2.果てしなき幻想にまどろむ

 暗闇がまぶたを閉ざしていた。目を開こうとしても重くのしかかったそれは、『僕』の意識が浮上することを拒絶する。どうあがいてもつかめない霧のように、暗闇をはねのけようとしてもまったく手ごたえがない。


 それでも抵抗していると不意に腕が動いた。それと同時に全身の感覚が覚醒していく。強く腕に力を込めれば、確かに体がここにあるのだと教えてくれる。そうか、僕は『戻って』こられたのか――。


「……ねえ、聞こえているの」


 ささやかな呼び声に、『僕』のまぶたは自然と開かれていた。だが、それでもなお視界は深い闇に閉ざされ、自分の居場所すら判然としない。静かに停止した暗夜へと堕ちていくような感覚に、僕はわき上がる恐れをこらえながら声を張り上げた。


「だれだ。ここにいるのか……!?」

「いるわ。ずっと私、ここにいるの。あなたはどうして気づかないの『ドゥセル』」


 黒いドレスの裾をなびかせ、ひとりの少女が闇の中に浮かび上がる。星のない夜であっても輝きを失わない月の銀色の髪が音もなく揺れ、同色の瞳が冷たく僕を見下ろす。


 そのまなざしを向けられていると、心の奥がひどくざわめいた。まるでふたをして閉ざした記憶が必死に呼びかけているような――もどかしくも逃げ出したいような感覚。


 だけど結局、僕は少女と目を合わせた。逃げ出すことなど考えもつかなかったし、そもそもこの状況ではどこへ行こうと同じだった。

 僕の視線を受けて、銀色の瞳ははっきりと嫌悪を示した。険しくひそめられた眉もそのままに、少女はこちらに向かって指先を突き付けてくる。


「どうしてあなたはまだここにいるの。私を裏切り、この幸福の庭を破壊しようとしたあなたが」

「君が僕を本当はどうしたかったのか、正直僕にはよくわからない。僕はここに送り込まれたいわば『駒』でしかないんだ。君が……どんな思いで幸福の庭を守ろうとしているのかも……はっきりと理解できるわけじゃない。だけど、君が」


 徐々に記憶が輪郭を取り戻していく。目の前の少女は悲しげに僕をにらみつけている。そうされる理由も、そうしなければならない意味も分かってはいたけれど、僕が『僕』でしかない以上、伝えられる言葉は一つしかない。


「君が、『アンナ・ベル』が……もしまだ現実に見切りをつけていないなら。この『ゲーム』を終わりにしないか。それが君を守ろうとした人たちに報いることになるはず――」

「勝手なことを言わないで」


 強い声で僕の言葉を遮って、少女――アンナ・ベルは背中を向けた。何も聞きたくない、何も知りたくはない。はっきりとそう告げてくる背中に、僕はかける言葉を失った。


「勝手なこと、言わないでよ……! みんな、皆もう死んでしまったのよ。ヴェインもペンも、マリナだって他のみんなだって! もう二度と生き返らない。みんな私を残して、いなくなってしまったのだわ」

「君の言う『たった一度きり』が、まだ確定していないとしてもか」


 ぽつりと落とした言葉にどれだけの意味があったかはわからない。けれど目の前で震えていた背中は、少しだけ反応を返した。それでも頑なに振り返ることのない少女に向かって、僕はできる限りの想いを込めて言葉を投げかける。


「まだ、誰も死んでいないかもしれない。いまならまだ、すべてを救い上げることができるかもしれない……! それなのに君は現実から目を背けて、何もなかったことにするつもりなのか!? アンナ・ベル!」


 どうすれば彼女の心に届くのか、まったくわからなかった。ここにいたのが別の人間であったなら、もしかするとアンナ・ベルは喜んで首を縦に振ったのかもしれない。しかし僕はどうあっても『ドゥセル』でしかなく、どう転んでもアンナ・ベルが求める者ではありえなかった。


