空がいちばん高い日
四月の風は、今までのあやまちがすべて赦されるかのように心地よくて。
なんとなく、あいつに供える花代を奮発してやりたくなった。
とりあえず、予算を五千円程と伝え、花屋のお任せで花束を作ってもらう。
「……いい、薫りだ」
出来上がった花束にらしくもなく鼻を利かせ、そうつぶやいてみる。花の種類などわかるわけもないが、それだけははっきりとわかった。
そのせいだろうか、なんとなく、足も軽くなった気がする。
もう五年も経つんだ。少しは心の重しをはずしてもいいだろう。
「……よう、あっちの世界にはもう慣れたか?」
いつもなら一時間かかるほどの距離を四十分くらいで歩き、たどりついたでかい石に刻まれた名前を少しだけ眺めてひとこと。そうして持ってきた花をそっと添えると、疑問が一つだけ湧いてきた。
──あいつの好きな花って、なんだったっけ。その話はしてなかったな。永遠の別れの前にいろいろな話をしつくしたつもりだったが、まだまだ話すことはあったのかもしれないな。
おっと、ガラでもねえ。
ま、命日くらいは、それでもいいか……
「おう、来てたのか、和成」
「……桂木? 美月も?」
「ああ。
墓石の前で少しぼーっとしていると、俺の来た逆方向から、桂木夫妻と──その間にできた、今年四歳になる子供が三人でやってきた。
もう子供は望めない、と医者から宣告されていた美月だったが、何の奇跡か、桂木との間に新しい命を授かった。あいつが死んでからすぐのことだ。
前置胎盤とかだったらしく危険性は高かったようだが、帝王切開でなんとか無事に出産したようだ。
しかし美月が妊娠したのは、奇跡というより、たぶん桂木の執念に近いな。尚紀の分を上書きするくらい、必死で中出ししたんだろ、どうせ。
美月は、自分の腹から新しい生命が誕生したことをきっかけに、少しだけ心が前向きになったようだ。そのおかげか、出産からしばらくして真弥が死んだことを聞かされても、あの時みたいに自死を選ぶほどに病まなかった。そのかわり、あのときのような気の強さはどこかへ消えてしまったけど。
たぶん美月は、一生届かない贖罪の言葉を吐きながら生きていくのだろう。まわりが赦しても、自分が自分を赦さずに。
それはそれで美月の自由だが、自分の娘にそれをぶつけることはしないでほしいもんだ。
ま、美月の性格が180度変わったおかげで、こいつらに真弥との半年間を話さなくて済んで助かっているんだけど。この内容だけは、誰にも話すつもりはない。
「パパー、つかれた。だっこして」
「はいはい、よ……っと」
娘にねだられ、即座に応える。桂木は桂木で、もうすっかりパパの雰囲気をまとっていた。有り体に言うなら、若々しさがなくなった。言い換えれば、頼りがいのある男になった、ともいえる。
「……美弥ちゃんも、大きくなったなあ」
「ああ、重くて仕方ねえよ」
一年半ぶりに会っただろうか、桂木の娘──美弥ちゃん。
何を思ってそんな名前を付けたのかはわからないが、最初に訊いたときにはびっくりしたもんだ。
『子供が産まれたら……女の子なら、美弥、って名前にしたい』
真弥と話をしていて、ありえない未来のこともたくさん話した。
憐れみと自虐と後悔と切なさと恐怖と、それでも捨てきれない希望の中で、真弥が漏らした言葉。
真弥が堕ろした子供は、女の子だったのかもしれないな。
堕胎したことが心のどこかに引っかかって、死の間際まで取れなかったことは間違いない。
たとえ望まれない子だったとしても、真弥がこうなってしまうと分かっていたなら、義父も無理やり堕胎などさせなかったのかもしれないが。
それも、『いまさら』、である。
「……真弥ちゃんは、どのあたりにいるんだろうな」
俺が黙ってしまったことをなにかと勘違いしたのだろう、桂木がそう言って空を見上げた。
俺もつられて、顔を上へ向ける。
「さあな。だが、もう苦しむことがないなら、それでいいさ」
雲のない青空は高かった。今まで見た中でいちばん。
どこかで、俺を呼んでるような声がきこえそうなくらいに。
「……真弥ちゃん、ギリギリまでモルヒネを使わなかったんだって?」
「……そうだ。見てられなかったから、説得したけどな」
