闇にほほえむ幻妻

岬士郎

第1話

 漆黒の夜空だった。雲に覆われているのだろうか、月はおろか星の一つさえ見当たらない。とはいえ、街灯らしき明かりが家並みに紛れて夜陰に視野をもたらしている。

 家並みとの距離はあるが、平屋が多いのは把握できた。二階建てらしき家屋が点在しているのも確認できる。遠くに見える縦に細い高層建築物は楼閣かもしれない。いずれにしても、瓦葺き屋根や板葺き屋根ばかりであり、まるで時代劇のオープンセットだ。鬱蒼とした藪に遮られているため、この小道からそちらへと赴くのは容易ではなさそうだ。

 寒いというほどではないが、ひんやりとした空気が肌にまとわりついていた。自分の体を見下ろせば、身につけた覚えのない質素な衣服をまとっている。和服のようだが、まるで貧民の装いだ。履物に至ってはどう見ても草履である。

 そよ風さえ吹いておらず、草の擦れ合う音はない。虫の鳴き声も聞こえないのは、そういう季節なのだろうか。人々の声も聞こえないが、それは住人たちが寝静まっている証しだろう。

 瑞希みずきは家並みに正面を向けて立っていた。左右に延びるこの小道は未舗装であり、どちらを見てもまっすぐに闇へと突入している。家並みとは反対となる背後を振り向けば、そちらにも藪が広がっているが、藪の奥は茫漠とした闇に包まれており、広域の様子は把握できなかった。

 あえかな明かりとはいえそれが恋しく、瑞希はすぐにでも家並みの中へと逃げ込みたかった。家並みへと至る別の道がこの小道のどこかに繫がっている可能性はあるが、その道を見つけ出すためとはいえ、一人きりでさまようのは、やはりためらわれる。

 不意に「瑞希」と呼ばれた。

 否、頭では自分の名を呼ばれたと理解できたが、耳に届いたのは人の言葉ではなく猫の鳴き声だった。

 左に気配を感じ、瑞希はそちらに顔を向けた。道の先、闇にとらわれる寸前の位置に一匹の猫がいた。この暗がりでもそれが灰色の猫であることがわかった。

「ククなの?」

 声をかけると、猫はまた一声を上げた。

 ククである、と判断し、瑞希はその猫に近づいた。濃い灰色の毛並みにビロードのような艶が浮かんでいるその猫は、ロシアンブルーだった。間違いなく、ククである。

 ククはたたずんだまま、丸い瞳で瑞希を見上げた。

 こんな小さな生き物でも顔見知りがいれば心強い。瑞希はククの正面でしゃがむと、その雄猫の瞳を見つめた。見つめ返すククが、さらに一声を上げた。「ついてきて」と言われたような気がした。

 ククが向きを変え、闇に向かって小道を進み始めた。

 取り残されるのを恐れた瑞希は、立ち上がるなりククを追って足を前に踏み出した。

 瑞希にとっては小走り程度の速さだが、ククの足の運びはゆったりとしていた。まるで地表を滑るかのごとくだ。

 草履は足に優しくなかった。ソールという部位がないために地面からの衝撃を吸収してくれない。ローヒールのビジネスシューズのほうが楽だろう。

 右の家並みに未練を残しつつ、瑞希はククのあとを追った。道の先は暗闇かと思いきや、進むごとにわずかな明かりが先回りした。遠距離の見通しは利かないがまったくの闇ではない、ということだ。

 気づけば、右の家並みが遠くなっていた。それとの間を隔てる藪は、先ほどまでより一段と深くなっている。

 家並みが離れているのであれば、街灯の明かりも弱まるはずだ。しかし、瑞希の視野は確保されていた。

 自分もククも移動しているが、それ以外のすべては静止しているかのようだった。そよ風さえないだけでなく、遠くからの明かりさえ風景画の一部に思える。寝静まっているらしい人々は、はたして息をしているのだろうか。ゲームのCGの世界に入り込んでしまった――そんな感慨があった。

 前方にいくつもの小さな明かりがあった。ククはそれに向かって進んでいく。

 小道は疎林の中に入った。出どころが不明のいくつもの明かりは、木立の間から漏れていた。足元は窺えるが、ククという連れ合いがいなければこんな寂寥たる木立には近づけなかっただろう。

