最上部に天文台の丸い天井を戴いた旧校舎の内部階段は踊り場から心持張り出した窓下に、新校舎の陰になった嘗ての花畠を見下ろすことができる。そこを登りながら二人は、窓外に眺むべき何ものもないこの暗い濁った用無しの窓硝子に一切注意せぬようではあるけれど、内部から透過して見える蔦の節の痕だけが残った時間のしがらみのような穢れた模様に一瞥だけをくれて、本人らも意識せぬその心理の奥深くに、少しく不快を募らせるのである。

 最上階まで二人は黙々と登った。二人はいつも、この階段を登る最中の私語を禁忌に感じた。校舎という一定の用に供せられるべき建築物が、もう二度と役目を果たさないのだというある種の荘重ささえも孕んだ遺跡じみた寂寞感に、二人は何か厳然とした戒律の在処を認めて(階段という概念の象徴性が更にそれを増長し)、そこに生徒である自分たちの声を響かせることの失当を憚らせたのである。恐れを知らぬ年頃の二人の少女が、それでも己が内から出でた不条理に身を委ねてそれに従うというのは、まだ見ぬ人生を人生たらしめるのに必要な準備であり、いつ来るともしれぬ人生を今と地続きなつまらぬもの、それでいて、生くるに耐えるほどには劇的なものにしたいという不慥かな願いの、辿々しい表露なのである。


 塔屋の前の踊り場にまで二人は来た。計百段にも満たぬ段数で喘ぐ二人の若さではない。

 天文台の鉄扉はそれ自体の質量に加えて蝶番の油に膠着した埃のために恐ろしく重い。非力で小柄な芳香はいつもこの鉄扉の相手を自分より二回りはタッパのある惟子に頼むのだが、彼女とて半ば体当たりのように体重を乗せてかからなければ、二人にとって恰も現実世界との隔壁のようになっているこの扉を抉じ開けることはできない。そうして、押し入るように這入り込んだ先に待つのは一層の闇と、その闇の中に重畳するかびと埃の臭いの混じった空気の蟠りで、惟子だけが先んじて、その不愉快な大気のヴェールを若さゆえの無頓着で突き抜けて行けば、扉口から僅か差し入った微光を球面に宿す卓上の白熱電球に手が触れて、それをぼうっと灯すと、忽ちに狭い天文台内の、物置のように扱われた、蕪雑で、陰気な全容が、詳らかに描き出されるのである。

 ここまでの逐一を、芳香はいつも扉口で見守っている。振り返る惟子の背負う白熱電球の暖かな光が、彼女の姿を後光のように取り巻いてシルエットにしてしまい、それでも逆光に抗してその顔に仄仄と萌す微笑を合図とするまでは、芳香は決して中へは立ち入らないのである。

 この建物の電気は、今やほとんど二人のためだけにあるようなものであった。天文台に通う電力は壊疽した組織に唯一残った神経の交換のようで、時折二人が部屋から漏らす親し気な笑い声、二人のかわいらしい体重が鳴らす老いた床の愉快な軋み、これら巣穴の中の小動物のような軽快な活き活きとした少女の気配でさえ、病者の痛苦を抑えたいぢらしい虚勢のように響いて、ここの時間の終わりの近いことの不安ともつかぬ茫漠とした感を、建物の全身に印象するのである。


 室内へ這入ると芳香は心持速足で惟子の許にまで寄って行く。そうしてどうするというのでもない。いつも芳香は、あの惟子の微笑みを見ると、緊張の糸のようなものが切れて、そんな心身の弛緩に伴って寄せてくる焦りにも似た感情の潮に押されるまま惟子の前にまで流れて行き、自分の感情と行動に妥当な解を導けぬまま、彼女の前で呆然と、はにかんだ笑みを浮かべる他になくなるのである。

