誰かになりたいと望むことは、恐らくはその他人ひとに対するもののなかで、最大の親愛の証の一つであろう。惟子も今しがた、芳香との同化の果てに母親の時代へ回帰したいという嬰児退行の夢を見た。そしてまた恐らくは人は、斯様な自己を介した透視術によってでしか、他者を見ることも能わぬのであろう。然あれば、人は、凡ゆる愛と名の付く感情に於いて、自己愛を介してでしか、その愛の情を果たすことも叶わぬのであろう。初めから感情は(それが外部へ向けられたものだとしても)、自己から一歩も先へ歩み出でてはいないのである。例えば思考実験的に、他人が確かに自己を愛しているという場合を仮定して見せたとしても、その愛を認めるべきおのれの心中に於いては、結句自己愛を相手の他己愛の弁護人に立てて代弁させることで審判する他にないというのが、凡ゆる愛の言葉に纏わる哀しさの所以であろう。如上の思考実験での仮定の原理的な不可能性に原因した空虚が、そのことを如実に物語るのだ。

 確かに、我々は、我々の感情が他者に対して齎したものの反映を認めることはできる。例えばおのれの言葉によって、誰かは喜び、或いは悲しむであろう。しかしそれでさえも畢竟、深淵に落とした石の鳴らす音の反響でその深さを推し測るが如くの、他にあてのない独り合点に過ぎないのである。我々が他人の感情について確証を持つ場合には、石の落下速の確かさなど及びもつかない経験的事実とか呼ばれる悪癖にも似た覚束ない観念に倣う他ない。


 いくら探しても見つからぬ棘に、芳香ばかりでなく惟子までが飽いてきた。芳香は膝の上に乗せた猫にするように、惟子の脚を無心に、無意味に、撫でている。芳香に去来した先ほどまでの恐ろしい孤独な観念も、そういつまでも少女の心の中心に座を占めない。観念的脅威などと呼ぶものは、少女の心根に於いては、ときどきに気まぐれで聴く暗い音楽程度のものに過ぎず、束の間涙を誘うこともあろうが、だとしても大した脅威には成長し得ないことの屡々なのだ。それに、少女の涙は必ずしも精神的脆弱の証ではない。寧ろそれは悲しみに対する強かな免疫反応である。涙は感情を物質化してしまう。くしゃみのようにそれを体外へ排出する。とるに足らぬものにする。少女の感性は、斯様な生活力に支えられて、感情を涙で消費することの常套は、寧ろ不感にも似た場所へと彼女らを運んで行く。悲しみが本来の悲しみの意義を持たずに、単なる脊髄の反射になれば、いよいよそれは習慣の勝利であろうが、とまれ悲しみが本来の意味での悲しみ足り得る(つまりは涙が涙の意義を持ちうる)感じやすい時分にのみ、少女は少女でいられるのだ。その意味に於いては、涙を見せぬことを矜持とする男の方が、寧ろいつまでも少女的であり続けるのやもしれぬ。


「ねえ、芳香さん。そんなにわたしの脚がかわいいかしら?」

 惟子はそう問いかけながらも芳香を見ずに、後ろ手で上体を支えて半座位のていで天窓のむこうを仰ぎ見た。そこから僅かに這入る風を鼻先に感じて、それが心地よい。芳香のする脚への愛撫もまた、いま彼女にはこの春風のように感ぜられる。

 芳香は答えない。まるで何かにとり憑かれたかのように、壊れやすいものを気遣う手つきでゆっくりと愛撫を続ける。

「電球を消したいわ……あんなもの、要らないわ」

 惟子はのぼせたような口調で話し始めた。


「わたし、あの窓から這入る光が好きよ。空から来る光が好きよ。なんといっても、あの窓を開ける瞬間が好きよ。まるで、光よあれ、だわ……ひかりって素敵ね。どうして光なのかしら? どうして暗いままではいけないの? どうしてかしら、どうしてかしら……例えば、どうして音だけではいけないのかしら、どうして香りだけではいけないのかしら? ねえ、芳香さん。あなたはわたしの脚をさすってくれているわね? わたしにはそれだけでも十分よ。あなたがそこにいることがわかるもの。光なんて贅沢だわ」

「でも、光がないとあなたを見られないわ。あなたも、わたしを見られないじゃない。それでもよくって?」

 芳香は愛撫する手を止めて、漸く惟子に答えた。

「でも、見えるって、残酷なことではなくって? 見えるから、わたしたちは不幸なのではなくって? わたし知っているわ。目が見えない女の子のお話よ。彼女はね、お話の最後に手術を受けて見えるようになるの。でもね、その後すぐに身を投げてしまうのよ。ねえ、見えるって、やっぱり残酷なことではなくって?」

