第2話

 漆黒の夜空だった。曇りらしい。月はおろか星の一つさえ見当たらない。

 瑞希は小走りでククのあとを追っていた。左右の藪は宵闇に埋もれているが、右の遠くにはいくつかの街灯が明かりを放っており、家並みが確認できる。既視感はあるが、いつ目にしたのか、思い出せない。この先に何があるのかもわからない。質素な衣服を身に着けている理由も、まったくわからない。

 ――行きたくない。

 何があるのか判然としないにもかかわらず、瑞希は先へ行くことを拒んだ。もっとも、足は本人の意思に反してククの歩みを追っているのだ。貧素な草履で土の細道を淡々と蹴った。

 前方に木立が見えた。木々の間から光が漏れている。

 ――行きたくない。

 思い出せないが、心を締めつける光景が待っているのだ。少なくとも、それだけはわかっていた。

 行きたくないわけがない――ククが訴えた。

 ――瑞希が望んだんだ。

 ククの意思だ。

 ――瑞希は自分の望みをかなえるために行くんだ。

 滑るように歩きながらククはそう訴えるが、瑞希には思い当たる節がない。

 木立を抜けると巨大な屋敷の正面だった。何基かの石灯籠が灯火を揺らめかせるそこでククが歩みを止め、その背後で瑞希も立ち止まった。

 屋敷の屋根の上に巨大な何かがいた。もっとも、石灯籠の明かりはそこまで届いておらず、その何かの全容を把握するのは不可能だ。

 獣臭がした。かなり強いにおいだ。猫や犬の体臭ではない。馬や牛など、もっと大きな体を有する生き物のにおいだ。

 屋根を見上げたククが、低くうなった。威嚇しているのか、もしくは警戒しているのかもしれない。

 繰り返している、と瑞希は悟った。同じことを繰り返しているのだ。ならば、これから目にするのも以前の繰り返しなのだろう。

 屋敷の玄関先に二つの人影があった。玄関を背にした女とこちらに背中を向けた男が、静かに抱き合っている。

「嫌よ」

 瑞希はつぶやいた。

「こんなの、嫌よ」

 その男を瑞希は知っている。

 女を抱き締めたまま、男が顔を半分だけこちらに向けた。

 ククがその二人に向かって一声を上げた。


 カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。隣のベッドでは真守が軽い寝息を立てている。枕元の目覚まし時計で午前六時二十分であるのを確認した。昨日と同じ時間だった。

 土曜日の今日は真守の休日であり、午前中は彼と一緒に買い物に出かける予定だ。暗然とした気分は晴れないが、朝食の支度や出かける準備がある。目覚まし時計のアラームを解除してベッドから立ち上がった瑞希は、普段着に着替えると、真守を起こさないように静かに部屋を出た。

 一階へと下りてリビングへと入った瑞希は、カーテンを開けようとして、その手を止めた。逡巡の時間が、ゆっくりと流れた。

 意を決し、わずかに震える手で、瑞希はカーテンを引いた。

 庭の芝生を一瞥もせず、通りに面した塀へと視線を飛ばした。

 昨日の朝と同じ位置で同じ姿勢を取るククがいた。細い瞳でこちらを見ている。

「あなたは何がしたいの?」

 そのつぶやきはククに向けた問いかけだが、ククに聞こえるはずがないのは承知のうえだ。

「わたしにあんな夢を見せたのは、あなたなんでしょう?」

 夢は本人の潜在意識の現れであるという。ならばあの夢も瑞希の不安が見せた光景であるに違いない。ククに当たっても意味などないのだ。それはわかるが、このいら立ちは収まりそうになかった。

「わたしはどうすればいいの? ねえ、クク……」

 すがる思いが言葉となった。

 ククが瑞希に向かって一声を上げた。

 瑞希は自分の望みをかなえるためにあの夢に赴いた――と伝えられたような気がした。

 背筋に冷たいものを感じた。

 顔を背けたククが、塀の外側に飛び下りた。


 朝食の準備を整えた瑞希は、真守を起こそうとして階段の下に立った。しかし声をかけるまでもなく、よそ行き姿の真守が二階から下りてきた。

 真守は結婚前から、仕事に対して「オンオフのメリハリをつける」という姿勢を貫いていた。在宅勤務とはいえ、平日は深夜に及ぶデスクワークがあるものの、土曜日と日曜日は自宅での仕事の一切に手につけていない。今日の買い物も毎週の恒例である。しかしこの二カ月においては、外出における「心が弾む感じ」など、瑞希は微塵も感じていないのだ。