 惟子の方はというと、彼女は彼女でこんな芳香の羞恥を伺わせる仕草に不可解を感じずに、それが彼女の心にある自身への親愛のひとつの顕れであることに、理解が言葉へ降りてくる以前の感性の段階で悟るのである。近頃引け目に感じてきたこの長身のつくる影の中に、芳香の朱を差した顔に浮かぶ不器用な微笑みがある。そればかりではない、彼女の立ち竦んだ身体の全てが、自分の大きな影の中にすっぽりと収まっている。惟子はこれまでに、自分が容姿に劣等感を持つなど、まるで思いもしなかったのに、自分の影の中の陶人形のように華奢な物言わぬ芳香の、衣の上からでも分かる女の子らしさを示し始めた身体の曲線を知れずなぞっているおのれの視線に気が付くと、この感情が何物であるかに説明をしなければならない性急さに駆られて、危うく結論しそうになる。彼女の肩を掻き抱いて、この女の柔らかな砂丘の曲線に埋もれて、まったく一つになってしまいたくなる。そのようにして、彼女との自己同一の中に、自らもまた、嬰児期の母親の記憶へと遡りたくなるのである。

 惟子には哀しい、自分が変わってしまったということが。そして恐らくは、もう戻れないのだということが。

 然るに、そんな哀し気な惟子の気色の所以を、芳香は一向に合点しない。


 斯様な曖昧な時間の鮮度は長続きはしない。二人は何もなかったかのようにいつもの調子を取り戻す。そうしなければならぬという強迫が先か、それとも女の敏い防御本能が先か、とまれ二人は一度熟れた時間の破壊に最大の協調を見せるのである。それがどのようなものであれ一度極みにまで成就した時間が穏当な幕引きを見せないことを知らぬ程幼い二人ではない。喩えば純潔は結婚によって堕落を始める。堕落と呼ばぬまでも、それは明らかに滑稽な退廃を見せるものである。何故というに、結婚とは、それの起こる以前と以後とで人生を不可逆なものにしながらも、それの行われる瞬間の成就にしか与しないからである。結婚という観念を憎悪する少女は珍しくない。その場合、彼女が憎むのは結婚それ自体ではなく寧ろこの退廃の方なのである。

 二人にとって、このときの破壊の方法は実に為し易い。どちらかが声を発すればそれでよい。何か日用の種種のことを呟けばそれでこと足りる。反対に、沈黙を貫けば? 二人は堕落するであろう。或いは息苦しい破局を見るであろう。結婚生活とはあまりにも長い沈黙の果てに窒息へと至る迄のその過程を指すのだから。


「少し空気を入れ替えましょう」

 惟子だった。

「そうね」

 芳香は答えると自分の右側に鎮座する天体望遠鏡を仰いだ。

 年季のはいったシュミット式の望遠鏡のずんぐりとした胴体は、対空砲を思わせる立派な台座に支えられて、臼砲の仰角で塞がれた天井を狙いすましている。二人が扱うには不相応に立派なこの望遠鏡は、ドラム缶程の大きさがある。この、肥えた中年紳士のようなテレスコープのどこか勿体ぶった慇懃さが、決して広いとは呼べぬ半球の塔屋内の光景に絵画的な均整を与えて、空想好きな年頃の乙女の心象に、これ以上になく媚びてくるのである。

 芳香とても例外ではない。まだ男の子のものと未分化な感性を多分に残す彼女も、この観測機器の荘厳な佇まいを見るとワクワクしてくる。かっこいいと思う。

 惟子は見惚れている芳香のわきを通って迫る壁の曲率に沿いながら、物を避けつつ、正体の知れない膝丈程の木箱の前まで来ると、それの上に正座をして、すぐ目の前にある手回しハンドルを握った。木箱をギシギシ言わせながら彼女がそれを夢中で回すと、白熱電球の灯よりも一入に明るい光芒が、徐々に開かれていく天井から音もなく零れてきて、芳香の顔に落ち掛かった。彼女は思わず目を細めたが、顔を背けたりはせず、丁度降雨を歓ぶ異国の農夫が肌を打つ強かな雨粒を顔面で受けるときのように、この天の恩寵の及ぼす悦ばしい痛みを愉しんだ。

 春の風が屋内に重畳する陰気なものを掘り下げるようにしながら攫って行く。天井は限界まで開かれた。下で見た巻雲がそこにある。芳香は近くにあった椅子に腰を掛け、両掌を膝の上で重ねて、呆とそれを仰ぎ見た。

 その雲の姿に、芳香の心を惹くものがあったのではない。ただ彼女は今しがた芝生で惟子と交わしていた会話を思い出しながら、天井に四角く縁どられた空を揺蕩う、酷く鈍間なこの雲のどこか執拗な感じが彼女にも伝染して、無為が時間の進むのさえ忘れさせたのである。