 木立を抜けてようやくその明かりが揺らめいているのを把握できた。何基もの石灯籠に火が灯されているのだ。風がなくても、いくつもの火はゆらゆらと揺らめいている。

 ククが立ち止まり、彼の背後で瑞希も足を止めた。

 石灯籠の明かりに浮かぶのは、巨大な屋敷だった。平屋のようだが二階建てほどの高さがある。屋根は瓦葺きだ。白い窓は紙製らしいが、枠には装飾があり、中国や韓国の意匠を思わせた。それぞれの窓の外側に据えられた鎧戸らしき板にも、同様の装飾が施されている。

 屋根の上に何かが見えた。人ほどの大きさの何かがむねの上で身を伏せている――そのように窺えるのだ。もっとも、石灯籠の明かりはそこまで届いておらず、その何かの全容を把握することはできない。

 ククは屋根を見上げて低くうなった。威嚇しているのか、もしくは警戒しているらしい。

 瑞希も屋根の上のそれからただならぬ気配を受けていた。意思を有する存在――そのように感じられる。

 獣臭がした。ククの体臭ではない。観光牧場で嗅いだにおいに似ている。猫よりも大きな生き物だ、と察した瑞希は、やはり屋根の上の何かを意識せずにはいられなかった。

 不意に、ククが振り向いた。丸い瞳で瑞希を見ている。そして声を上げることなく、再び正面に向き直った。ククは屋根ではなく、その下に顔を向けていた。

 何かを訴えられたような気がして、瑞希も前方に目を向けた。

 瑞希が立っている位置から三十メートルほどの距離に、屋敷の玄関があった。石灯籠の明かりと窓から漏れる明かりとで、その一角が照らし出されている。

 玄関の前には二つの人影があった。玄関を背にした女とこちらに背中を向けた男が、静かに抱き合っているのだった。

 女は高貴な身分なのか、豪奢に着飾っていた。中国か韓国の伝統衣装と思えるような色鮮やかな着物をまとっており、艶やかな黒髪を後ろで結い上げていた。少なくとも髪に関しては、ショートヘアの瑞希にはできないスタイルだ。

 対する男は、瑞希とさほども変わらぬ質素な衣服を身につけていた。彼の後ろ姿に親近感を覚えるが、同時に、言い表しようのない不安を抱いてしまう。

 男の肩に顎を載せたまま、女が切れ長の涼しい目をこちらに向けた。

 瑞希はその場で硬直した。女の視線から目を逸らすことができない。

 女を抱きしめたまま、男が顔を半分だけこちらに向けた。

 瑞希の夫だった。

 ククがその二人に向かって一声を上げた。


 柔らかい光がカーテンの隙間から差し込んでいた。まぶしいというほどではないが、その光が小さな刺激となってこめかみを襲う。まだ横になっていたい、という欲求を押しのけて、あいざわ瑞希はゆっくりと半身を起こした。

 隣のベッドに目を向ければ、夫のもるが軽い寝息を立てていた。そして、枕元の目覚まし時計で午前六時二十分であるのを確認し、十分後に鳴るはずのアラームを解除する。

 なんとも後味の悪い夢だった。頭痛はにわかに引いていくが、この重い気分は胸の奥にずっしりと鎮座したままだ。

 ベッドを抜け出た瑞希は、パジャマから普段着に着替えると、真守を起こさぬよう、静かに寝室を出た。そして寝室のある二階から一階へと下り、そのままリビングへと入る。

 いつもどおりに、まずはカーテンを開けた。庭が朝日に照らされ、芝生についた夜露がきらきらと輝いていた。庭の隅で群をなすスイセンも、黄色の花弁を輝かせている。敷地の外には瀟洒な家々が並び、日常の営みの始まりを待っているかのごとく、静まり返っていた。

 そんな光景に異質なものが入り込んでいるのを認め、瑞希は目を見開いた。

 通りに面したブロック塀の上に、一匹の猫がいた。二つの細い瞳をこちらに向けているそれは、全身を灰色の体毛に覆われいた。

 ククである、と瑞希は悟った。自宅の周辺でたまに見かける雄のロシアンブルーだ。いつもであれば何気なくやり過ごすのだが、あの夢を見たあとではデジャヴを意識してしまう。