「分からないわ。惟子ちゃん」

「芳香さん。あなたはかわいいわ。でもこれって、残酷なことでは、なくって?」

 芳香は始終視線を惟子の脚の上に落としていたが、彼女のこの言葉に面を上げてしまった。思いもよらぬ、神妙な、悲憤の念さえこもったようにも見える惟子の眼差しが、そこにはあった。芳香の心は少しくたぢろいだ。二人の心の間に横たわる無限の距離に、一寸の隔たりが加えられた。

「ねえ、芳香さん。さっき下でしたお話。まだ覚えている?」

「ええ、覚えているわ」

「科学の神話にはね、黙示録だけではなくて創世記もあるのよ。光よあれ、と、確かに誰かが仰ったのよ。これはね、重立ちの学者先生も請け合いのことよ。これを宇宙の晴れ上がりと言うのですって」

「誰が仰ったの? 光よあれ、って。神様かしら?」

「もしかしたら、そうかもしれないわね。神様かもしれないわ。神様がいたら、死ぬのは怖くなくなるかしら?」

 芳香は口ごもる。

「……もし神様がほんとうにいたのなら、生きるのが怖いわ」

 惟子は芳香の顔色を窺った。今自分が問うたことの意味、そして彼女が答えたことの意味、その両者に、果たして少しでも正当なものがあっただろうか? こんな埒もない不安を、惟子は抱いた。宇宙の話、神様の話、そして、物語に準えるべき人生、これらのことが意味する解釈さえも能わぬ茫漠とした雲のようなものが、交々到って、彼女の心に帳を降ろした。どうして自分が不安にならなければならぬのか、惟子は不条理に思った。このときの惟子は、この不条理とおのれの不理解とに差異を見出すことが出来ずにいた。知らぬから不条理が生ずるのだという若さ故の盲目が、彼女にすこしの勇気を与えた。知ろうとすることの、愚かで、邪気の無い勇気をである。

「生きることは、怖いことだとわたしも思うわ。神様がいなくてもそうよ。でも、生まれたからには生きなくてはならないのよ。芳香さん、どうしてあなたには神様の下で生きるのが特別怖く感じるのかしら?」

 芳香は渋面を作ると、言った。

「きっと……純潔ではいられないからよ。堕ちなくてはならないの。わたしも、みんなも」

 聞くと、惟子は後悔した。芳香の抱く憤りは、それを告白させてしまうのは、惟子には罪に思われた。曝すことも、暴くことも、許されぬことがある。これは些細な例であろうが、それでもやはり、罪は罪である。罪には罰で報いるのが道理である。しかし、誰に二人を罰することができるのか。神であろうか?


 窓外から何やら騒がしい音の立つのが聞こえた。その音は忽ちに高まって来て天井を覆った。二人の天文台の上を春時雨が渡ったのである。

 惟子は跳ね上がると手回しハンドルに飛びついた。惟子の必死さと比して、呑気な速度で塞いでいく天井のスリットを、芳香はあたふたしながらも何もできずにただ見守った。取り返しのつかぬ時間の過ぎた後になって漸く望遠鏡は驟雨から守られた。

 惟子は一息つく間もなく脚立を使って望遠鏡を登り、胸のあたりの高さにまで来ると筒口にはめられた大きな補正レンズを覗き込んだ。芳香はこんな彼女の身のこなしに感心しながら、近所の男の子たちのする木登りの様子などを思い浮かべたりした。

「水が入ってしまったわ!」

 言うと彼女はレンズを取り外そうとして腕に力を込めた、と、靴下だけの方の左足を雨粒で滑らせよろけて、危うく墜落しそうになった。

「惟子ちゃん! いくらあなたでもひとりなんかで持てっこないわよ。それに、せめて上靴くらいは履いてちょうだい!」

 芳香に怒られたと思った惟子は、自分の必死さが恥ずかしくなって、望遠鏡に抱きつきながら舌を出しておどけて見せた。そんな彼女に芳香は呆れたような笑みを返してから、上靴を拾って脚立のそばに寄った。惟子は脚立の天板に腰を下ろすと、左脚を芳香の顔の前に差し出した。