桂木は誰から聞いたのだろう、そのことを。まあ知ってる人間は限られている、が。そんなことはどうでもいい。
真弥は、自分が苦しむことが贖罪になると信じて、かたくなにモルヒネ使用を拒んでいた。麻薬を使うことで、正常な心で俺と話せなくなることを恐れた、という面もあるだろうが、あの苦しみようをはたから見ていた俺はとてもじゃないけど気が気じゃなかった。
──もうこれ以上、苦しむ必要はないんだ。俺は真弥を赦したのだから、少しでも穏やかにすごしてほしい。
俺の説得を聞き入れてくれた真弥は、そこで緊張の糸が切れたのか。緩和治療を始めてすぐ、天国へと旅立ってしまった。
いや、地獄かもしれないが。それでも現世の苦しみよりは穏やかだろう。
俺が味わった苦しみと、真弥が死ぬ前に味わった苦しみ。どちらがより深いか、なんてわかりきったことだ。
もう、真弥に対する憎しみなど、何も残っちゃいない。
そうしてやっと、俺たちは対等なパートナーになれたんだから。
だが、俺が赦さなかったら。
ひょっとすると真弥は、今でも生きながらえていたかもしれない、なんて柄にもなく思ってしまうのは、俺がまだ完全に吹っ切ってない証拠かもな。
「……そういや、茉莉さんは元気か?」
そこでふと、もうひとりの犠牲者のことが頭に浮かび、つい桂木に訊いてしまう。
「……ああ、相変わらず、元気だ」
「結婚の予定とかは?」
「……おまえがそれを聞くか」
「……すまない」
「まあいいさ。残念なのか幸いなのかわからないが、もういい歳だってのにいまのところ結婚前提に付き合ってる男の影すらないぞ。たぶん、誰かを待ってるんじゃないか?」
「……」
「赦したなら、縛られるな。たぶん、真弥ちゃんも望んじゃいないさ」
「……きれいごと過ぎて、反吐が出る言葉だな」
「はっ、俺がきれいごと言わないで、だれが言うんだよ」
「……違いない」
シニカルな笑い顔になる俺ではあったが、桂木の胸にはそんな俺のことなど気にも留めないお姫様がひとり。
「ねーねー、この青いおはな、なんていうおはななの?」
俺が墓の前に供えた花束から覗く青みがかった花を指さして、美弥ちゃんが無邪気に疑問を口にする。
当然ながら俺がわかるわけもない。桂木もだろう。
だが、わかる人間はひとり、いた。
「美弥、そのお花はね……『ネモフィラ』っていうのよ」
「ねもひら? ふーん、いままでみたことないおはなだけど、かわいいおはなだね! ねーねー、ひとつほしいなー?」
「それはお供えだからだめよ……」
「えー!?」
母親と娘の会話。
まあ、なんともほほえましいもんじゃないか。購入者が割り込んであげよう。
「別にそのくらい、構わないと思うぞ。はい、美弥ちゃん、どうぞ」
俺は、花束から覗く一本のネモフィラをとって、美弥ちゃんへ渡した。
「いいの? ありがとー、かずなり!」
すると、美弥ちゃんが満面の笑顔で、そうお礼を言ってくる。なぜか、美弥ちゃんは俺のことを呼び捨てで呼ぶのだ。
──だれかと、重なるな。
「こーら、美弥? かずなりおじちゃん、って言わなきゃだめだぞ?」
「おじ……おい桂木、せめてお兄ちゃんにしてくれ」
「茉莉を待たせるようなやつはおじちゃんで十分だろ」
「……はぁ」
縛られてるつもりはないけど。
俺が何かをするためには、茉莉さんに赦してもらわないとダメだってわかってんのか、桂木は?
「……」
そう思いつつ、傍らでふと気になったネモフィラの花言葉を、スマホで検索してみる。
「……ま、いっか。別に美弥ちゃんなら、呼び捨てでも、赦す」
「おいおい……まあ、別に和成がそれでいいならいいんだが……ほかの人にはちゃんとしてるんだけどなあ、不思議だ」
「いいだろ。こんなに空が高い日だ、すべてを赦すさ」
そこで俺は言い訳するかのように、スマホから目を離して、もう一度空を見上げた。
ああ、今の俺には高すぎる空がちょっとだけまぶしいから、このまま目を閉じさせてもらおうか。
そうすれば今以上に、きっと前向きな、優しい気持ちになれるはずだから。
──『あなたを、赦します』
Fin.
マインド・スワップ 冷涼富貴 @reiryoufuuki
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