「ドゥセル、あなたの言う通り。皆が生きていてくれたとしたら」


 背中の向こうで、少女はどんな顔をしているのだろう。笑っているのか、泣いているのか。それとも怒っているのか。この場から動けない僕には確かめるすべはないのだけど、不思議とアンナ・ベルが何の表情も浮かべていないことだけは、理解できた。


「どんなにいいかと……そう思うけれど。もう無理なの、私。私……ここから帰るための鍵、なくしてしまったの」


 迷子の子供のように呟いて、アンナ・ベルは闇の向こうへと去っていく。どんなに手を伸ばしても、頼りないその背中には届かない。


「アンナ・ベル……! 待ってくれ!」


 どんなに呼んでも、アンナ・ベルは最後まで振り返らなかった。

 彼女にとって、真の意味での寄る辺はこの世界しかないのだろう、失われた者たちを配置して心を慰めることでしか、自分の存在を確かめられない。そんな悲しい世界から自らを解放する方法すら、アンナ・ベルは忘れてしまっている。


「だったら、思い出させればいいんだろう……?」


 可能不可能の問題ではない。もし、ここで僕が諦めることになったら、本当の意味でこの世界は終焉を迎えるのだろう。誰も救われず、皆等しく死んでいく。その中に僕自身も含まれるのなら、僕だって簡単にあきらめることなんてできない。


「まだ、何も終わりになんてできない」


 手を伸ばす。すると世界は簡単にひび割れて、闇の中から別の像を結び出す。ばらばらと音を立てて崩れていく空間の先には、異様な紫色の空とまっすぐに佇立する漆黒の塔が見える。


「あんなにきれいな場所だと思ったのに。崩れればこうなるのか」


 周囲を見渡しても、塔以外の建造物は存在しない。どうやら、ここが『葬儀屋』の言うゲームの盤面であるようだった。だとしたら、あの塔には悪い死霊術師であるアンナ・ベルがいる――。


「悪い死霊術師、か」


 前に向かって歩き出しながら、自分の体の状態を確認する。どうやら再生はされているようだったが、木偶人形の体から伝わる感覚は鈍い。もしかすると、たましいがこの体から離れようとしているのかもしれない。そう考えると時間はあまりなさそうだった。


 軽く地面を蹴り、塔に向かって走り出す。漆黒の塔は天を貫くほどに見えたが、近づいてみると基盤は明らかにあの屋敷であり、漆黒の色は単なるフェイクのようだった。


 黒い世界を注意深く観察しても、中の様子はうかがい知れない。いつまでも周囲をうろついていても、収穫はなさそうだった。仕方なくそばの黒い壁を押すと、簡単に体はすり抜けていく。


「…………!」


 顔が通り抜けた瞬間、少し前までの世界と目の前の光景の断絶に驚いた。

 目の前に広がっていたのは、穏やかな午後の日差しに照らされた庭園だった。青々とした生垣と、小さな花が咲くかわいらしいアーチ。白い石畳が敷かれた道は、苔むした古い邸宅につながっている。


 あまりの変化に周囲を見渡すと、庭園の奥に巨大な木が生えているのが見えた。その下からは、誰かの笑い声が響いてくる。異様な状況だったが、僕は慎重に足を進めていく。


「………?」


 果たして、木の下には誰もいなかった。ただ、先ほどまで誰かが遊んでいたかのように、ゲームの卓と人形が置かれている。しばらくそれを眺めて、僕はゆっくりと背後を振り返った。


「ずいぶん、楽しかったんじゃないのか。この頃は」

「ええ、そうですねぇ……。ずいぶん遠い昔のことのような気もしますが」


 視線の先で、骸骨紳士は優雅な礼をする。



 ヴェイン・M・オスロー。

 アンナ・ベルの忠実なしもべは、かすかに骸骨の顎を揺らして笑った。

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死霊術師アンナ・ベルと幸福の庭 雨色銀水 @gin-Syu

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