第4話

 何かが倒れたような音だった。壁に立てかけておいたものが倒れたのかもしれない。もっとも、瑞希には廊下に何かを置いた覚えはなかった。

 真守はドアを見つめたまま動かなかった。その顔は不安の色を呈している。

 現実離れした話から現実に引き戻された感じだった。ともかく、倒れた何かが貴重な物品であるとすれば、そちらのほうが問題だろう。

 固まっている真守をそのままに、瑞希はドアを開けて廊下へと出た。

 物置として使っている部屋の前――廊下の突き当たりに、何かが倒れていた。それが、両手を使ってゆっくりとこちらに向かって這っているのだった。

 獣臭が漂った。

 瑞希は言葉を失い、立ちすくんだ。

 それは長い髪を有していた。女のようである。少なくとも上半身は裸だ。下半身は毛皮のようなものをまとっている――そのように見えた。

「嫌あああ!」

 どうにか声を上げることができたのは、その下半身の状態を把握したためだった。

 それは人のものではなかった。細長い尾を備え、そして異様に長い左右の足は触手のようにくねっている。夢の中で遭遇したあの巨大ネズミ――その下半身だ。

 開けたままのドアから真守が出てきた。瑞希の横に並んだ彼も、這い寄るそれを前にして、目を剝く。

「ユーチェン……」

 真守が言葉を落とした。

 ――ユーチェン。

 夢の中で真守と情事に耽っていたあの女――すなわち、夢の中の存在だ。瑞希が見た夢の中にいた人物なのだ。しかもこんな姿である。ならば、やはりこれも夢に違いない。

「どうやってこっちに来たんだ? その下半身は……まさか、ロゴンの体?」

 這い寄る女――ユーチェンに向かって真守が問うた。

「夢だわ……これは夢の続きよ。ただの悪夢よ!」

 瑞希は叫んだ。

 不意にユーチェンが動きを止めた――否、ミミズのようなその尾だけはのたくっている。

「まだ思い出せないの?」

 そう言って、ユーチェンが顔を上げた。

 美しい顔――だったはずだ。目も眉も鼻も唇も、どれもが美しいままである。しかし、それぞれの位置が大きくずれていた。まるで、失敗した福笑いだ。

「何があったんだよ……」

 ユーチェンのおぞましい顔を見据える真守が、声を震わせた。

「大丈夫よ真守さん」ゆがんだ顔は笑みを浮かべているらしい。「ロゴンを追ってきたあの猫に邪魔されないうちに……と急いだからこうなってしまっただけ。わたしはすぐに元どおりになる。そのためにも、その人……瑞希に思い出してもらわないといけないの」

 そしてユーチェンは瑞希を見つめた。

「思い出しなさい……ほら」

 その言葉が脳の奥に侵入し、瑞希は忘却の彼方へといざなわれた。


 真守は仕事で疲れていただけだったのかもしれない。おそらくは、そうなのだろう。だが、そのときの瑞希には焦燥があった。近所の主婦仲間で子供がいないのは自分だけであり、それが瑞希の焦りを倍増させていたのだ。

 そんなある日、瑞希は夢の中でその抜け道を見つけてしまった。縦穴のようなその中に迷いなく入り込んだ彼女は、落ちていくままに任せ、やがて、とある街――中国か韓国か、異国の時代劇の舞台になるような街の中に立ったのだ。

 街の名はさいだった。オオス=ナルガイの谷よりもさらなる東――幻夢境の絶東であるとうと呼ばれる地域に、その街はあった。東果はオオス=ナルガイの谷とは地続きではあるが、オオス=ナルガイの谷はもとより、タナリアン丘陵やセレファイスとの往来は、よほどの賢者でもなければなしえない。徒歩でも、馬を足にしてでも、船で海を突き進んでも、渺茫たる旅の果てに野垂れ死ぬだけなのだ。

 これら諸々を、瑞希は抜け道を落ちている最中に知った。脳に直接的に伝えられたのだが、教えてくれたのが誰なのか、それはわからなかった。人間を超越した存在であるのは間違いないが、友好的な印象は感じられなかった。

