第三部「Re:アンナ・ベルと幸福の庭」

1.そして、夜が明けることもなく

 まぶたを開く。

 それだけで心の中に凝っていた重みがよみがえってくる。ああ、『僕』はやはり誰も救えなかった――。無情な事実が心をさいなみ、無意識に再び目を閉ざそうとする。


「だめだ、眠るにはまだ早い――起きろ、『ドゥセル』」

 険を含んだ声が、遠ざかる意識をつなぎとめる。無理やりにまぶたを押し上げると、視界の向こうに黒ずくめの男が立っていた。

「……誰だ?」

「誰だ、とはご挨拶だな。一度破壊されたくらいで、君はすべて忘れ去ってしまえるのか? それはとても幸せな思考回路だ」

「何だいきなり……誰だか知らないけど、放っておいてくれよ。『僕』は疲れたんだ」


 記憶はあの瞬間――アンナ・ベルに破壊された場面で停止していた。それ以上のことはわからず、今の自分の状態も思い出せない。ただ、無音の空間に横たわり、静かに底なし沼のような暗がりへと落ちていくだけだ。


「ドゥセル」


 男が一歩、足を踏み出した。それだけで暗がりの空間にひずみが生まれる。ぱりん、と乾いた音を立て、はるか底に存在するガラスの鏡面にひびが入る。


「諦めるのか? ここで君の物語は終わりでいいんだな?」

「物語? ここで終わりって……どうせ、僕はもう死んでいるんだろう?」

「…………」


 男は足を止め、無言で僕を見下ろした。闇を映す黒い瞳には、わずかばかりの冷めた感情が浮かんでいた。憐憫? それとも軽蔑だろうか?


 どちらにせよ、僕にとってそんな感情は無意味だった。どうせ死に逝く時間を、永遠の一瞬に引き伸ばしているだけの現在なんて、どうやっても肯定しようがなかったから。


 無感情に男を見上げると、やつは軽く首を振った。そもそもこいつは誰なのかな。どこかで見た気もするのだけど、記憶にきりがかかったようではっきりとした形をつかめない。


「閉じた箱は、まだ開かれていない」


 男は囁くように言って、僕の前でひざを折った。意味の掴めぬ言葉に、僕は自然と眉を寄せる。どういう意味だ。視線だけで問えば、男は軽くうなずきかけてきた。


「まだ、すべての結果は確定していない。箱が開かれて初めて、あらゆる人間の生死が確定する。――むろん君についてもだ、ドゥセル」

「……つまり?」

「つまり……」


 言葉を切ると、男はすっと指を僕の口に押しあててきた。思わず唇を開くと、何かが口の中に転がり落ちてくる。甘ったるい、砂糖菓子のような味が広がり、僕は改めて相手を『見た』。


「――お、お前は!」

「いいかい、ドゥセル。まだ本当の意味では、誰も死んではいない」


 男は黒い瞳を細めて、僕の唇から指を離した。口の中はいまだに甘ったるく、記憶もはっきりとはしない。だけど、一つだけ分かったことがある。


「だから、アンナを救うことだって――あるいは、君自身の命を拾い上げることだって、出来るはずなんだ」

「それを信用しろっていうのか? 僕にアンナ・ベルを殺させようとした……『葬儀屋』、お前のことを?」


 僕の苦い言葉に、男――『葬儀屋』は短く息を吐き出した。


「事実を否定はしない。確かに『自分』は、君を利用してアンナを『解放』しようとした」

「解放だって? 単に殺そうとしただけじゃないか!」

「……一面だけを見れば、そうだな。だが、このアプローチは失敗だったようだ。結果、『庭』はさらなる変質を起こし――ほら」


 『葬儀屋』は頭上を指さした。すると、先ほどまでは何も存在しなかった暗闇に、一粒の球体が浮かび上がった。赤黒く染まったガラス玉のようなそれは、血を滴らせるような輝きを周囲に投げかけている。


「これは……?」

「アンナの『庭』だ。彼女の願いと希望と――そして、叶わなかった幸せが詰まった箱庭」

「アンナ・ベルの……? じゃあ、今まで僕がアンナ・ベルに出会った世界は、これだったのか?」

「そうだよ。本質的に言えば、この世界は夢や幻に分類される概念世界だ。君たちが本来存在する世界とは、時空が断絶している。ゆえに、ここで記録された物語はこの中だけで終結し、外の現実からは永遠に観測されない。……箱のふたを、開くまでは」


 僕はゆっくりと首を横に振った。理解が追い付いてこない。この世界が幻のたぐいだということには、まあ、同意してもいい。確かに現実の理屈に合わないようなことが、いくつもあったからだ。


 けれど、概念世界だの時空がどうだと言われても、腑に落ちなかった。何かを誤魔化されている気さえしてしまう。


「お前の言っていることは何もわからない」

「そうか。そうだろうな……。これが神との真剣勝負でなかったら、『自分』だって思考を放棄していただろうしね。なら、一つ分かりやすいたとえをしよう」


 『葬儀屋』は疲れたように笑った。どこか諦めきったような風情に、僕は眉根を釣り上げた。裏で糸を操っていた人間がいるとしたら、間違いなくこいつなのに。そんな顔をする道理がどこにあるというのだろう?