「せっかくこの間きれいにしたばかりなのに、またレンズにカビが生えてしまうわ」

「また二人で磨いてあげましょう」

 芳香は惟子に上靴を履かせてやる。

「まだ一度もあれで星を見られていないわ」

 惟子が立ち上がってまた登ろうとするので、芳香は脚立を支えてやった。

「惟子ちゃんのお父様も、きっと許してくださるわ。一粒種の娘が遅くまでこんな場所に居残ることが心配なのね。でも、わたしたち、そんなにお子様ではなくってよ? そうでしょう?」

 雨脚は弱まるどころか次第に強くなる。半球状の天井に雨音は強か響くから、二人の声も、それに負けぬよう自然と大きくなる。

「芳香さん。あなたのお父様はあれから何も仰らないの?」

「ええ。でも、まだ惟子ちゃんのことを不良少女だと思っているようだわ。わたしのことを誑かしているって」

「ふふ、間違っていないわね。昨日まで遅刻の一つもしたことのないようなお嬢さんが授業のサボタージュなんてしちゃったら、それは誰でも思うわね」

 惟子は鏡筒を覗き込みながら受け答えする。雨音が和らいできた。

「でも兄さまがね、惟子ちゃんのことしきりに庇うのよ。なんだか怪しいわ。わたし、まるでだしに使われているみたいでイヤ」

 芳香は惟子を見上げたが、彼女の顔は鏡筒に隠れて見えない。ふと芳香は、今望遠鏡を覗いたら、そこにおおきな惟子の顔があるのを想像してみて、それがおかしくて少し噴き出した。

「ねえ芳香さん。ずっとわたしのそばにいてね」

 そんな芳香の様子に気が付いたのか、惟子はまじめな声音を作って、そう言った。

「どうしたの、惟子ちゃん?」

 驚いて芳香は問い返したが、惟子は答えずに脚立から降りようとした。芳香は彼女の手を取ってそれを助けた。

「何でもないわ。ごめんなさい」

 惟子が床に降りた後も、芳香はその手を離さない。


「惟子ちゃん。わたし、ときどき怖くなるのよ。惟子ちゃんも、どこにも行かないでね。どこかに行きたくなったときは、いつもみたいに、わたしも連れて行ってね」

 惟子は芳香の懇願を聞きながら、ふと彼女の恐れていた死のことが頭をかすめた。しかし、死よりも先に、もっと肯ぜられない人生があることの方を、惟子は恐ろしく思った。

「芳香さん。あなた、生きるのが怖いとも仰ったわね? 神様の前で堕ちてしまうのが」

「あなたの前で堕ちるのも怖いわ。神様でなくてもよ。わたしたち、仮令たといずっといっしょにいられたとしても、いつまでもお互いのことを好きでいられるかしら? そのことを考えると、とても怖くなるの……ああ、ごめんなさい、ごめんなさい、こんなこと言うつもりじゃなかったのよ!」

「いいのよ。謝らないで、芳香さん、あなたは何も悪くないわ。わたしだって、同じようなことを考えることがあるもの。でも、それって誰が悪いというのでもないわ」

 雨脚がまた強くなる。しかし、雨音に慣れた二人の耳はその変調を聞き分けない。と、不意に雷鳴が響いた。どよめきは古い校舎の壁を押して、芳香の肩が跳ねる。

 惟子は雨漏りが心配になり天井を見上げたが、すぐに芳香のことを思い出して、自分の場違いな憂慮を後ろめたく思った。

 天井には電球に照らされた望遠鏡の影がいっぱいに広がっている。その影絵の細部まで精緻に引かれた線の迷いない輪郭を認めると、惟子はそれに見入ってしまい、今しがたの罪悪感をすら彼女は忘れてしまう。


「最初にお月様を見ましょうね。あなた見たがっていたじゃない。最初はお月様よ、絶対よ」

 惟子が言う。芳香も惟子につられるまでもなくひとりでに望遠鏡を見上げていた。彼女もまた、望遠鏡それ自体ではなく、その背後の影に心奪われた。存在の確かさが、ものそれ自体ではなくて、それのつくる陰の方にあるのだという不思議な感覚が、このときのふたりに同時に去来した。

 半球の天井に歪められた輪郭の直線、何かの錬金術の奥義の秘められているかにも見えるこれら図形の交錯、光を集め、それを拡大し、自ら輝きを放ちながらも遠すぎるがゆえに夢のような瞬きの中に姿を隠す諸星の倨傲な美しさの真実を暴きたてる容赦のない能力の反映が、この影絵の中にはある。だからこそ、何ものにもまして、それは確かな存在を持ち得るかに、ふたりには見えるのだ。

