7月13日 ホワイトラム
その話はそれで終わり、俺は彼と海の話を続けた。意気投合して、前後不覚になるまで飲んで倒れた。
そして翌日。二日酔いの頭を抱えながらも、念願だったキミシマ環礁で潜った。客は俺ひとりだけ。ガイドはパラオから渡ってきたトビ人で、小柄だが技術が凄い。ウエットスーツも着ず裸にBC、つまり浮力調整ジャケットを背負っただけで、ダイコンすら巻いていなかった。
ろくに英語も話せないようで、「
深くまで入ったので、ダイコンの
もうこうなると、彼の脳内にダイコンが埋め込まれているとしか思えない。それほど優れたコース取りだ。
もし減圧指示が出ると、浮上前に浅い水深で何分か待機しないとならない。そうやって血中から溶存窒素を抜かないと最悪の場合、窒素が血中に溶けきれなくなって血管内で気化――つまり沸騰――し、「減圧症」という症状を引き起こす。よほど深刻な場合は、後遺症が残る。
いずれにしろキミシマ環礁は珊瑚が豊富に残る手付かずの海で、とても繊細な海中光景だった。ミクロネシア的というより、沖縄的な。
すっかり満足した俺は、ホテルに戻るとシャワーを浴び、上機嫌で夕暮れのバーに乗り込んだ。名前も知らない例の米国人と、環礁の話を交わしたくて。
バーには誰もいなかった。昨日は多くの客でにぎわっていたのに。バーテンも今日は暇そうだ。とってつけたようにそれだけ新しい、中国製壁掛けテレビのスポーツ中継を、観るともなしに眺めている。
ビールのお代わりを頼むとき、彼に話し掛けた。
「今日は寂しいな。誰もいなくて」
なんとも言えない表情で、バーテンは瞳を覗き込んできた。
「……ああ」
黙ってビールを置いた。今度は目を見ずに。
「昨日の常連はいないのか」
「昨日のって……」
「米国人さ。大柄なダイバーで。俺と亀の話をしてたじゃないか」
「あんた日本人だったな」
ひそひそ声になっている。
「そうさ。お前も訊いただろ。日本人ならシンジ・アイザキを知らないかって。今日、ダイビング船の船長に教えてもらったよ。なんでも昔、日本のプロ野球で活躍してたらしいな。チューク人との混血で——」
「オールドジムだ」
バーテンは、俺の話を遮った。
「なんだよそれ。……シンジ・アイザキだろ」
「その男さ。時代遅れのマレスのダイコンを巻いてたろ」
どうやら昨日の米国人のことを言っているようだ。
「オールドって称するほどには、老けてなかったけどな」
「日本人だから出たのさ、ジムが。彼はここでスキューバのガイドをしていた。二十年くらい前だったか、潜水中に行方不明になるまでは」
「……それって」
「一緒に潜った客が見ていたそうだよ。ジムが日本兵のゴーストと海底に消えるのを」
俺は言葉を失った。あれは彼の身の上に起こった話だったというのか。そして俺が会話を交わした男は……。
「昨日あんたが飲んだとき、ここにはあんたしかいなかった。いつでもそうさ。このホテルの客はだいたい、食堂に行くか部屋で飲むからな。今日も客はいない。昨日と同じ」
「じゃああれは……」
「日本人のダイバーが来ると、ジムと仲間はちょくちょく出てくるんだ。話をしに。……ときどき海面に浮いて呼吸するイルカみたいなもんさ」
「仲間?」
「ああ。ジムと同じく、ダイビング中に消えた米国人さ。必ず米国人だ。何年かに一度は、そういう事故がある。水中で誰かが目を離したとき、いつの間にかいなくなるんだ」
では昨日のあの大勢の客は、全て行方不明になった米国人ダイバーだったというのか。日本兵の幽霊に海の底へと引き込まれた……。
俺はバーテンを見つめた。チューク人の彼は、日本と米国のかつての因縁について、特になんの感情も抱いていないように思える。酒で荒れた瞳が、どんよりこちらを眺めているだけだ。
「ジムに恨まれてるのか、日本人が。それで化けて出てくると」
「さあ」
バーテンは首を傾げた。カウンターの後ろから酒瓶を取ってショットグラスを置き、透明の酒を満たす。
「飲め。俺の奢りだ」
強いホワイトラムを、俺は一気に胃に流し込んだ。ひりひりと、心と体が内側から焼けてゆく。
俺の姿を、貝の亀がじっと見ていた。瞳を歪めたまま。
ラムの瓶を握ると、突然、バーテンがマスコットに振り下ろした。うら寂しい店内に、貝の割れる大きな音が響いた。
「前からムカついてたんだ、こいつ」
呆然とした俺に、眉を片方上げて笑ってみせた。
「もう壊す頃合いさ」
「……そうかもな」
何事もなかったかのように破片を片付け、清潔な布で、バーテンはカウンターをきれいに拭いた。俺は彼にビールを奢り、ふたりでシンジ・アイザキについて会話を交わした。
亀は粉々になった。あの陰気な瞳は、この世界とはもう無関係さ。
しかし俺は気付かなかった。マスコットの首がもげ頭が飛んで、ボートパンツのポケットに入り込んでいたことを。それは日本に戻ってから発見された。
皮肉な笑みを浮かべた頭は、今もまだ手元にある。仕事用のデスクの上で、俺の人生を観察するかのように。
(「亀を壊す」 了)
亀を壊す 猫目少将 @nekodetty
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