「おはよう。朝食の準備ができたわ」

「おはよう。ありがとう」

 どこの夫婦にもありそうな朝のかけ合いだが、瑞希と真守にとっては、これも単なるルーティンであり、言葉の抑揚もいつもどおりに乏しかった。

 朝食のあとは二人で片づけを済ませた。これも慣れたもので分担作業は滞りなく進んだが、朝食の間と同様、終始、二人とも寡黙だった。

 買い出しの足は真守が運転する車だ。瑞希も運転免許証はあるが、ペーパードライバーなのだ。彼女が助手席に着くのもいつもどおりである。無論、行き帰りの車中や買い物先でも、必要以外の会話はなかった。


 真守の運転する車は、昼前には自宅のカーポートに収まった。二つのマイバッグを左右の手に振り分けて持つ真守に先んじて、瑞希は玄関へと急いだ。そして解錠してドアを開けると、荷物の一つでも持とう――と思い、その場で真守に顔を向けた。

 真守はアプローチの途中で足を止めていた。庭の一角を見つめている。その視線を追い、瑞希は息を吞んだ。

 塀の上にククがいた。今朝と同じ位置だ。身動きをせず、細い瞳でじっと真守を見つめている。

 今になって瑞希は、真守がククの存在を把握しているのか、それが気になった。思えば、ククを見かけるようになったのは先々月辺りからだ。すなわち、真守の様子に変化が現れた頃である。真守が仮にククの姿をすでに目にしていたとしても、冷めた雰囲気なのだから、そのような些細な出来事を瑞希に報告するとは考えにくい。

「なんなんだこの猫は……」

 真守がつぶやいた。

「初めて見るの?」

「いや……ああ……どうだったかな……」

 瑞希の問いに真守はククから目を反らさずに曖昧に答えた。そんな反応に、瑞希は不自然さを覚える。

 相沢家ではペットを飼っていないものの、瑞希も真守も動物嫌いではなかった。しかし今の真守は、ククを前にして動揺しているのだ。おびえているようにも窺える。真守はククを知っているのではないだろうか。そればかりか、ククとの間に何かあったのでは、と勘ぐってしまう。

「その猫、ククっていうのよ」と鎌をかけてみた。

「クク……名前があるということは、飼い猫なのか?」

 ククを見つめたまま、真守は尋ねた。少なくとも、「クク」という名前は知らないらしい。

「ご近所はみんな、ククって呼んでいるけど、飼い猫かどうか、わたしにはわからない。でも、ロシアンブルーっていう高価な猫だから、野良猫っていうのもありえないと思う」

「……っていうことは、瑞希は前からこの猫を知っていたんだね?」

 真守の目はククに釘づけだ。

「だって、この塀の上をよく通るから」

 そう瑞希が答えた直後に、ククは塀の向こうに飛び下りてしまった。

 まるで呪縛から解放されたかのように、真守が瑞希に顔を向けた。

「うちに入ろう」

 疲れたような表情で、真守は訴えた。

「ええ……」

 先の会話がまるでなかったかのような真守の対応に、瑞希は毒気に当てられた。それでも真守の右手からマイバッグを取り、先に玄関へと入る。

 一般的に考えれば、ククを知っているか否かなど問題にするほどではないだろう。だが、この不穏な空気はいかんともしがたい。それを口にできないのがつらかった。

 瑞希と真守は寡黙のまま、買った商品の片づけを始めた。


 二人は片づけを済ませたあとに軽い昼食を取った。無論、食事中の会話はなかった。

 昼食後、真守がリビングでテレビを見始めた。映されたのは、彼が毎週のように視聴している情報バラエティー番組である。レギュラー出演者の中に嫌いな芸能人がいるため、瑞希はいつもその番組を見ていない。毎週土曜日のこの時間帯になれば、瑞希は概ね、本を読むかスマートフォンでネットサーフィンをしていた。