 ククは何かを訴えようとするかのごとくこちらに身を乗り出すが、不意に姿勢を戻し、塀の外側へ飛び下りてしまった。

 我に返り、瑞希は窓際に立ったままため息を落とした。

 クク――近所の誰もがそう呼んでいるが、飼い猫なのか野良猫なのか、瑞希には知る由もなかった。しかし高級な猫として知られるロシアンブルーを屋外へ放すなど、まずはなさそうである。飼い主とはぐれたか捨てられたか、そういった可能性はあるだろう。近所の主婦同士の立ち話でククの話題が取り沙汰されたときも、「ロシアンブルーは屋内で飼うのが基本よね」と主婦の一人が口にした。

 ククは特に子供たちに人気があった。ある日、瑞希が自宅の門の外を掃除していると、下校途中の小学生たちが道端で一匹の猫と遊び始めた。その猫は、瑞希がたまに見かけるロシアンブルーだった。子供たちは遊びながらその猫を「クク」と呼んでおり、よって瑞希は、その猫の名を知りえたのだ。近所の大人たちまでもが「クク」と呼んでいる、という事実を瑞希が知ったのは、その数日後だった。

 ククは相沢家の塀の上をよく歩くが、庭に下りることはなく、悪さもしないため、瑞希はその姿を目にしても特に警戒はしなかった。ゆえにククが夢に現れた意味が、瑞希にはわからないのだ。そのうえで、真守と女が抱き合っていた光景は自分の胸中の表れである、と得心する。

 その真守がリビングに入ってきた。すでに普段着に着替えている。「おはよう」と瑞希に声をかけた彼はキッチンへと向かった。金曜日の今日、真守は在宅勤務だ。出かける予定はないという。

「おはよう」

 そう返し、瑞希は真守の所作を目で追った。コーヒーメーカーに手をかけた彼は、どうやらコーヒーを入れようとしているらしい。

「わたしがやるわよ」

 訴えつつ近寄った瑞希に、真守は顔を向けた。

「いいさ、ぼくがやる。瑞希は朝食の準備をしてくれないか」

「え……ええ」

 瑞希がぎこちなく首肯すると、真守はコーヒーメーカーのタンクを取り外し、シンクの前に移動した。


 そう、このぎこちなさは、つい最近になって瑞希の心に居座り始めたのだ。


 瑞希は夫の真守に不信を抱いていた。どうしても女の存在を感じてしまうのだ。夫婦の営みはこの二カ月間、まったくない。瑞希が拒んでいるのではなく、真守がその気にならないのだ。何度か瑞希からモーションをかけたが、「疲れているんだ」とか「気分が乗らなくて」という釈明を受けるばかりだった。もともと口数の少ない真守だが、この二カ月はさらに寡黙であり、夫婦の会話にも弾みがない。

 とはいえ、真守が女と会っている様子はまったくなかった。今の真守は、コロナ禍を機に始まったの在宅勤務がメインであり、平日の日中は概ね、一階の書斎で仕事に励んでいる。週に一度あるかないかの出勤時も、何度かに及ぶ尾行の結果、疑うべき行動は確認できなかった。また、出勤日はいつも定時で退社し、早々に帰宅している。加えて、休日の真守はほぼ自宅におり、食材などの買い出しは夫婦で一緒に出かけているのだ。

 それなのに、真守に対する不信感は払拭できなかった。夫婦にまだ子供がいないのも、そんな気持ちに拍車をかけているのかもしれない。

 大手建設会社のマーケティング部に籍を置く真守は、課長に昇進したばかりだ。若干二十八歳にしての昇進である。仕事でも私生活でも実直であり、不身持ちには見えない。むしろ堅すぎるゆえに冗談が通じないという場面がいくたびもあったほどだ。

 今から三年前、同社の経理部に在籍していた瑞希は、恋人だった真守となんの障害もなく結婚し、専業主婦となった。しかし今となっては、真守のどこに惹かれたのか、思い出せない。真面目が取り柄――それは当時の瑞希にとって大いなる価値だったのだろう。もしくは、真守のそれなりの外見に興が乗っていただけなのかもしれない。いずれにせよそのときの瑞希は、「この幸せはいつまでも続く」と盲目的に信じていたのだ。若ければ当然の無邪気さだった。


 この日も夫婦らしい会話も夜の営みもないまま、一日が終わった。募るむなしさにもいつかは慣れてしまうのだろう――ベッドに潜り込んだ瑞希は、胸中にそんな諦念を抱いていた。

 寝室の闇に聞こえるのは、隣のベッドの真守が立てる軽い寝息だけだった。

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