第3話

 瑞希はククを追っていた。瑞希にとっては小走り程度の速さだが、ククの足の運びはゆったりとしており、まるで地表を滑るかのごとくだ。

 月も星の一つも見えない漆黒の夜空だった。道の左右は深い藪が広がっており、右の奥にはいくつかの街灯によって家並みが確認できた。

 既視感があった。自分は前にもここに来ている。

 そう、これは繰り返しなのだ。自分は同じことを繰り返しているに違いない。

 ――今日は違う。

 そんな意思が瑞希の脳に割り込んだ。

 ククが足を止めて振り向いた。丸い瞳で瑞希を見上げている。そのククが、何かをくわえていた。

 遠くの街灯の明かりを受けてそれは光沢を放っていた。鋭い切っ先を持つそれは、どう見ても短剣だ。

 ククはその短剣を地面に置いた。

 ――これを拾え。

 ククの指示があった。

 なんのためらいもなく、瑞希はそれを拾った。拾うのが当然だと思った。

 握った柄は木製だった。刃渡りは二十センチほどである。それなりの質量があり、模造刀ではないことが窺えた。

 これまでにない展開である、と悟った瞬間に、瑞希はこの道の先の風景を思い出した。

「あの屋敷に行くのね?」

 瑞希はククに尋ねた。

 答えるかのごとく、ククは小さく一声を上げた。そして彼は瑞希に尾を向け、歩き出す。

「これであの女を殺すのね?」

 ククのあとに続きながら、瑞希は自分の右手にある短剣を見た。街灯の弱い明かりを何倍かにして反射する切っ先は、あの屋敷のほうに向いている。

 ククの反応はなかった。否定の意思さえ感じられない。瑞希の思うようにせよ、ということなのだろうか。

 やがて木立を抜け、ククは歩みを止めた。

 そのククの後ろで瑞希も立ち止まり、石灯籠の明かりに浮かぶ大きな屋敷に目を向けた。

 玄関先に立っている、と思われた二人の姿がなかった。瑞希は訝しみ、周囲を見渡した。

 屋敷と背後の木立とに挟まれたそこは、和風とも中華風とも韓国風とも受け取れるたたずまいの庭園だった。それが以前よりもはっきりと見渡せるのだ。

 目を夜空に向ければ、雲が晴れていくところだった。星々に囲まれた大きな満月が頭上に浮かんでいるが、その月の表面は見慣れぬ模様に覆われていた。ウサギでなければカニでもなく、巨大なヒキガエルかと思えば、翼を広げたオオコウモリか、獰猛そうな獄卒にも見えた。目を凝らせば凝らすほど模様は把握できなくなり、目まいさえするのだった。

 自分を奮発すべくかぶりを振った瑞希は、屋敷に目を移し、思わず「ひっ」と小さな声を上げた。

 屋根の棟に横たわるものの姿が月明かりに照らされていた。

 それは巨大なネズミだった。人の大人と同じほどの大きさだ。瞳ばかりの目はその視線を追うのさえ困難だが、狡猾さをたたえた顔はこちらに向けられている。だがよく見れば、その四肢は異様なまでに長いではないか。しかもそれら四肢は、間接がないかのごとく緩やかに蛇行しているように見える――否、先端にかぎ爪を有するそれら四本は、確かに、蛇やミミズのようにのたくりうごめいているのだ。

 あの化け物を刃渡り二十センチ程度のこの短剣で斃せというのだろうか。無論、瑞希に武術の心得などなく、どうあがいても覇者にはなれそうになかった。

 化け物のうなり声が低く流れた。日常では耳にすることのない声――それは猛獣のうなり声であり、少なくともネズミの声ではなかった。今にもこちらに飛びかかってきそうな、そんな気迫があった。

 ふと、瑞希は気づいた。これは夢なのだ、と。前の二回は化け物の姿を見極めることはかなわなかったが、舞台となる場所も大まかな流れも同じなのだ。ならばこれは自分の夢なのだから自分の意思次第で都合のよいように展開させるのも可能なはずだ。

 しかし、気になる要因もあった。屋根の上から漂ってくる獣臭だ。夢でもにおいを感じるものなのだろうか。

 ――においを感じているような、そんな気になっているだけ。

 割りきるためにそう意気込んだ。そして、短剣で戦うまでもなく屋根の上の化け物が消えてしまえばよいのだと、強く念じる。

 瑞希は屋根を見上げ、獣臭の発生源の消滅を確認しようとした。しかし、それは消えるどころか触手のような四肢をせわしなく動かし、体の向きをこちらに変えたのだ。

 化け物のうなりの音質に変化があった。明らかに敵意を剝き出しにしている。

 ――早く消えなさいよ!

