さりげなくすれ違う
「結局買っちゃった……」
通販サイトの段ボールを前に、柚希は呆然と呟いた。
意外にかさばる段ボールをあけると、中には小さな箱。白地にゴールドベージュでロゴが印刷された掌にやや余る程度の箱には「オトコを虜にする大人の魅惑香水」とある。
総務部の彼女たちが身につけていたものはあまりに可愛らしすぎて三十間近の自分には似合わない気がしたので、同様の評判がある別の香水にしたのだが……
あまりにあけすけな謳い文句につい取り寄せたことを後悔しそうになる。
(せっかくだから明日使ってみようかしら? その前にどんな香りだか確認しなくちゃね)
箱から出した小瓶は箱のように扇情的な文句があるわけでもなく、ひと吹きすると桃やリンゴのフルーティーな香りと共に、妖艶なジャスミンの香りが立ち上がる。
「これではちょっと香りがきついかな?」
デリケートな食品の開発に携わる仕事だ。さすがに強い香りをそのまま身にまとうのは禁物だろう。
邪魔にならない程度の量をハンカチに吹き付けて持ち歩くのが無難かもしれない。
(それならバッグの中に入れておいて、必要な時だけポケットに入れればいいものね)
柚希は何度も試してすれ違った時にほのかに香る程度の量の見極めをつけた。
(明日は先輩が営業部との企画会議に出席するから……戻って来る時にすれ違ってみよう)
そう決心してもう翌日の業務終了間際。そろそろ鳩山が会議から戻ってくる頃合いだ。
(先輩、気付いてくれるかしら?)
柚希は香水を吹きかけたハンカチをポケットに忍ばせると適当な書類を持って席を立った。総務部に届けるついでに営業部から戻ってくる鳩山とすれ違うつもりだ。
(ちょうど良かった)
廊下に出ると、ちょうど鳩山が階段を下りてきたところだ。
緊張で顔が歪みそうになるのを必死に抑え込んで平静を装い、素直に動いてくれない手足を叱咤激励してなんとか普通に歩き出す。
心臓がバクバクとすさまじい音を立てて動いていて、今にも破裂しそうだ。
視線はまっすぐ前に向けながら、意識のすべては鳩山に向かっている。
(あと少し……どうか気付いて)
甘い香りに。私の想いに。
気付いたところで、彼は香りになど気を
(それでもいい。今のままでは息がつまりそう)
どうか一言だけでいい。「それは何だ?」と尋ねてくれさえすれば。
ついに手を伸ばせば互いに届きそうな距離まで近づいた。
「おつかれさまです」
「ああ」
(これだけ……??)
結局、鳩山は柚希の挨拶にあいまいに頷いただけでまったく意に留めることはなかった。視線を揺らすことも足取りがとまる事もなく、真っすぐに企画部に戻っていく。
柚希は大きく息を吐いて振り返ると、こちらに一瞥もくれることなく立ち去った鳩山の後ろ姿を見送った。
(馬鹿みたい。一人で盛り上がっちゃって……)
もともと鳩山が自分に興味を持っているとは思えない。それなのにまともに話しかける事もできずにこんな遠回しな形でアピールしようとしても、相手にされなくて当然だ。
(でも気付かなかったならちょうどいいわ。部署に戻ってからは普通に接すれば良いだけだもの)
柚希はかるく首を振ると余計な思考を頭から追いやって書類を確認すると、足早に総務部へと向かった。
それから数日後。
「今日はあれをつけていないのか?」
今日は柚希が営業部との会議だった。
終業間際にようやく戻って来た柚希を鳩山の意外な言葉が出迎えて、彼女の頭の中は疑問符でいっぱいになった。
「あれ……? 何のことでしょう?」
「香水だ。俺が企画部との会議から帰って来た時につけていただろう」
(先輩、気付いていたんだ。だったら一言言ってくれれば良かったのに)
柚希は感心するが、なぜこのタイミングで言ってきたのかわからない。気付いていたなら、その場で何か言ってくれれば良かったのに。
「あれは預かりもののハンカチについていただけです。匂いがうつってしまったのかしら? お邪魔でしたら以後気を付けます」
さらっと流してみせたが鳩山は珍しく話を続けた。
「ピーチにジャスミン……そしてラストはムスクだったな」
(すごい。そこまでわかっていたんだ。さすが調香師の資格を持つだけあるわね)
「そうでしたか? お詳しいですね」
何でもない顔をしてとぼけてみせる。
「朝は香らなかった。あの時だけだ」
「ええ、預かりものでしたから」
「やけに緊張していただろう。こちらに意識だけ向けて」
(気付かれてたんだ……)
思うと同時にかあっと顔が熱くなるのを止められなかった。今はきっと真っ赤になってひどい顔をしているはずだ。
「俺のうぬぼれでないなら……もし俺に興味を持ってくれているなら、次からは遠回しな事をしないで直に話しかけてくれるか?」
書類に目を落としながらそっけなく言う鳩山だが、よく見ると目元がわずかに赤くなっている。
(まさか、先輩照れてる……?)
「はい。そうします」
「その……もし花山さえよければ今日は夕飯でも一緒にどうだろう?」
よく見ると鳩山のペンを握る指が白くなっている。
(先輩も緊張してるんだ)
そう思ったらふっと肩の力が抜けた。
「はい、喜んで。たくさんおしゃべりしましょうね」
心からの笑みが自然に湧き上がってくる。それを眩しそうに見つめる鳩山の視線に自然に胸が温かくなった。
(まずどんなことをお話ししようか)
彼の事をもっと知りたい。自分のことも知って欲しい。
やっと踏み出すことのできた第一歩にほっと息をつき、これから何を語り合おうかと胸を躍らせる柚希であった。
アウラの息吹 歌川ピロシキ @PiroshikiUtagawa
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