第2話 始まり

 時間はどんどん過ぎていく。和寿かずとしの練習の為の時間なのに、と思うのに、涙はそれからしばらく続いた。ようやく止まったのは、いったい何分後だったか。


「ワタル。落ち着いたか?」


 和寿の問いに頷いたが、彼の顔を見られない。


「和寿。最近泣いてばかりで、僕は恥ずかしいです。もう、一生分くらい泣いたんじゃないかな」


 顔を背けたまま、言った。


「一生分? ダメだぞ、ワタル。少しは残しておけよ。いつか、オレが死ぬだろう。その時、お前に泣いてほしいからさ」


 その言葉に、思わずワタルは和寿の方を向き、


「何でそんなこと言うんだよ。ずっと、ずっと先のことだろう」

「でも、いつかは誰でも死ぬんだから。そうだ。オレ、その時お前にピアノを弾いてもらいたいな。いつもの曲。ショパンの『別れの曲』。まんまだけど」

「和寿……」


 和寿は、ワタルの頬を撫でて、笑った。


「そんな真剣な顔しなくていいだろう。冗談だよ。冗談」

「もう、こんな話はしたくない」


 また泣きそうだったが、我慢した。和寿は、「ごめんね」と言って笑顔を見せた。そんな顔をされたら、簡単に許してしまう。かなわない、と思った。


「和寿、ごめんね。練習時間が、あと二十分になっちゃった」


 ワタルがあやまると、和寿は笑って言った。


「もう、今日はいいよ。それよりさ。今日は、お前がプロを目指すって決めた大事な日だからさ。もっと別の曲をやろう」


 渡された楽譜を見る。


(シューベルトの『ソナチネ第一番』……)


 和寿と初めて合わせた曲。


 和寿の方を見るとワタルに微笑み、「弾こう」と言った。ワタルは頷き、ピアノの蓋を開けた。和寿が楽器を構えるのを確認するとすぐに、Aアーを鳴らした。和寿がペグを回して音を決めていく。


「それじゃ、テンポはこのくらいで」


 ピアノのふちを叩く。合図が来て弾き始める。


 バイオリンを弾く和寿の背中を見ながら、ワタルは思いを巡らせていた。


 プロになるまで……いや、プロになってからも、様々な困難が起こるだろう。

二人の関係を続けていく上でも、困難はあるだろう。


 が、逃げずに立ち向かおう。そうすればきっと、何か答えを見つけられるから。


 曲が終わると、和寿はワタルの方に振り向いた。


「終わったー」


 笑顔で言ったが、ワタルは首を振った。


「違うよ。これから始まるんだよ。僕は、もう逃げないから」


 和寿の目を、見つめながらはっきりと言った。


 和寿は楽器を置くと、ゆっくりとワタルのそばまで歩いてきた。


「そうだな。これから始まるんだよな」


 和寿はワタルの髪に触れると、


「オレも逃げないよ。お前と、ずっと一緒だ」


 そう言って、和寿はワタルを強く抱きしめてきた。


 ずっと、一緒に。


 その願いを叶える為に、絶対逃げない。


 ワタルは、心の中で強く誓った。


(完)                    

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ずっと、一緒に ヤン @382wt7434

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