 ふたりは、この余りにも鮮烈な存在の確かさを前にして、しかし互いに異なる感想を心に抱いた。

 芳香は、この望遠鏡の幻影に比して自分の肉体の如何にあやふやであるかに、不安を抱いた。人生は肉体を通してでしかやってこないことは、疑う余地もない謂わば公理である。彼女には、人生というものがこのあやふやな実態を通して訪れるということに、譬へもない不安感を抱くのである。然るに、その漠然とした不安感は必ずしも死への願望には結びつかない。死への望みは、恐らくは、肉体の自覚を経てしか訪れないのである。その自覚がなければ、生きることも、死ぬことも、同断に、靄の中に獏としてその姿を隠してしまうから。今芳香の抱く死を含めた人生全体への恐れは、単に未知への恐れに過ぎず、これは人間の最も原初的な恐れと、寸分もたがうところはない。

 一方で惟子は、この影によって見出される形態の能力に思い至ると、その影絵を透かしにして見た自分の肉体の、物として備わる能力の機械じみた一方向性に、この存在するということの不条理への固執に、吐き気にも似たものを催した。彼女にはおのれが、まるで女という病に侵されているような、そのような理不尽な考えさえ浮かんできた。男という名の病があったとしても、それは全くそのまま、人間という名の病、とすることもできてしまうであろう。男は女ほどには自分の肉体というものを意識する機会に恵まれない。十分に若い男にとって、肉体はまるで空気のようにそこに存在している。存在と空間は地続きになって、病まない肉体は己を顧みない。或いはこうとも換言できるだろうか? 肉体に於いても精神に於いても、病める状態とは、己の存在を顧みる状態であると。存在への自己意識ということについて、それへの無頓着は女の場合も平時には男と同じことが言えるだろうが、痛みが、肉体の内部から出でる不愉快が、月の満ち欠けと類縁の法則で、肉体それ自体への意識を促しにやってくる。少女は斯様な肉体への自覚によって、女になることを、そして人生に当面しなければならないことを強制されるのである。

 少年ばかりが生まれたままの人間であり続け、少女ばかりが女にならざるを得ない。惟子にはそのことが悔しかった。光など受け入れてなるものかと思った。全てのものが、永遠に闇の中にあればよいとも思った。或いは、何もかも(どんなお話も、宇宙でさえも)始まらなければよいと思った。それが平等ということではないか? 完全な平等、そんなものは掛け値なしの完全なる闇の中にしかありえないのではないか。見えることが悪いのか、在ることが悪いのか、どちらも悪いとすれば、光こそがその主犯であろう。肉体は、光との共犯だ。或いはそれの抜け目ない造反者であろうか? 肉体はこの光から闇を匿っている。その中から、痛みが、不愉快が、存在に存在することを知らしめる世の不条理の子供たちの系譜が、脈々受け継がれているのだから。

 天地を成せと誰が言ったのか、光よあれと誰が言ったのか、不条理なお話は全てそこから始まっていたのではあるまいか。もし、闇よあれ、と、仰せであったのなら、如何に人々は平等であったろう。如何に平等に不幸であったろう。もし反対に我々の肉体が闇から光を匿っていたのなら? 惟子には何も分からない。

 この暗いクーポラの中で、ただ光の到来を待ち続ける他にないふたりであるのなら……


 ふたりは手を取り合いながら、しばらくの間無言でこの影の作る威容を眺めていた。その存在の持つ否応ない強制力が、徐々にふたりの心中に高まってきて、感情がそこから溢れそうになった。心から溢れた感情は外気に触れると酸化して言葉になる。先にこの錆びた感情を零したのは芳香であった。

「わたしね、こどもの頃に読んだお話に出てくる女の子がとても好きだったの。彼女はね、身なりは卑しいんだけれど、心や振舞いはまるで世界の王女様みたいで、小鳥や虫たち、お花までもが、まるで彼女の召使さんたちみたいなの」

 芳香の今にも話し出しそうなのを予感していた惟子は、己の感情を圧して、その言葉に黙って耳を傾けた。

「その子はね、ある日王子様に恋をするの。身分の違う叶わぬ恋よ。でもね、それから彼女は変わってしまうの。本当のお姫様みたいになってしまうの。それでも反対に、世界はもう彼女の持ち物ではなくなってしまうのよ。一人の王子様のために、彼女は他のすべてを擲ってしまうの。ねえ、惟子ちゃん、わたし、男の人が怖いわ。彼女をこんなふうに変えてしまったのですもの……」

