密を振り翳したい相手にとって、その答えを言うが楽しいのであって、本当に秘密を言いたい人は最初からそこに飛び込むから、相手がそうでないのならちゃんと泳がせなさい。僕も泳がして下さい。でも、夫のそれに付き合うのは面倒で疲れるからしない。今は、柏さんを泳がせなくてはならない。

「すごい発見ですね」

 彼女は白熱灯に光をつけたみたいにじんわりと笑って、そうなのよ、でも不思議でしょ? 私がどうしてそこに気付けたのか、山田やまださん、分かる? もちろん分からない。でも不思議ではある。「不思議ですね」と返すと、彼女はさらに嬉しそうに、それは僅かに妖艶な色香を伴って、目を細める。私は本当は癖じゃなくて、秘密を掲げてあれやこれややることが嫌いだ。そこに楽しさを見付けることが出来ない。話術的面白さなら他にいくらでもやりようがある。でも私は公園での自分の位置を守らなくてはならない。たった一人が相手だとしても、隙を見せる訳にはいかない。彼女は再び私の耳許に口を寄せる。彼に指をプレゼントしている人がいるのよ。

「プレゼント」

 どんな気持ちで渡すのだろう。私の選んだ指を付けてね、って、サイズ合ってるかな、って、指輪のノリで行くのだろうか。彼女は続ける。そう、プレゼント。私知ってるのよ、それをあげてる人が誰か。でも、それが誰かは流石に言えないわ。「それってのっぴきならない仲の人ですよね」彼女はさらに赤い範囲を上に上げて、もう顎まで赤くて、そうよ、禁じられた男女の仲よ、と耳の前にしては大き過ぎる声で言い放つ。私はここが勝負所だと、神妙な顔をする。その誰かはほぼ当人に違いないけど、それを指摘したらこれまで、昨日までも含めて、積み上げて来たものがそこにある砂場の城のように崩壊してしまう。かと言って別の誰かをゲスすることは避けなくてはならない。誰も傷付けない、もちろん私のことも傷付けないように、言葉を選ぶ。

「でも、体に付けるプレゼントって、粋ですよね」

 彼女はもう、それが自分のやったことだと吐露してしまいそうな勢いで息を吸って、でも、決壊寸前のダムが頑張るみたいに耐えて、飲み込んで、ふぅぅ、と長嘆息、私の耳にその息がかかった。かけるだけかけてから、彼女は元の姿勢に戻って、もう一度深呼吸をする。

「そうね。粋かも知れないわね」

 彼女はオーガズムの後みたいに満足そうな顔をして、視線を私から外してブランコの二人に向ける。私もそれに倣う。子供二人はそれぞれ独立にブランコを漕いで、知らなくていいことを知ることもなく漕いで、私は柏さんの娘さんの父親が丹波さんなのかも知れないと自然発生的に考えてしまって、打ち消すために首を振る。それは考えてはいけないことだ。

洋子ようこちゃん、そろそろ帰るわよ」

 柏さんが声を掛けたら、すぐに洋子ちゃんはブランコを降りて、私の娘も同じようにブランコを止めた。

「それじゃあ、山田さん、またね」

「はい、また」

 彼女は去り際にウインクをした。それは私の仮説が正しいと示しているように感じた。

「ママ、私も帰るの?」

「そうね。もういい時間だし。でもちょっとお店に寄ってから帰りましょう」

 はーい、と娘が私の手を取って、私達は公園を後にする。最短距離で丹波さんの酒屋に行く。様子を伺いつつ進んだから柏さんがここにいる可能性はない。

 入店しても特に丹波さんは反応せず端っこのレジのところで競馬新聞を読んでいる。ノンアルコールサワーを二本持って、そのレジの前に行く。「いらっしゃい」、彼は新聞を脇に置いてレジを打つ。右手で。私が興味があるのはあなたの左手、その小指。私は視線の動きがおかしいと思われそうだと分かりながら、彼の左小指を凝視する。カウンターに置かれたその小指には、何もなかった。「二百五十円」私は言われた通りにお金を出す。でも、その指に何もないなんてことはない筈だ。限りなく精巧なのだろうか。プラスチックは質感を人体に近付けることが出来たのだろうか。彼女の真っ赤な首は顔は何だったのだろうか。

「あの」

「はい?」

「失礼なことを訊いてもいいですか?」

 彼は六月の空みたいに曇った顔をする。「別にいいけど、答えられないことは答えないよ」

「ありがとうございます」言って、何と言えばいいのか迷う。きっと私の首は真っ赤だ。「ママ、まだ?」娘の声を無視する。どう、訊けばいいのだろう。プラスチックを付けていますか? それは指がないことを前提に、もしくは体のどこかが欠損していることを前提にした質問だ。無礼過ぎる。指は全部ありますか? これも同じだ。そもそも質問の目的の意味が分からない。どうして私が彼の体の問題に関心を持たなくてはならないのだ。それは柏さんが不倫をしているからと決め付けているからだ。彼女のことをここで引き合いに出すことは出来ない。……どう訊こうにも、柏さんか体の問題に触れることになってしまう。それはいけない。絶対にいけない。もう顔まで真っ赤だろう、だけど。

「いや、すいません。何でもないです」

「そうかい」

「失礼します」

「またのお越しを」彼は私に興味がなさそうに言うと、競馬新聞に戻った。

「ママ、何してたの?」

 娘が私の手を握ったまま、顔を覗いて来る。私はじっと彼女の目を見る。

「ちょっと間違えちゃっただけよ」

 間違えて冒険しそうになった、と胸の中では呟いた。娘は、ふーん、と納得したのか興味を失ったのか、前に向かって歩く。


(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

プラスチックのプレゼント 真花 @kawapsyc

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