 読みかけの恋愛小説を楽しむことにした瑞希は、リビングの本棚の前に立ち、ふと、玄関先に枯れ葉がたまっているのを思い出した。

「玄関の外を掃除してくるね」

 瑞希がとりあえず声をかけると、ソファに座る真守はテレビの画面から目を逸らすことなく「うん」と答えた。

 玄関を出た瑞希は、掃除道具を取るために物置に向かおうとして、足を止めた。

 門の外を二人の少女が通り過ぎるところだった。近所に住む二人は、どちらも小学生高学年であり、ククをかわいがっている子供たちのグループの中にその姿を見かける。

「ねえ、あなたたち」

 瑞希は二人に声をかけ、門へと進んだ。

 立ち止まった二人が、瑞希に正面を向け、「こんにちは」と声をそろえた。ショートヘアの少女と三つ編みの少女だ。

「こんにちは」

 そう返した瑞希は、大人の自分が挨拶をはしょったことを恥じながら門扉を開けて道路に出た。

「訊きたいことがあるんだけど」

 真守に気づかれたくなかったため、瑞希はやや声を落とした。

「はい」とショートヘアの少女が答えた。

「ククのことなんだけど」

「クク?」三つ編みの少女が首をひねった。「もしかして、猫のククですか?」

 聞き返されて瑞希は頷く。

「ええ、そうよ。猫のクク。そのククなんだけど、どこの飼い猫なのか、あなたたちにわかるかしら?」

「えーと」と三つ編みの少女がショートヘアの少女に顔を向けた。

「どこの家の猫なのか、わからないんです」

 ショートヘアの少女が答えた。

「どこで飼っているのかわからないけどあんな高そうな猫を外に出すなんて信じられない、ってうちのお母さんが言っていました」

 三つ編みの少女が付け加えた。

「そうよね……」瑞希はつぶやき、そして一番の疑問を口にする。「でもあなたたちは、クク、という名前を知っているでしょう。誰かに訊いたのか……それとも自分たちでつけたのかしら?」

「ククという名前を最初に言ったのはタクヤくんだったかな?」

 ショートへの少女が自信なさげに口にした。

「ミユキちゃんじゃなかったっけ?」

 そう返した三つ編みの少女に、ショートヘアの少女が顔を向けて頷いた。

「そうだよ、ミユキちゃんだ。そういえば、ミユキちゃんは変なこと言っていたもんね」

「うん、言っていた」三つ編みの少女も頷いた。「ククという名前をククが教えてくれた、って」

 話が見えず、瑞希は眉を寄せた。

「ククがしゃべった、ということなの?」

「頭の中で声が聞こえた、って言っていました」

 三つ編みの少女が解説した。

「テレパシーみたいな感じだと思います」

 真面目な表情でショートヘアの少女が言うと、三つ編みの少女が噴き出した。

「本当かなあ」

「うーん、わかんない」とショートへの少女ははにかみながら首を傾げた。

 少女たちの話は都市伝説の様相を帯びてきた。そろそろ切り上げたほうがよさそうだ。

「そう……わかったわ。ありがとう」

 話を打ち切るつもりで告げた瑞希に、三つ編みの少女が憂慮をたたえた瞳を向けてきた。

「あの……ククが何かいたずらをしたんですか?」

 見れば、ショートヘアの少女も不安げな面持ちである。

「え……ああ、違うのよ。ククはいつもいい子よ。わたしもね、あんな高そうな猫が外を歩いているなんて、ちょっと気になったから訊いてみただけ」

 瑞希が取り繕うと、二人の少女は安堵をあらわにした。

「お姉さんもククが好きなんですか?」

 問うたのはショートヘアの少女だ。

 お姉さん――その言葉が自分を指している事実を知るのに、瑞希は三秒ほどを費やした。

「そ、そうね。わたしもククが好きなの」

「よかったあ」

 ショートヘアの少女は声を上げた。

「いろいろ教えてくれて、どうもありがとう」

 瑞希が礼を告げると、二人の少女はお辞儀をして立ち去った。

 自分の顔が赤くなっていないことを、瑞希は願った。


「クク」と名前を呼ばれると、ククは相手が大人であれ子供であれ、呼んだ人物に愛嬌を振りまく。そんな反応に特に喜悦するのが小学生などの子供たちだ。ゆえに瑞希は手がかりを期待したのだが、得られた情報は少なかった。

 テレビに集中している真守には声をかけず、瑞希は寝室に入った。自分のベッドに腰を下ろし、床を見つめる。

 テレパシー――そんな超感覚的知覚がはたして実在するのだろうか。しかも人ではなく猫がそれを有するというのだ。

「そういえば」

 瑞希はつぶやいた。

 夢の中でククは瑞希の意識に思念で語りかけていた。あくまでも夢の出来事だが、子供たちの話と符合するのは無視できない。

 いずれにせよ、今は夫婦の危機なのだ。ククに拘泥している場合ではないことは重々承知している。それでも瑞希は、ククがこの危機を打開するなんらかの答えを持っていそうな気がしてならなかった。

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