 化け物を睨みつつムキになって念じるが、灰白色の巨軀は一向に消えてくれない。

 別の複数のうなり声が化け物のうなり声に重なった。それらは一帯から聞こえた。

 ひときわ大きな声を立てた化け物が、玄関の近くに飛び下りた。触手のような四肢をしなやかに使った着地は、思いのほか静かだった。

 獣臭が強くなった。

 ククが化け物に向かって低く身構える。

 自分の夢であるはずなのに、何もかもが思いどおりにいかなかった。もっとも、思いどおりに展開する夢のほうが少ないのかもしれない。ならばこの右手にある短剣で戦い、不本意ではあるものの化け物にねじ伏せられ、食い殺されてしまうのだろう。当然ながら、これは夢なのだから「本当に命を落とす」という自体にはならないはずだ。だが、それでも、自分が死ぬ場面は迎えたくなかった。

 化け物もククに――否、ククと瑞希、この二つの存在に向かって低く身構えた。その化け物が立てるうなり声を打ち消すかのごとく、無数のうなり声が高まった。

 それら小さなものどもは突如として現れた。無数のうなり声とともに、無数の小さな姿が化け物を取り囲む。

 白、黒、三毛、トラ――さまざまな色、さまざまな種類の猫たちだった。ククもその一団に中にあった。

 ――今のうちに屋敷に入れ。

 ククの意思が瑞希に届いた。

 化け物が咆哮を上げたの同時に、猫たちもそろって鳴き声を上げた。それに一瞬遅れて、瑞希は屋敷の玄関に向かって走り出した。

 右手の短剣は屋敷の中で使うのだ。それを悟った瑞希は、自分が相手にする必要のない化け物を、走りながら横目で見た。その巨軀に猫たちが一斉に飛びかかったところだった。

 戦況を確認する余裕はなかった。玄関にたどり着いた瑞希は、観音開きの扉に手をかけた。韓紙か障子紙なのか、なんらかの紙が扉の格子状の枠に貼られており、屋内が淡い明かりに満ちているのが窺えた。

 施錠はされておらず、左右の扉は手前に開いた。香の香りが漂い出た。

 玄関の内側に三和土はなかった。すぐに板張りの廊下となっている。下駄箱も履き物も見当たらない。土足で入るのが正当であると窺えるが、瑞希ははなから草履を脱ぐつもりなどなかった。

 草履のまま玄関をくぐった瑞希は、扉を閉じずに廊下を進んだ。

 廊下の左右にはいくつもの扉が並んでいた。また、廊下自体は右へ左へと折れ、さらには何カ所も分岐していたが、瑞希は迷うことなく右へ左へと廊下を進んだ。

 ――知っている。

 迷わずに進路を選ぶそんな自分に、瑞希は驚愕を覚えた。

 廊下の壁の高みを見れば、ところどころに花窓が据えられてあるが、今は夜陰だけがその外に息を潜めている。

 どれほどこの屋敷内を歩いただろか。とある扉の前で瑞希は足を止めた。何カ所目かの分岐の先――突き当たりの扉だ。

 躊躇なく、瑞希はその観音開きの扉を押し開けた。

 九畳以上はありそうな部屋の中央に一つの寝台があった。寝台には天蓋があり、まるで貴族の寝室である。

 寝台の上では、全裸の男が全裸の女に多い被さっていた。

 目がくらみそうだった。胸の動悸が高鳴っている。それでも瑞希は、扉を開けたまま、立ち止まらずに寝台へと近づいた。

 結った髪を下ろしてはいるが、あの女だった。彼女が瑞希に顔を向けた。驚きというよりも、憤怒を呈した表情だった。

 腰を振り続けていた男が動きを止め、瑞希に顔を向けた。その顔には恐怖がありありと浮かんでいた。

 寝台の手前で立ち止まった瑞希は、それが当然のごとく、短剣を持つ右手を振り上げた。

「わたしの夫を返しなさい」

 無論、それは女に向けた言葉だ。

 しかし反応したのはその男――真守だった。

「これは瑞希の夢ではない。ぼくの夢なんだ。瑞希、君は帰れ」

「ふざけないでよ」

 言って瑞希は、右手の短剣を逆手に持ち替えた。そして左手で真守の肩を押しのける。

「ここでは」女が半身を起こした。「あなたと真守さんは他人同士よ」

 中国か韓国の言葉が紡がれると予想していたが、女の口から出された言葉は、れっきとした日本語だった。

「黙りなさい。真守さんはわたしの夫なの」

「黙らないわ。だってここでは、真守さんとわたしは夫婦なんだもの」

 女はそう訴えると、勝ち誇るように驕慢な笑みを浮かべた。

 ――夫婦?