 いずれにせよ、異世界でありながらも夢でもあるのだ。すべてが自分の意思のままになるわけではないが、自分の容姿を変えることに挑んでみれば、思いのほか、美しい姿を取ることがかなったのだ。瑞希はその姿の自分にユーチェンという名をつけた。さらには、諸々を教えてくれた存在とは異なる大いなる何者かによって想像を導かれる、という思わぬ僥倖を得たことにより、街外れに大きな屋敷を構えられたのである。

 これならば真守を振り向かせることができるかもしれない。せめて、夢の中だけでも満たされたかった。

 その朝に目覚めた瑞希は、夢での出来事に現実味を覚えていた。夢であっても現実である――夢を見ることによって入り込める世界に、瑞希は行ってきたのだ。真守の心を引き戻す絶好の機会である。この機会を逃すなど考えられなかった。

 次の夢でも瑞希は抜け道の端に立っており、すでにユーチェンとなっていた。そして近くに真守の姿を見つけ、戸惑う彼を強引に幻夢境へと連れ込んだのだ。そしてユーチェンは――夢の中の瑞希は、才理のあの屋敷にて、久々に真守と肌を重ねたのだった。

 しかし、満たされたのはたった一度の夢だけだった。その次の夢で真守を連れて抜け道を落ちていた瑞希は、不意に気づいたのだ。これでは真守がユーチェンという女と情事にふけっているだけではないか、と。瑞希がユーチェンであること――真守はそれを知らずにユーチェンにうつつを抜かしただけなのだ。

 ユーチェンの姿の瑞希は、真守の手を握ったまま、抜け道を引き返そうとした。その瞬間、諸々を教えてくれた存在によって、瑞希は夢の中でのアバターであるユーチェンと分離させられ、覚醒の世界へと送り返されてしまった。そして、独立したユーチェンは真守を連れて幻夢境へと落ちていったのである。


「瑞希、あなたは眠りの大帝の怒りにふれたの。夢見人が手順を踏まずに才理へ行くだけでも、眠りの大帝は憤りを覚えるのよ。それなのに、あろうことか抜け道を途中で戻ろうだなんて。だから相沢瑞希という一人の女は、あなたとわたしという二人の女に分けられてしまった」

 瑞希に顔を向けるユーチェンは、うつ伏せのまま、ゆがんだ顔でそう告げた。

「そうだった……」瑞希は口を開いた。「わたしは神の怒りにふれてしまった」

「思い出してもらえてうれしいわ。それにしても、二人の女に分けられて、少なくともわたしは得したということよね」

 ゆがんだ顔で、ユーチェンはほほえんだ。

「分けられた……って、どういうことなんだよ……」

 瑞希の隣で真守が声を震わせた。

「瑞希とわたしは、同じ一人の人間だということよ」ユーチェンが言った。「だから、また一人の人間に戻るの。でも、今度は相沢瑞希にはならない。ユーチェンとして一人の女になるのよ」