「ドゥセル。これは、死の間際に見る夢だ。もし、この夢から醒めることができれば、君は現実に戻り生き続けることができる」

「……醒めなかったら?」

「無論、死ぬだけだ。この世界からもはじき出され、たましいは円環の中に戻る」


 つまり、どういうことだろう。僕が何かをすれば……アンナ・ベルを助けられれば? 僕は生きて戻ることができるということなのか。


 だが、ふと疑問がよぎる。アンナ・ベルはあの世界に満足していたのではないか? ならば、助けるとは一体、何を意味しているのだろう――?


「どうすれば、僕は生きて戻ることができる?」


 疑問を抱えたまま、問いかける。『葬儀屋』は闇色の前髪をかき上げ、至極真面目な表情で言葉を吐き出した。


「それは簡単。……『あの世界』を割ってくれ」

「割る? 破壊するっていうことか……!?」

「若干語弊があるが、そう。世界の核を割れば、あれに接続されたすべてのたましいは元の位置に戻ることができる。平たく言えば、生き返ることができる」

「なんでそんなことが……神様でもあるまいし」


 僕の言葉に、『葬儀屋』は苦い笑みを浮かべた。先ほども神がどうとか言っていたが、まさかこいつが神様だなどと言わないだろうな。


「仕方ないさ。これは『命を司るもの』が始めたゲームだからね。神というものに公平さを求めても、人間の論理だと笑い飛ばされるだけだ」

「その、まさか。いるのか、神が」

「いるよ。何度が君にも接触しているはずだけどね」


 『葬儀屋』は事も無げに言って、立ち上がった、いろいろ言いたいことはあるが、今はいいだろう。現状、重要なことがあるとしたら。


「僕は一体どうすればいい。世界を壊すなんて簡単に言ってくれるが、何をすればいいんだ」

「アンナの認識を動かせばいい。一度目は死によって概念を破壊しようとしたが、無理だった。残された方法は、現実を認識させることによって概念を覆すことだけ……とはいえ、これは容易な話ではない」

「完全に詰んでるじゃないか。アンナ・ベルのことをほとんど知らない僕が、どうやって現実を認識させられると?」


 さすがに困難が大きすぎて、どう手を付けていいのかもわからない。いらだちを込めて『葬儀屋』をにらめば、やつは何でもなさそうな顔でうなずいてみせた。


「ゲームをクリアするんだ」

「何言ってる?」

「悪い死霊術師であるアンナ・ベルを倒して、ゲームを終わらせるんだ。そうすれば、世界は自然と役目を終えて消えていくだろう」

「だからなんだよ、ゲームって! まさかこの世界自体がゲームか何かなのか!?」

 悪い冗談だ。しかし、『葬儀屋』が否定することはなかった。

「神が始めたゲームの盤面だ。極めて精巧にできていても驚くことはない」


 すでに僕の理解を越えている。とりあえず、僕がやるべきことはアンナ・ベルを倒すこと、なのか? どうやって? 魔術師や鳥を従えている槍の少女を倒せるのか?

 ぐるぐると疑問だけが頭を回って、どうにかなってしまいそうだ。悩んでいる僕にやっと気づいたのだろう。『葬儀屋』は指を鳴らして、手のひらを差し出した。


「何だよ?」

「お守りだ。あまり力はないが、ないよりはましだろう」

 改めて『葬儀屋』の手を見れば、そこにはまがまがしい輝きを放つ黒い石が――。

「呪いのアイテムか?」

「それに近いな。ゴーレムの核だし。……君が錬金術師なら、役に立てるかもしれない」


 ないよりまし。実際その程度のものだろう。受け取るだけ受け取って、僕は再び『葬儀屋』を見上げる。

 この男のことを信用する気にはなれないが、状況をどうにかしたいという意思だけは信じてもいい気がした。……我ながら少々お人よしが過ぎる気はしたものの。


「さあ、そろそろ時間だ」

 『葬儀屋』が僕の手を引く。引き上げられるままに立ちあがった僕は、同じ目線になった男を再びにらみつける。

「お前は行かないのか」

「行かないのではなく、行けないんだ。できれば直接介入したいくらいなんだが、それはルールに抵触するから……。どうあっても、君に頼るしかない。頼むよ、ドゥセル」


 何やら男にしかわからぬ裏事情があるようだった。すまなげに眉尻を下げた『葬儀屋』に構わず、僕は頭上の球体を見上げる。


「行くしか、ないか」


 自分の生死がかかっているにしては、軽い言葉だった。だが、先の見通しも立たない現状では、このくらい適当な方がいいかもしれない。


 僕が手を伸ばすと、球体はゆっくりと舞い降りてくる。きらきらと輝きながらも、血色の染まった『それ』――アンナ・ベルの『庭』を見つめ、僕はそっと呟いた。


「じゃあ、行ってくる」

「ああ、頼む。……」


 球体に指を触れさせる。表面は冷たくも温かくもなく、空気に触れているように触覚も働かない。不思議な感覚が腕を伝い、僕の視界いっぱいに光が広がって――。


「ドゥセル」


 『葬儀屋』の声が、耳元で響いた。どこか後悔のにじむような声音で、男はその思いを紡いでいく。


「死霊術師なんて名乗ったところで、アンナの本質はいつだって『たった一度きり』だ。二度目はないんだ。それだけは知っていて」


 赤黒い光の中に落ちる刹那、『葬儀屋』の黒い目が僕を見た、気がした。



「本当はわかっているんだ。君を巻き込んだことは間違いだって。だけど、『アラン』には――『ドゥセル』しかいなかったんだよ」

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