 言い終わると、芳香は惟子と繋がれた方の手に、知れず力を込めた。彼女は続けて問いかける。

「惟子ちゃんも、わたしの兄さまが怖くなることはある?」

 問われると惟子は独り言を呟くときのようにして答えた。

「ないわ。全然怖くなんて、ないわ……」

「あなたは強いわね。とても強いわ。あなたはいつまでもお姫様みたいね。わたしもあなたのようになれる?」

「芳香さん、よくお聞きになってね」

 惟子は芳香の目を見た。その瞳の中に、自分の姿の映じているのが分かるほどに。

「わたしたちはね、いつか来る死に怯える前に、それよりももっと早く来る人生に備えなければならないのよ。色んなことを経験して、色んなことを等し並みにしなければならないの。その上で人生を迎え入れなければいけないの。全部他愛もないことだわ、って、そう言えるようにならなければならないの」

「わたし怖いわ!」

「怖がらないで」

 そう惟子が言い切るか言い切らぬかのときに、忘れていた雷鳴が再び起こって、校舎の電源を断った。

 慈悲深い闇がふたりを抱いた。

 あれ程までに確かに思えた望遠鏡の影も消え失せたことに、ふたりは互いの存在までもが次第に曖昧になっていくのを感じた。そして手探りで、互いの身体に触れあいながら、そこに誰かがいることを、確かめようとした。最早ふたりには、自分が何者であるかなどどうでもよい気がした。もしかすると、相手が誰であるかということさえも、このときのふたりにはどうだってよかったのかもしれない。

 惟子でもなければ芳香でもない何者か、自分も相手も、闇の中に一つになってしまえば、誰が誰というのでもない。このような自棄にもにた感覚が、闇の中のふたりに萌した。しかし、どうしてだろうか? その感覚のこんなにも哀しいのは。その理由をふたりは知らない。知るはずもない。お互いがお互いであるということ、自分が自分であり、相手が相手であるということ、互いの肉体に闇を抱いて、その闇が永遠に交わることはないという孤独の方が、余程哀しいはずなのに。


 ふたりは闇の中で抱き合いながら、この哀しみの運動を観察した。哀しみはまるで振り子のように、有限の振幅で、ふたりの間の無限を超えて行きつ戻りつするパラドクスを犯しているように思われた。振り子は感情を乗せて、互いの言葉を運んだ。

「惟子ちゃん。離れないで」

「暗いのが怖い?」

「怖くないわ」

「わたしもよ」

「でも、少しだけ哀しい」

「そうね……」

「わたし分かったわ、怖いのではなくて、哀しいの。生きることも、死ぬことも、哀しくてたまらないの」

「わたしがいるから、哀しまないで」

「わたしが堕ちたら一緒に堕ちてくれる? わたしが穢れても、そばにいたくないくらいに穢れても、一緒にいてくれる? わたしやっぱり神様が怖いわ。惟子ちゃんのことも、少しだけ、怖いわ。ひとりになるのが、怖くて、哀しいの」

 惟子は黙った。振り子は空振りを続ける。芳香は哀しみが振れる度に不安になってくる。しかし、決して泣いてはいけないと、彼女は思った。それを感じたのか、惟子は抱擁を強めて、彼女を安心させようとした。そうして、惟子は心に溜めていたものを、芳香の耳元で囁いた。


「わたしがあなたを穢してあげるわ。すべてわたしのせいにしておしまいなさい。分かるわね? 神様はきっとお分かりになるわ。どうして神様が、あなたのようなかわいそうな子を御身から退けたりするかしら。わたしが代わりに地獄に落ちてあげるわよ。芳香さん。きっと、誰でも神様の前では純潔では在れないのだもの。どんなことでもお見通しなら、どんな祈りも、どんな誓いも、神様にとっては虚しいはずよ。神様はわたしたちの孤独を知っておいでかしら? きっと知っておいでに違いないわね? だとしたら、どうして神様はその穢れのためにわたしたちにお咎めを与えることができるのかしら? でも、わたしはあなたのために地獄に落ちてあげるわよ。こんなことを言いながら、あなたを穢そうとするのだもの。わたしってば、とびきりの悪女ではなくて?」

 芳香には、惟子の暖かな息のかかるので、彼女の唇が今どれほど近くにあるのかが分かった。芳香は惟子のいる方を見る。ふたりの顔は、鼻先は、唇は、触れ合いそうになる。

 そのすべてを、闇が赦すのだ。


「いいえ、惟子ちゃん。ふたりでなりましょう。ふたりで悪女に、なりましょう」


 しかし、気が付いていたか? 肉体の匿うものが闇でありそれを覆うものが光であったのなら、宇宙の匿うものは光でありそれを覆うものは闇であるという、当然の条理に。



宇宙背景放射 完

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宇宙背景放射 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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