「そんなこと、できるはずがない。また一人のわたしになるだけよ。だってあなたは、わたしなんだもの」

 言いきって、瑞希はユーチェンを睨んだ。

「わたしが魔女であるのを、あなたはよく知っているはず。才理の街でなんでもできるように、とあなたが設定したんだもの」

「でもそれは夢の中だから――」

「ばかね」ユーチェンは瑞希の言葉に重ねた。「わたしはこうしてここにいるじゃない。夢の中からやってくることができたのよ」

「そのロゴンとやらのおかげでここに来ることができた……それだけのこと。夢の中で化け物と一体化して、その化け物の力にあやかっているのよ」

 自信はなかった。負け惜しみかもしれない。しかし、自分の分身の思うがままにはなりたくなかった。

「いいわ。だったら、このロゴンの力にあやかってやるわ」

 そしてユーチェンは立ち上がった。化け物の下半身は巨大であり、ユーチェンの頭部は天井に届きそうだった。

 ユーチェンのゆがみは顔だけではなかった。美しい左腕は付け根が脇腹にあり、形のよい豊満な乳房だが右のそれは鎖骨の辺りに位置していた。

 見上げる瑞希は、声を出せなかった。真守も言葉を失っている。二人はゆっくりとあとずさった。

「わたしと真守さんとの時間をあなたに邪魔されないために、西の地域からわざわざ呼び寄せたのよ。ロゴンにはきちんと働いてもらわないと」

 触手のような細長い足だが、わずかな震えもなく巨軀を支えている。ロゴンなる化け物の強靱さを、瑞希は垣間見た気がした。

 ロゴンの右足が、一歩、前に出た。

 獣臭が際立つ。

「さあ、わたしと一つになるのよ」

 正常な位置の右腕と、脇腹から生える左腕とが、瑞希に向かって差し出された。

 尻餅を突いたのは瑞希ではなく真守だった。彼はユーチェンを見上げたまま、ただ震えている。

「嫌よ」

 あとずさりながら瑞希は拒否した。

 二歩目を踏み出したユーチェンが、満面の笑みを浮かべた。

「わたしはこの世界で生きていく」

 そう告げたユーチェンは、さらに顔をゆがめた――というより、左右の目が大きく離れているのだった。それだけでなく、口や鼻など、顔を構成する部位のそれぞれが、互いに距離を隔てている。

 触手状の足が動きを止めていた。それに合わせてあとずさりをやめた瑞希は、ユーチェンを凝視する。

 ユーチェンの顔は膨らんでいた。左右の目は離ればなれになっただけでなく、それぞれがあらぬ方向を見ていた。

「あ……あ……あ……ああ……ああああああ!」

 絞り出すように声を上げたユーチェンが、大きく膨らんだ頭部を左右に振った。見れば、彼女の胴体も風船のごとく膨らんでいる。

「あばぼっ」

 言葉ともゲップともつかない声を放ったユーチェンが、その頭部を破裂させた。破裂した頭部からは、血液や肉片とともに、躍動するいくつもの何かが飛び出した。仰向けに倒れた体は、それでも小刻みに震えている。

 飛び出したいくつもの何か――何匹もの猫たちが、小刻みに震えるユーチェンに向かって声を上げた。

 膨れた胴体を突き破って、さらに何匹もの猫たちが躍り出た。その中には、ククの姿もあった。

 そして猫たちは、ぼろきれのように変わり果てたユーチェンに一斉に飛びかかった。

 肉を咀嚼する音がした。

 骨をかみ砕く音がした。

 猫たちのうなり声がした。

 そして、何も聞こえなくなった。


 セレファイスの西の彼方にあるウルタールから才理へとやってきたククは、多くの仲間を食い殺したロゴンを討ち取る、という使命を帯びていた。魔力を有するククは迷いの砂漠を踏破して東果の地へとたどり着いたのだが、そんな彼でも、一匹ではロゴンにかないそうになかった。そこでククは、才理で勇敢なる猫を集め、即席ではあるが屈強な軍隊を結成したのだ。

 こうして「ロゴンを討ち取る」という任務を成し遂げたククは、これまでのいきさつを瑞希に打ち明けると、仲間たちとともにいずこかへと立ち去った。もっとも、瑞希は夢ともうつつともつかない状態であり、ククの語りが現実だったのか否か、認識することができなかった。


 気づけば、瑞希は瀟洒な部屋で一人、呆然と立ち尽くしていた。才理の外れにある大きな屋敷――ユーチェンの屋敷であるのは間違いない。

 花窓から外の光が差し込んでいた。日中のようだ。

 部屋の隅に姿見があった。そこに映るのは、艶やかな着物をまとった瑞希だった。

 覚醒の世界にはもう戻れない――瑞希はそれを悟った。すなわち、真守とは二度と会えない、ということだ。

 これは眠りの大帝の怒りなのか、もしくは大いなる何者かの恩恵なのか。

 いずれにせよ、この寂寥感を受け入れる以外に選択肢はないらしい。


 どこかで猫が鳴き声を上げた。

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闇にほほえむ幻妻 岬士郎 @sironoji

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