 余りにも高所にある、漠然とした雲の形は、芳香の目の中に輪郭を結ぶことを許してくれない。まるで彼女に見られることから、逃れようとするような、このじれったさ。それだから、思わず彼女は、つまらない、と、小さく呟いた。

「教室に、戻りたい?」

 木箱から降りようとして、後ろから右足だけを床に着けた惟子は、芳香を見かえすと、不安げにそう訊いた。

「ごめんなさい。違うのよ。ええ、まだここに居たいわ」

 芳香ははっとして、そう答えた。と、小さな悲鳴に似た声が惟子の側から響いてきたことに彼女はまたもやはっとして、今度は思わず立ち上がった。

「どうしたの?」

「脚にね、棘が」

 惟子は木箱に腰掛けながら、曝された左脚を両手で引き寄せて、向こう脛のあたりを一所懸命に検めている。

「箱にささくれがあったのね。こんなもの誰が置いて行ったのかしら」

 言い乍ら梃子摺てこずる惟子に見かねた芳香は、見せてみなさいと、彼女に近づいた。

「大丈夫よ」

「ほら、見せて」

「いやよ、いや」

「意地っ張りな惟子ちゃん。ときどきこうなんだから」

 芳香は惟子の前に椅子を移動して、それに座ると、彼女の長い左脚を引き取って、上靴を脱がせてやってから、膝上に載せた。

「どこに刺さったの?」

「このあたり」

「何もないわ」

 芳香は惟子の示した辺りを指の腹で優しくなぜてみた。薄氷の破けやすさを持った、外気にてられた冷やかな無縫の肌地きじの滑らかさが、芳香の指の下をことなく流れて行く。

「痛い。やっぱりチクチクするわ」

 それでも惟子がそう訴えることに、芳香は不思議を感じた。不思議は今芳香の前の惟子へと至る道に、途方もない距離を横たえるように思われた。今自分の指の下を流れ去った絹の質感の中に、惟子の心身を少しく苛む所以があろうことなど、芳香には想像もできなかった。人間同士の間の不理解は、恐らくは、惟子の肌の下に埋まった小さな棘のような、それ自体をとってみれば極めてつまらない、真実と呼ぶにも妥当しない、言うなれば些末な(一切の解釈を入用としない)物質的事実に過ぎぬのだろうという洞察が、芳香の脳裡に急に閃いてきた。然るに、それがどれだけ些末なものであったとしても、存在の確実性という意味に於いて、物質の、感情に対して如何に優越であることか。努めて共感の念を尽くしても、おのれの指はその棘に、痛み出すことを知らぬのだ。だとすれば、他に一体どれだけのものが、惟子の肉体という物質の横たえる永遠の不理解の距離のために、自分の理解の掌から零れ落ちてしまっているのだろうかと考えてみて、芳香は不安になった。

 しかし、それでも、この不安感の根拠となるものが何であるか、彼女には分からなかった。掌から零れ落ちてしまっているという感じは、彼女には一方である種の背理のように感ぜられた。零れ落ちるにしても、一度はその対象に達していなければならぬ。ただし、感情の伝播が物質の永遠の不理解の距離を超えて、芳香の理解の手が惟子の実相に及ぶなど、光の速度を以てしても能わぬことであろう。

 とは雖も、今芳香は、確かにおのれの指を惟子の肌に触れて、その存在を確かめている。今指先に発火するにこやかな触覚が、惟子への理解の及ぶ限界の境を見出して、そのような認識裡に、手探りの世界の不可知の澱みの中から顕現したある形態を形作ることを、そしてこのようにして形作られた無意味な形態をこそ惟子と呼んでいることを、芳香は悟らない。斯様な芸術家的客観視の冷徹の哲学を彼女は持たぬ。持たぬから、ただ彼女は、おのれの中にある惟子の幻影という、決して皮膚を貫いて達することの叶わない実相から投射されたあやふやな影を前にした孤独の中に、悚然として立ち竦むのである。幻影はあやふやなのに、そして恐らくは実相でさえもあやふやなのに、その間に立ちはだかるふたつの肉体の触れ合う境界だけが、どうしてこんなにも確かなのか。

 そのふたつの肉体でさえも、永遠に交わることはないというのに。

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