 否定するまでもない。世迷い言である。それに、真守は自分の夢であると訴えたが、この夢を見ているのは紛れもなくこの自分――相沢瑞希なのだ。そう、真守の言い分も女の言い分も相手にするだけ無駄なのである。早々にことを済ませてこの悪夢を終わらせなければならない。この悪夢を二度と見ないために、女を始末するのだ。

 振り上げていた右手を、女の豊かな左の乳房に向けて振り下ろした。

 不意に、女の向こうで腰を抜かしていた真守が瑞希と女との間に割って入った。こちらに向けたたくましい背中を短剣が突く。しかも運悪く、左の肩甲骨の下――脊柱寄りだった。

「うぐっ」

 真守の声が漏れた。

「あなた!」

 叫んでみても手遅れだった。短剣は刃の付け根まで真守の背中に突き刺さっている。切っ先が彼の胸を突き抜けているのは明らかだ。

 鮮血が女の白い肌を赤く染めた。

 目を見開いた瑞希は、真守の背中に突き刺さったままの短剣から手を離し、ゆっくりとあとずさった。

「あなた!」

 今度の声は女が放った。女は絶望的な眼差しで、真守を見つめている。

「ユーチェンが無事なら、それでいいんだ」

 そう言って、真守は女の横にうつ伏せに倒れた。

 瑞希はさらにあとずさるが、背中が壁に当たり、立ち止まらざるをえなかった。

 女が寝台の上で瑞希を睨んだ。

「わたしの夫を殺したな」

 血染めの女が、そう告げた。

「真守さんはわたしの夫よ!」

 微動だにしない真守を見つめつつ、瑞希は叫んだ。

 遠くで無数の猫が鳴き声を上げた。


 いつもの寝室、そしていつものベッドだった。カーテンの隙間から外の光が射し込んでいる。枕元の目覚まし時計を見れば、午前六時二十八分だった。

 目覚まし時計のアラームを解除した瑞希は、隣のベッドに顔を向けた。

 瑞希に背中を向ける形で、真守が彼のベッドに腰を下ろしていた。背中を丸めてうなだれている。

 そう、夢と現実を混同してはならない。真守はここにいるのだから。

 瑞希は半身を起こした。

「あなた」

 声をかけると、真守は横顔をこちらに向けた。

「瑞希……」

 重々しい表情だった。

 不安がゆっくりと顔をもたげるが、真守の浮かない様子は最近の常だ。気にする必要はないだろう。会話を期待しても意味がない。

 やはり真守は不倫などしていないのだ。単なる倦怠期に違いない。いずれは元の仲に戻るはずだ。瑞希の妄想が、あんな夢となって表れただけなのである。

 瑞希はベッドから出ると、真守を無視して普段着に着替え始めた。

 着替えている瑞希を真守が横目で見つめていた。その視線に気づいてはいたが、瑞希は無視した。

「なんてことをしてくれたんだ」

 確かに、真守はそう言った。

 ちょうど着替え終えたばかりだった。朝食の準備もあり、寝室をすぐに出るつもりだったのだが、瑞希は真守に正面を向けて問う。

「なんのこと?」

「君はとんでもないことをしてしまった」

「だから、何を言っているの?」

「君はぼくを殺してしまった」

 息が止まりそうだった。これは夢の続きなのでは、と疑ってしまう。

「だって、あなたは生きているじゃない」

「ああ、ここでは生きているよ」

 真守は立ち上がり、ため息をついた。

「ここでは……って?」

 尋ねなければよかった、と思った。嫌な方向へと向かっているような気がしてならなかった。

「夢の中のぼくは、死んでしまったんだ。君に殺されたんだよ」

 真守の沈鬱な表情が、瑞希をとらえていた。

「あなた……」

 言葉が続かなかった。これが現実などとはとても思えず、瑞希はただ、真守を見据えた。

「これでぼくは、あの場所へ行けなくなってしまった。二度と行けないんだ」

 言って真守は、目を逸らした。

「支離滅裂だわ」

 認めるわけにはいかない。瑞希はかぶりを振った。

「まだわからないのか?」真守は瑞希に視線を戻した。「君は夢の中でユーチェンを殺そうとしたんだ。そして、彼女をかばったぼくは、君に刺されて死んだんだ」

 確かに夢の中で、真守は女を「ユーチェン」と呼んでいた。真守が諭す「瑞希が真守を刺した状況」も、夢のとおりである。

「どうして、わたしが見た夢をあなたが知っているの?」

 それを口にしたのだから、認めたことになってしまった。もうあと戻りはできない。

「自分の世界へ帰れとしつこくぼくに指図していたあの猫に……ユーチェンの家を見張っていたあの猫に……あの猫に、君はそそのかされたのか?」

 問い返されて、瑞希は首を横に振った。

「わたしの質問に答えてよ」

「それは……」

 真守が応じかけたとき――廊下のほうで物音がした。

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